きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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愛嬢(愛婆?) 百個(モモコ)、
   初体験の朝陽輝く雪原を往く!
2005.2.27
自宅庭にて
 

2005.3.12(土)

 昨夜はひどい目に遭いました。と云っても私が悪いんですけどね…。
 午後すぐに1本のメールが入って、呑みに行かないかと誘われました。昨夜は呑み会が予定されていなかったので、久しぶりに金曜の夜は20時頃まで仕事をしようと思っていたんですけど、もちろんすぐにOKの返事を出しました。帰りは同行の奥様が車で送ってくれるというので、安心して呑んでいたのです。地元の銘酒「丹沢山」、お馴染みの「浦霞」を呑んで、気付いたら4合を過ぎていました。これはちょっと危ないなと思ったら案の定、帰りの車には抱えられて乗る始末。いつも自宅近くの神社の境内で下ろしてもらうのですが、そこで降りようとしても腰が砕けて降りられません。件の奥様は昔、同じ職場で働いていて、何度も呑みに行っている仲間ですから「少し車の中で休んで行けば?」と云ってくれたので、甘えてしまいました。

 1時間もウトウトしていたでしょうか。眼が覚めても動けません。これは100mも離れていない自宅にも帰りつけないと思って、玄関先まで送ってくれるように頼みました。奥様に支えられて玄関を開けて、大声で嫁さんを呼んで、やっと部屋に辿り着きました。嫁さんが平身低頭で奥様に謝っている声を聞きながら爆睡…。まったく、情けない話です。

 あとで嫁さんに聞いたら、帰って来たのは0時過ぎだったそうです。よその奥様を0時過ぎまでつき合わせてしまって、申し訳ない。ご亭主は私の高校の後輩ですからよく知っています。今度会ったら謝っておかなくちゃ。それにしても最近、酒に弱くなっているなと思います。日本酒を外で呑むときは3合まで! 肝に銘じます。
 そんなわけで、今日予定していた日本詩人クラブの例会には欠席しました。夕方まで二日酔いで苦しんでいました。誘ってくれた会員の皆さん、すみませんでした。




田川紀久雄氏著詩人のための朗読講座
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2005.3.20
東京都足立区
漉林書房刊
1500円+税
 

 『漉林』にも連載されていた「詩人のための朗読講座」をまとめたものですが、2003年7月15日から10月16日までの全30話。朗読に対する著者の思いがひしひしと伝わってきます。

    テキストとは、朗読者にとっては一体なんでしょうか。それは、活字を越えた魂の振動を聴
   き手と分かち合うことではないでしょうか。テクストを黙読していても、優れた作品には、そ
   れなりの感動を感じることはできます。では黙読から朗読への道はどこに分岐点があるのでし
   ょうか。
    まず初めには、作品を読んでいて、自然と声がでてきて音読を始めた時、黙読と違った経験
   を味わうことでしょう。声が自然と昂揚してきます。黙読していた時に味わうことのできなか
   った感動が、自分の内なる心の奥から込み上げてくるのを確かめることができます。この黙読
   の時に味わうことのなかった感動を、他の人にも味わってもらいたいという欲求がうまれてき
   ます。といってそう簡単に音読した感動を他者にも伝えることができないことに気付きます。
   そこで、始めて黙読と音読はまったく異なっていることを思い知らされます。大抵の人は、こ
   の時点で朗読者になることを諦めてしまうのです。

 紹介したのは「十九日目の講義・詩の言葉と朗読の関係」の冒頭の部分です。黙読と音読の違いとは何か、その上での朗読の難しさを端的に述べていると思います。私もそれなりに朗読らしきものをやってきましたが、昨年、著者を秦野市の喫茶店にお呼びしてライヴをやってもらいまして、それを聴いたとたん「朗読者になることを諦めて」しまいました。何気なく書かれているこの言葉の裏にある著者の努力を知ってしまったのです。この本にも書かれていますが、毎日2時間・3時間の練習をしないと「音読した感動を他者にも伝えることができない」のです。それは自作詩であっても同じことでしょう。

 著者は朗読の復権を訴えていますが、テキストを読むだけの現在の朗読≠ナは無理なことです。毎日2時間とまではいかなくても、せめて朗読の前の日まで1週間なり2週間なりの練習をしないと復権どころの話ではないとつくづく思いました。朗読をやる、やってみたいという詩人は意外に多いのですけど、一度この本を読んでから考えた方がよいでしょう。そんな甘いものではないぞと考えさせられる本です。



詩と評論・隔月刊誌『漉林』124号
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2005.4.1
東京都足立区
漉林書房・田川紀久雄氏 発行
800円
 

    ロードソング    亀田道昭

   今日も
   未明の国道をひた走る

   すれ違うヘッドライトが
   頬をかすめて流れ去る

   行き交う魂の群れは
   何処へ向かうのだろう

   私の目の前には
   長く伸びた一本の闇が続いている

   道の端にたたずんだ男が一瞬
   何かを叫んで背後へと消え去った

   あのときもそうだった

   白い布で覆われたあなたの傍らで
   冷たい月のひかりに照らされて
   この国道をひた走った
   闇夜へと続くこの道を

   あれから七年、
   ずっとこの闇の中を走って来た

   そしてこれからも
   走り続ける暮らしの果てで
   私たちは一人一人が
   ちいさな明かりを一瞬放って
   すれ違い
   そして
   ふたたび会うこともないのだ

   それが私とあなたの出会いと別れ
   行き交う車の流れの中で
   道はいくつも合流しては分かれて
   いつしか私も自分一人のわき道を
   走っている

   今日も
   未明の国道を
   貫く思いがひた走る
   迎える朝の光の中で
   しだいに消えてゆく
   小さな星の
   最後の輝きのように

 表面的には「すれ違うヘッドライトが/頬をかすめて流れ去る」とありますからジョギングをしている状態を想像すれば良いと思います。しかし、それはただのジョギングではなく「走り続ける暮らし」を謂っているんですね。そこには「長く伸びた一本の闇が続いてい」たり、「道の端にたたずんだ男が一瞬/何かを叫んで背後へと消え去った」こともあったし「白い布で覆われたあなた」もいた、と解釈しています。問題は「今日も/未明の国道を/貫く思い」とは何かだろうと思います。そのひとつの答が「行き交う魂の群れ」だろうと私には思えるのです。平易な言葉の奥を考えさせられる作品です。



機関紙『漉林通信』2005年4月1日号
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2005.4.1
東京都足立区
漉林書房・田川紀久雄氏 発行
非売品
 

    死にたくても死ねない    田川紀久雄

   とうとうアパート代を支払う金がなくなってしまった
   夜逃げ同然で越さなければならない
   六十を過ぎても年金はない
   好きなことをして生きてきたのだから
   自業自得といえばそれまでのこと
   漉林書房をなんとかして維持していかなくてはならない
   それ以外に生きる道がない
   といってそれほど仕事がない
   私の同年代の詩人や画家たちも
   わたしとそれほど変らない状況に置かれている
   自殺者が増えているのも肯ける
   助けてと叫んでも
   誰も当てにはできない
   出来ることは何とかして生きることへの執着だけは持
    っていないと

   文明が豊かになったが
   はたして人間の生き方が豊かになったかは別な問題だ
   かえって人々の仕事がなくなり
   社会の砕から外されたひとたちは
   生きる術をなくし
   ホームレス化していくしかない
   巨大な不安感が全世界を覆っている
   平和の名を借りたテロ狩りが
   正義という名で罷り通る世界になっていく
   そこには人の生命の尊さはうしなわれ
   劣化ウランで犯された町があるだけだ
   十歳にみたない女の子がガンに犯されている
   治療する人もなく
   死を待つ子供の姿があちらこちらに
   ゴミ屑のように置かれている
   死んでも死にきれない
   子供達の夢はどこに消えていったのか

   絶望を背負った一人の私は詩人
   だから言葉をもって闘うしかない
   助けてという声に
   いくらかでも力になれる言葉を
   いまはただ祈ることしかできなくても……
               (二〇〇五年二月二十二日)

 腹の底からの叫びが伝わってくる作品ですが、如何ともし難い、というのが偽りのない気持です。せめて、「といってそれほど仕事がない」状態に対して何かできるか…。詩集や詩誌の発行を視野に入れていますけど、今日、明日というわけにはいかないし…。ひとつ、詩らしきものを書いて載せてもらおうか、と考えている次第です。
 それにしても「文明が豊かになったが/はたして人間の生き方が豊かになったかは別な問題だ」というのはその通りですね。そこが現代の病巣だろうと思っています。




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