きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2005.8.3
馬籠「藤村記念館」にて
 

2005.8.26(金)

 25〜26日、福岡県に出張しました。いつも通り、行きは新幹線、帰りは飛行機です。台風が来ていまして、行きで静岡あたりで大降りになりましたけど遅れもなく順調でした。

    050825.JPG    写真は行きの新幹線の車窓から。どんよりとして台風の影響があるのが判ると思います。
 25日の夜は久留米に弊社メンバーが集まって懇親会。「なかなか」「吉兆宝山」「佐藤黒」と、焼酎ばかり呑んでいました。明日は仕事ということで、日本酒は自粛しました。呑み出すとキリがないですからね。

 その懇親会で驚いたことがひとつ。今回初参加の、東京本社の若い男が持っていた携帯は、パソコンで作っている普通のHPがそのまま見られるんですね。拙HPの話になって、URLを教えろと言うので教えたら、何と携帯からアクセスしている! ちゃんと写っていました。以前は携帯用のHPをわざわざ開設したりしていたのですが、今はそんな必要がないんです。時代の速さを感じます。

 26日の仕事は順調に終って、帰りの飛行機は台風の影響もなく揺れずに飛んでくれました。そうそう、福岡空港に早く着いたので、予約したANAを早めようと交渉したのですが、満員でダメ。それではとJALに行ってみたら、こちらはガラガラですぐに変更できました。JALは一連の不祥事で客離れが進んでいることを実感しました。企業は信用第一なんですね。私も心します。




一人誌『粋青』42号
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2005.8
大阪府岸和田市
粋青舎・後山光行氏 発行
非売品
 

  <目次>
   詩    ○―――――――――― カンナ(9)
        ○――――――――― 木漏れ陽(10)
        ○――――― ちょうちょの時間(12)
        ○――――――――――― 人生(14)

   スケッチ             (8) (17)
   創作   ★みどり色の海が見えはじめたら(4)
   エッセイ ●絵筆の洗い水(18)      (16)
        ●自祝 創刊十周年を迎えて  (18)
        ●舞台になった石見【32】
         「琴姫伝説」仁摩郡仁摩町  (20)
   あとがき
     表紙絵:ちょうちょ  2000年 春



    木漏れ陽

   晴天の日など
   木漏れ陽の積るなかを
   勤務先に向かう
   若葉の薫るなかで
   春の落葉がたまっている
   差し込んでくるひかりがゆれる
   このような一瞬があることは
   新鮮な感動だ
   かつて何でもなかった事に
   驚く自分を発見して
   ふたたび驚く
   人間が生まれながらにして
   けっして全てが平等ではないように
   風にゆれる
   ひかりのなかを通過する
   平均的にはあたらない
   まだら模様がゆれ
   気持ちが清清しくなる
   わずかな時間であっても
   今までながく
   気付かなかった風景に
   私がはめこまれていくことを
   実感する
   感動

 1995年に始まった個人誌も、今号で10周年。1999年開設の拙HPでは15号からしか紹介していませんが、限定30部の創刊号からいただいており、僥倖に感謝しています。
 紹介した詩は「かつて何でもなかった事に/驚く自分を発見して/ふたたび驚く」というフレーズに魅かれた作品です。人間も50を過ぎて60の声も聞くようになると、この意味がよく判ります。若いときには見過ごしていたことに気付く場面が多くなるんですね。
 「人間が生まれながらにして/けっして全てが平等ではないように」「平均的にはあたらない/まだら模様が」あることにも納得するようになりました。せめて機会だけは平等にと思いますが、私たちが生きている間は無理だろうなとも感じます。
 20周年、30周年と続けてほしいですね。そして「感動」する作品をこれからも見せていただければと思います。陰ながら応援しています。




萱野笛子氏詩集『花車草紙』
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2005.8.8
高知県高知市
ふたば工房刊
1905円+税
 

  <目次>
   竹籠  8
   石仏  12
   今は昔  16
   新月橋  20
   花車  24
   補陀落渡海  28
   花の浮橋  32
   流人の墓  36
   狐  40
   萱草  44
   ほどく  48
   しなの0号  52
   関所  56
   背負子  60
   不帰の  64
   頭陀袋  68
   花になる  72
   葬沢  76
   飛ぶ車  80
   蛇の衣  84
   鬼女  88
   方程式  92

   あとがき  96
           表紙装丁 乙丸みち



    補陀落渡海

   心が疲れたわって言ったら
   助手席の人が運転すると言って利かない
   しぶしぶわたしは助手席に座る
   身体が疲れているのじゃないのよって言うと
   心が疲れるのは身体が疲れているから
   居眠りしていたらいいって言う

   ちりりんと鈴の音がする
   道が曲ったりでこぼこだったり
   車が揺れるたびに鈴の音がする
   わたしが居眠りしている間に
   路肩の蓬の中で行き倒れていた
   歩きお遍路さんを後部座席に乗せたと言う

   歩きお遍路さんは最後の清流の大河を渡し舟で越えるそうな
   矢切の渡しみたいな 江戸風な粋な渡し舟で
   それから
   海辺の南端の岬の札所で
   補陀落へ渡る舟を待つそうな
   補陀落などあるのかしら
   舟はほんとに出るのかしら
   心の中にある舟ですから
   心の中に現われる舟ですから
   舟は希望と絶望の間
(あわい)です
   あわいに賭けてみたいのです

   菅笠で歩きお遍路さんの顔が見えない
   少年僧のような少女尼のような
   記憶の中の少年のような少女のような
   渡海僧のような断崖に立つわたしのような

   ちりりんと鈴の音がする
   でも後部座席には誰もいない

 「心が疲れるのは身体が疲れているから」と云う「助手席の人」の言葉は深いですね。「歩きお遍路さん」はその疲れから現れた幻想と読むことも出来ますが、精神的には常に「渡海僧のような断崖に立」っている「わたし」の世界の喩だと思います。
 その意味では「心の中に現われる舟」をいつも見ている詩集だと云えましょう。車の運転という現代性と「お遍路さん」という歴史性が上手く噛み合った、現代の神話のような、独自の世界を創り上げた詩集だと思いました。




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