きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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愛嬢(愛婆?) 百個(モモコ)、
   初体験の朝陽輝く雪原を往く!
2005.2.27
自宅庭にて
 

2005.3.2(水)

  050302.JPG    娘の高校卒業式に出席してきました。卒業式の写真は後姿ばっかりで全く面白くないので割愛。代りに花と愛嬢百個の写真です。花は高校からもらってきました。娘が行っていた高校は100年近い歴史のある農林高校で(娘は普通科ですが)、園芸科の卒業生が育てた花を父兄にくれたものです。おっと、父兄は死語、今は保護者ですね。
 無学をさらけ出しますが、花の名は判りません(^^;

 それにしても呆気ない卒業式でした。淡々として、昔なら涙を流す先生や生徒もいたのに、みんなアッケラカンとしていました。荒れないだけマシなのかもしれません。卒業生の答辞も大人しかったなあ。私も高校卒業のときは答辞を読みましたけど、もっと過激でした。「在校生諸君は、もっとこの学校を変えよ! 先生のための生徒ではないぞ!」なんて檄を飛ばしたんですけどね…。そんな大人しい子をつくってしまったのは親の私たち世代の責任なのかもしれません。もっとも、気性が激しければいいというものでもありませんけど…。

 そんなことを考えさせられた一日でした。




秦恒平氏著『湖の本』エッセイ33
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2005.2.28
東京都西東京市
「湖(うみ)の本」版元 発行
1900円
 

 今号は「谷崎潤一郎の文学」。1972年から1989年にかけて筑摩書房より出版された単行本の復刻です。谷崎潤一郎といえば「細雪」「痴人の愛」程度しか知らず、性愛作家と思い込んでいたのですが、相当フトコロの深い作家だったことが判ります。世の批評家は谷崎に好意的に人は少なかったようで、川端康成研究会のような谷崎潤一郎研究会が今だに(たぶん)存在しないことがその表れのようです。

 谷崎の三人目の夫人に秦さんは引き合わされたようで、そこから得た資料をもとに論述していく部分は特に圧巻です。批評家に対する批評はそれをもとに行っていることもありますが、やっぱり秦さんの読みの深さには圧倒されます。谷崎に対するに評に「だって、そんなことは小説のどこにも書かれていないではないか」というのがあるそうですが、秦さんに言わせれば「判るように書くのだけが小説ではない。すぐには判らないように書くのも小説だ」ということになりそうです。これって、詩の書き方に近いなと思います。

 谷崎の作品が好きな方も多いでしょう。そんな方にはぜひ推薦したい本です。文学の読み方に迷っている人にもお薦めです。なぜ文学は面白いのかが判ります。



隔月刊詩誌『石の森』126号
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2005.3.1
大阪府交野市
交野が原ポエムKの会・金堀則夫氏 発行
非売品
 

    わこうど    四方彩瑛

   帰った
   みんな年寄りになっていた
   おじいちゃん、おばあちゃん、と
   呼んでいた人ではなく
   年寄り、という生き物になっていた
   油絵の具をのせたような
   あれほど濃厚な
   祖父の声、祖母の指が
   薄っぺらく、なっていた
   おじいちゃんの家へ行ってくる
   と言ったら嘆かれた
   帰る、のではなく、行く、のかと
   動詞の恐ろしさを教えた母は
   行ってあげなさい
   と今では平気で言う

   私はいわゆる
   若い人、という生き物になっていた
   彼らが、年寄り、になったのではなく
   私が違う生き物になってしまったのか
   あの少し前の生き物は
   どんなものだったのか
   思い出せない
   この町は こうやって
   人の数が減っていくのだろう

 最終連の「この町は こうやって/人の数が減っていくのだろう」というフレーズがちょっと怖い作品ですね。その前兆として「年寄り、という生き物になっていた」「私が違う生き物になってしまったのか」などの詩句があると思います。そうやってみんな「あの少し前の生き物」から変ってきたのですが、そこを面白い表現で捉えているのだと云えましょう。人間について考えさせられた作品です。



個人詩誌HARUKA 18』3
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2005.4.1
大阪府交野市
交野が原ポエムKの会・金堀則夫氏 発行
非売品
 

    お面    山田春香

   祭りの出店に掲げられた
   キャラクターのお面の数々
   特にヒーローのお面が
   憧れだった幼少の頃の私
   大人におねだりする子どもたちが皆
   お面をつければ憧れに達する想いを
   どこかに抱えながらいた

   十八のいま
   私は誰かにねだることもなく
   お面を合わせ持っている
   世間を知ることで
   知恵がつくことで これから先
   膨大なお面を私は
   とっかえひっかえしていくだろう
   そう
   人によってその多くのお面を
   使い分けていくのだ
   なにも不器用だって関係ない
   使えばその分だけお面は私に密着する
   そのうち無意識に顔には薄い膜が張って
   それがお面だなんて
   自分でも装着の瞬間に気づけなくなる
   素の顔があまりにも弱いから
   お面が私を保護するのだ
   お面が膜を重ねて層となり
   本当のお面になってしまわぬように
   私は一日の終いごとに
   膜をはぎ取り
   リセットしなくてはならない
   化粧を落とすような爽快感はなく
   自分の手で膜に触れるわけでもない
   感情を自分に集中させ
   リラックスの集まる場所で
   原形を包む膜をはがしていくだけだ
   痛くもかゆくもなく
   はがれた感覚もなく
   だけど心は落ち着いている

   心がお面を作り出すから
   心とお面は繋がっている
   誰も気がつかない薄いうすい膜
            
しんちゅう
   誰にも読み取れない心中とよく似ている

   私が外出するとき
   すでにお面は私の顔に沈む
   現実にもまれるたびに
   心は新たなお面を
   設計しているのかも知れない

 18歳の作者の初々しさがよく出ている作品だと思います。特に最終連の「現実にもまれるたびに/心は新たなお面を/設計しているのかも知れない」というフレーズが佳いですね。私たちも知らず知らずのうちに「新たなお面」を着けてきたはずなんですが、もう、そんなことさえも忘れています。しかも「外出するとき」どころか家にいるときでも変えているのではないかと思います。フッと自分を振り返ってみた作品です。




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