きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
  050227.JPG    
 
 
愛嬢(愛婆?) 百個(モモコ)、
   初体験の朝陽輝く雪原を往く!
2005.2.27
自宅庭にて
 

2005.3.8(火)

 定時後は職場のボウリング大会でした。私は写真班を依頼されて、ゲームをしたり写真を撮ったりで忙しかったのですが、楽しませてもらいました。珍プレーが続いて笑いっ放しでしたね。一番笑ったのは自分自身です。ターキーの後はガターのダブル。ちなみに得点は1回目132点、2回目90点! ま、実力はこんなもんです。約100名の中で69位は、実力を考えるとまあまあでしょう。

    050308.JPG    傑作な写真がいっぱい撮れたのですが、なかでもお薦めはこれ。題して「クソッ!」というところでしょうか。背後の4ピンが流されていくのが笑えます。

 スポーツというものは基本的には如何に失敗を少なくするかなんですが、ボーリングも同じですね。どんなに頑張っても300ピン、あとは減点だけのスポーツというのも辛いなぁ(^^;





詩誌『砕氷船』10号
    saihyousen 10.JPG    
 
 
 
 
2005.2.25
滋賀県栗東市
苗村吉昭氏 発行
非売品

    字霊    森 哲弥

    日記と手紙以外はワープロを使っている。パソコンを
   使うのはeメールの時だけである。依頼原稿を先様に送
   る場合はワープロ入力分をテキストファイルにかえてメ
   ール送信している。最初からパソコンを使えばいいのだ
   が未習熟である上、起動までの時間がもどかしいのであ
   る。万年筆のキャップを外してすぐ字を書くような感覚
   に近いのはワープロである。じゃあ、いっそ機械を使わ
   ず万年筆を使えば、ということになる。これとは違う意
   味合いでまだワープロも使えなかつた時「あんなもので
   は書き手の魂が入らない」とうそぶいていたこともあっ
   た。しかし仕事で使わざるを得なくなり、序でに「詩」
   も作るようになるともうワープロでしか「詩」が書けな
   くなってしまった。清書の必要がないとか、挿入が容易
   である。とかでなく「字」に余分な爽雑物が入らないこ
   とで気持ちが楽になった。万年筆で文章をかく時は字と
   文章が不即不離の状態である。自身の性格や、その時の
   体調までが筆跡に反映し、それが視覚を通して大脳に届
   いて表現しようとする世界に微妙に影をおとすので、表
   現世界をピュアに保とうとするときの妨げになる。文章
   作成機は字と文章を感覚的に別の物としてくれた。そこ
   では字が文章に融合することはない。ヘミングウェイの
   初期短篇にみられるハードボイルドはタイプライター抜
   きに考えられぬであろう。一方日本的私小説は自己の性
   癖や体調が直に滲み出る書字によってこそより濃密な達
   成がえられるのではないかと思う。

    手紙は直に、相手と対して伝えたい事柄を文章に託す
   のであるから自己というものが伝え切れる範囲で精一杯
   伝わるほうがいいし、そうすることが誠実でもあるから
   万年筆で手書きしている。

    かつて文書作成機でもなく手書き行為でもない「字」
   の様態が在った。それは活版印刷における「植字」であ
   る。植字台の上に一本一本鉛の活字をたてていき版を作
   る行為である。この時植字工の脳裏にあるのは「字」た
   だそれだけである。字に魂があるとして、それに触れる
   ことができる本当の人間は、有名な書家でもなく、詩人
   でも学者でもない、字を植えることができる植字工だけ
   だったと思う。活板印刷がなくなり「植字」は死語にな
   りつつある。字霊は今何処を彷徨っているのだろう。

 今号では詩ではなくエッセイを紹介してみました。切れるところがなく、結局全文紹介となりましたこと、ご了承ください。原文では空白行がありませんが、画面での見やすさから段落で空白行を挿入してあります。
 非常に重要なことを言っていると思います。私もワープロ・パソコンでの文章作成についてはいろいろ考えてきたつもりでしたが、「『字』に余分な爽雑物が入らない」という観点はありませんでした。しかし言われてみると「文章作成機は字と文章を感覚的に別の物としてくれた」というのはその通りで、納得できます。何か目の前の霞が取れたような気分です。

 「植字」についての考察も名言だと思います。私事ですみませんが、私は中学・高校のアルバイトで文選工や植字工をやっていました。今から40年も前の話です。確かに「この時植字工の脳裏にあるのは『字』ただそれだけ」ですね。文意に注目するのは禁物なんです。キャラクターとして字を見ることが肝要でした。「字霊」を判っていたとは思いませんが、今にして考えると、それはあったのかもしれません。佳いエッセイを読ませていただきました。



文芸誌『蠻』140号
    ban 140.JPG    
 
 
 
 
2005.3.15
埼玉県所沢市
秦健一郎氏 発行
非売品
 

    不在証明    山浦正嗣

   抜け落ちた自分の根っこに
   死んだ時間が居座っている

   キルトのような
   古い時間を切り裂いて
   向こう側の
   新しい時間を探している

   今の時間が
   新しいのか古いのか
   合わせ鏡に写してみるが
   どちらにも
   自分は居ない

   ひとりの時間は
   一本の木の孤独のようで
   人と居る時間は
   満員電車のように窮屈だ

   時間に企みがあるのか
   白に黒を混ぜて
   黒に白を混ぜて
   どちらも灰色に薄められ
   日月譜は不在のままだ

   新しい時間と一緒になれば
   少しは話ができるのに
   時は
   招かざるものをつれてくる

   過去に流れ去った時間は
   浄化されずに
   根っこに集まり
   居座り続ける

   時間に墓場は
   ないのだろうか

 最終連が印象的な作品です。「時間」の「墓場」とは、佳い詩句だと思います。「死んだ時間」を受けた言葉と採れますが、この観念は初めて目にしました。「抜け落ちた自分の根っこ」に「居座っている」、「居座り続ける」時間、「時間」の「企み」など難しい哲学的な命題ですが、「どちらにも/自分は居ない」というのがひとつの解答だろうと思います。「不在証明」というタイトルとともに考えさせられた作品です。




   back(3月の部屋へ戻る)

   
home