きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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桜(春めき)
2005.3.25
神奈川県南足柄市・春木径にて
 

2005.4.23(土)

 市ヶ谷の私学会館で開催された「山脈」創刊55周年記念祭に出席しました。3年ほど前に辞めた同人雑誌ですが、懐かしい人たちに会えました。この3年は私が日本詩人クラブの地方大会・関西大会に行かなかったこともあって、関西方面の同人たちとは、それこそ3年ぶりにお会いしたことになります。皆さん、お元気そうで何よりです。

 私学会館のすぐ近くに会社が契約しているホテルがあって、夜はそこに泊りました。ツインで何と2100円! ヘタに酔って帰るよりは安心。ツインですが、もちろん一人で泊っています。ですから二次会も帰りの心配がなく、最後までつき合うことができました。



 

房内はるみ氏著『庭の成長』
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2005.4.25
東京都港区
新風舎刊
800円+税
 

   庭の成長
    庭について 8
    小さな力が……(1月) 10
    やさしい浮力 (2月) 13
    前奏曲    (3月) 15
    おそれ    (4月) 18
    不思議    (5月) 21
    きらめき   (6月) 24
    ふくらみ   (7月) 28
    成熟     (8月) 30
    去りゆくもの (9月) 33
    静止     (10月) 36
    交響曲    (11月) 38
    ラスト・ミュージック(12月) 42
    毒草のある庭 47

   木霊のささやき
    松林 (春) 52
    松林 (晩秋) 54
    合歓(ねむ)の木 56
    さくら 59
    (ぶな) 61


 序にあたる「庭について」の最後で、著者は次のように述べています。「庭を歩きながら、また窓ガラスの内側から外を見ながら、庭という空間と、心の中を流れた時間とを、縦糸と横糸のようにして、タペストリーを編んでみる。これは、そんなふうにして、つれづれなるままに綴
(つづ)った詩とエッセイである」。目次でも判るように庭の1年を綴っています。著者自身の詩は3編ほど。その中で「交響曲(11月)」の冒頭に置かれた作品を紹介してみましょう。

   力つきて枝からはなれた葉が
   よじれ そりかえり
   終
(つい)のかたちになって 飛んでいく
   風がふき
   枯れ葉は 枯れ葉をよび
   大きくうずまく
   ひらく風
   とじる風
   みだれる風
   風はまだ 行き先をきめていない

 「ひらく風/とじる風/みだれる風」が素晴らしい。私も風が好きでいろいろ書いてきたつもりですが、こうは書けませんでした。「ひらく」「とじる」という見方に脱帽です。
 詩人の眼を通した「庭」は、一味違った植物でいっぱい。ご一読をお薦めします。



詩誌『裳』88号
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2005.2.28
群馬県前橋市
裳の会 発行
年間購読料2500円
 

   <詩>
   死者への来信 2              佐藤 惠子
   器 4                   神保 武子
   曇り空 6                 宇佐美俊子
   バッカスよ 8               篠木登志枝
   此処 10                 志村喜代子

   <連載>
   ガラスの肖像 12             房内はるみ
   エミリー・ディキンスン私論(4)生いたち(V)

   <詩>
   図面 22                 宮前利保子
   山茶花 24                金  善慶
   花びら 26                高村 光子
   朝の庭 28                須田 芳枝
   空 30                  真下 宏子
   蝋梅忌 32                曽根 ヨシ
   本棚 34                 曽根 ヨシ
   眠り 36                 曽根 ヨシ

   後記
   表紙「橋」                中林 三恵
   詩  サクラガイ             中林 三恵


    曇り空    宇佐美俊子

   傘を電車に置いて来てしまった
   窓の景色が天気予報を忘れさせた
   皆忙しく乗り降り
   人に声を掛ける時間などない

   一か月後
   カードを引き当てたよう
   逆のことが起こった
   隣に座った人が
   傘を窓際に置いたまま
   降りようとして歩きだしたのだ
   同じように気付いた少女と
   目が合った

   忘れたまま降りていった人
   咄嗟に声を忘れた私と
   言えなかった言葉
   間が悪いことってある
   雑誌を読んでいて
   気持ちの切り替えができなかったと
   言い訳はできるが
   傘を忘れて降りたのは
   この間の私だ
   一瞬時間は止まり
   空回りする思いに縛られ
   曇り空から困惑した顔が
   見ていた

   あれから傘は
   やり残した宿題のように
   柄を預けたまま私にぶら下がって
   電車に乗るたびに
   足を引っ掛けるのだった

 これは誰にでも経験があるかもしれませんね。私自身が傘を忘れることは滅多にないんですが、「傘を窓際に置いたまま/降りようとして歩きだした」人には何度か遭遇しています。そのときは「咄嗟に声を忘れ」てしまうんですね、これが。でも、私の思いはそこまで。「言い訳」を考えたり、ましてや「電車に乗るたびに/足を引っ掛け」られたりはしません。要は薄情なんだろうと思います(^^; 作者との人格の違いを見せつけられた作品です。

 12頁から21頁まで費やしている房内はるみさんの連載論考「エミリー・ディキンスン私論」はおもしろい視点がありました。ディキンスンの手紙は有名ですが、それに関して次のように述べています。

        ひとりだけの淋しい部屋で、藁をも掴む思いで
   手紙を書き続けるエミリー。その姿は、うまく他人と付き
   合えず、インターネットに溺れてしまう現代の少女たちの
   姿と重なり合って見えてきてしまう。エミリーの閉ざされ
   た心の内側を探れば、今の少女たちの苦しみが少しわかっ
   てくるのではないか。そんな意味でも、エミリー・ディキ
   ンスンは今日的詩人だ。

 100年前の詩人の今日的意味を見事に捉えています。それが論考に必要な視点だと私は思うのですが、意外と少ないんですね、これが。ご自身のHPでも紹介しているそうですけど、残念ながらURLが判りませんでした。検索に引っかからなかったのでキーワードが違うんでしょうね。判って、ご本人の許可が下りたら紹介します。



詩と評論・隔月刊誌『漉林』125号
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2005.6.1
東京都足立区
漉林書房・田川紀久雄氏 発行
800円+税
 

   詩作品
    木 蘭………………………………………………………………池山吉彬 56
    寸 景………………………………………………………………遠丸 立 58
    ブラックホール…………………………………………………田川紀久雄 60
    雨は裸の花束 はしばみの実 <続> ……………………………酒井文麿 62
    渇 仰………………………………………………………………野間明子 70
    黎 明……………………………………………………………須藤美智子 72
    <日常> ヘ ――7…………………………………………………坂井信夫 74

   短歌
    三幕劇………………………………………………………………保坂成夫 46

   エッセイ
    エロスと死の慾動−フロイトの『文化への不満』を読む−…高橋 馨  4
    内海康也論−グローカリズムの転回−…………………………泉谷 栄 16
    島村洋二郎のこと(9) ……………………………………………坂井信夫 54
    悲しみだけを力いっぱい………………………………………田川紀久雄 84


    寸景    遠丸 立

   わやわやわやわやわやわや
   女児の一団と擦れ違う
   声たちのフラダンス
   あったかーい靄
   のような気団が移っていく
   (熱台風の移動!)
   エネルギーはみるみるうちに遠ざかる

   本屋の店先
   幼稚園児だろう
   鮮やかな色 野太い線画
   一心不乱に絵本を立ち読みしている
   表情は真剣そのもの
   据った日
   没頭するおとなの顔だ

   子どもの掌
(て)をにぎる
   ひんやり 湿っぽい洞窟
   小児磁気が飛び弾ねる
   (磁気が霧散するときが来る
    ……おまえはただのおとな)

   おとなはこどもの抜殻なんだ

   抜殻と抜殻
   擦り合い 打ち合い こすれ合い
   熱まで とど 放散
   事件≠フ山を拵えている
   それが世の中だと思っていた
   けれど 本当は
   ほら 路上にしゃがみ込み
   股倉ひらき
   地面を睨まえ
   仲間と遊びに夢中

   子どもたち
   突っ立って眺めるわたし
   夢中の子ども、視ているわたし
   一線に煮つめられるのだ
   汎世界の縮景

 「寸景」とは云いながら見ている世界は広いなと思います。最終連の「汎世界の縮景」はまさにその証でしょう。その根底にあるのは、1行で独立している第4連「おとなはこどもの抜殻なんだ」というフレーズだと思います。第2連にも「没頭するおとなの顔」とあるように、もともとは「おとな」の部分を持っているのでしょう。それが脱皮したにすぎないのかもしれません。おもしろい視点の作品です。



個人紙『田川紀久雄通信』創刊号
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2005.4.1
東京都足立区
田川紀久雄氏 発行
非売品
 

    淋しさだけが    田川紀久雄

   不安がいっぱい
   桜が満開
   風に吹かれて
   いつのまにかみんな花が散ってしまった
   淋しさだけが
   空に残っていた

   みんな何に向って生きているのだろうか
   だれも言わない死のことを
   生きていること自体が
   不安なのだから
   生きていることに連なっているすべてが
   その人の人生であるかのように
   その間を
   冷たい風や
   生暖かい風が吹いている

   不思議に哀しみだけが
   いまの私を慰めてくれる
   そっと何かに向って祈りを捧げる
   何処からともなく
   バッハの平均律が流れてくる
   光が窓から射してくる
   哀しみの向う岸に
   私を包んでくれる
   温もりを感じた

   この街ともお別れ
   猫の友達と別れるのが辛い
   何も知らない猫は
   また
   私の部屋の窓辺に来て
   じっと窓が開くのを待つことだろう

   淋しさだけが
   空を包んでいた
        
(二〇〇五年三月二十三日)

 仕事場は残るようですが、住み慣れた足立を離れて川崎に移住する直前の作品のようです。作者の生き方を思うとき、「みんな何に向って生きているのだろうか」という問には重みがあります。「生きていること自体」の「不安」は誰にでもありますけど、「不思議に哀しみだけが/いまの私を慰めてくれる」とまで言い切る強さは私にはありません。作者の生き方を見ているしかないのだろうと感じた作品です。



個人紙『田川紀久雄通信』2号
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2005.4.5
東京都足立区
田川紀久雄氏 発行
非売品
 

 エッセイ「踏んだり蹴ったり」の中に次のような箇所がありました。

    本の出版も、インターネットのおかげ
   で売上が毎年落ち込んでいっている。電
   子本もそれなりに出ているが、私はそれ
   を使って本を読む気にはなれない。
    本は、やっぱり紙に印刷されたものを
   読みたい。インターネットはあくまで情
   報を集めるものでしかない。それ以上で
   も以下でもない。苦労して自分の足で情
   報を集めないから、だれかれも似通った
   ものに仕上がってしまう危険がある。
    古本屋を歩いて、偶然に出会う本も楽
   しいものである。無駄のない人生なんて
   面白みがない。

 「インターネットはあくまで情報を集めるものでしかない。それ以上でも以下でもない」というのは、その通りだと思います。やっぱり「苦労して自分の足で情報を集め」たものの強さには敵いません。それがホンモノの情報だとは、インターネットをよく知っている人なら誰でも思っていること。過信もしないし卑下もしません。所詮、道具なんです。



個人紙『田川紀久雄通信』3号
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2005.4.20
東京都足立区
田川紀久雄氏 発行
非売品
 

    詩を生み出すエネルギーとは、ひたす
   ら詩を書かずにはいられないという気
   持を持続させる生き方ができるかどう
   かではなかろうか。
    詩は、女々しいという人がいるが、そ
   れは詩の本質をしらないから言うので
   ある。女々しいどころか、書く行為は、
   とても厳しいも
のである。生半可では一
   行も言葉がでてこない
。しばらく詩を書
   いていないと
、詩の言葉がすぐには出て
   こない。生活に没頭されてしまうと、詩
   の神は、その人から離れてしまう
らしい。
   いつも詩の神様とうまく付き合ってい
   ないと詩はなかなか生まれて
こない。な
   んでもそうかも知れないが
、ものを生み
   出すということは、とて
も厄介なことな
   のだろう。詩を書かせてもらうことは、
   その人の宿命がそこにあるからなのか
   もしれない。

 エッセイ「詩を生み出すエネルギー」の後半部分です。確かに「生活に没頭されてしまうと、詩の神は、その人から離れてしまう」ようです。本当は生活を捨ててでも「詩の神」の到来を待たなければいけないのでしょうが、凡人には無理ですし、「詩の神」がそこまでの価値を認めてくれないだろうと思います。しかし詩は好きですし、傲慢なようですが、それなりの「その人の宿命がそこにある」のだろうと思っています。



いしい さちこ氏詩集『山』
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2005.4.30
東京都東村山市
書肆青樹社刊
2200円+税
 

   T 手
    鎌と鍬 14
    煙 18
    赤い船 20
    桑摘み 22
    赤い着物 24
    キッチン・ゴッド 28
    親子ガメ 30
    耳よりな話 34
    鏡のなかのアリス 38
    ババ薬局 42
    線香花火 44
    埴輪 46
    日のあたる場所 48
    手 50

   U 風
    厳冬 56
    坂 60
    蔵 64
    不審火 68
    蝶になりたい 70
    風 74

   V 山
    春の野外舞台 80
    イエロー・ペリル(黄禍) 84
    あの山の下に 88
    大根 92
    山もくっきり 94
    お天ぷら先生 96
    伊那語 100
    観世音経 104
    柿 108
    帰郷 110
    山 114
   あとがき 118


    

   目の前に立ちはだかる
   山があるから
   自分の人生はひらかれないと
   おもっていた
   山は大きな壁だった

   山から吹きおろす冷たい雨風
   問いかけようとして仰ぎ見ると
   霧にすがたをくらました
   信州の山はきびしかった

   いま旅人として訪い
   仰ぐふるさとの山々
   深くやさしい
   新宿発松本行き「あずさ号」が
   甲府をすぎるころから
   わたしの気持ちが浮き立ってくる
   この空気のなかでわたしは大きくなった

   忘れようとしたふるさと
   おそれていた山々
   いまはもういない人々
   わたしの行く道に いつも
   光をともしつづけてくれていた
   いま山にむかって わたしは
   無心にこころをひらく

 添えられていた書面には、著者が4月5日に亡くなったとありました。ショックでした。2003年9月に出版された第一詩集『おじいさんのうた』に感動して、11月の出版記念会に出席させてもらいました。そこで初めてお会いしたのですが、品の良い女性でしたからファンになってしまったのです。
 ゲラ刷りまではご覧になったが、本の完成を待たずにお亡くなりになったそうです。ご本人もさぞ心待ちにしていただろうと思うと、残念でなりません。
 紹介した作品はタイトルポエムで、目次でご覧のように詩集の最後に収められています。他の作品にも出てきますが「山」に対する並々ならぬ思いが伝わってくる作品です。具体的な家族の詩も佳いのですが、こういう抽象化した作品にも境地を開こうとした矢先だったのではないかと推察しています。ご冥福をお祈りいたします。




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