きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2005.8.5 長野
戦没画学生慰霊美術館「無言館」
 

2005.9.25(日)

 私と同じ市内に住んでいる妹の家に、私と横浜在住の弟が集まって親族会議を行いました。本来なら長男である私の元に妹・弟が集まって、というのがスジなんでしょうが、妹の家の方が広い(^^; 何せ今時珍しい7人家族ですからね、普通の家の倍はあります。それに駅の近くですし…。
 親族会議の内容は、入院した父親をどうするか、です。父親自身は退院したら老人ホームに行っても良いと妹に言っていたそうですから、これはまあ一件落着かな。80を過ぎた父親は8年前に母親が亡くなってから一人暮しでした。神経過敏なところがあって、実の息子の私が泊っても気になって寝られないというカワリモノ。好きにさせておいたのですが、脳梗塞で入院してからは他人がいる病室で寝るのも慣れたようです。妹に言わせると、若い女性看護師がいっぱい居るのが気に入ったんだって、、、、バカモノ(^^;

 問題は、いま父親が住んでいる家をどうするか…。不甲斐ない父親に代って弱冠23歳の私が建てたという思い出深い家ですが、30年も前ですからね、壊すか売るか…。弟が横浜から引揚げて住むも良し、誰かが買いたいというなら売るも良し、ということにしました。基本方針は出ましたから、ま、父親が退院となって、本当に老人ホームに行くようになってからもう一度考えてみます。
 それにしても、そういうことを考えなければいけない年代になったのだなとつくづく思います。いつまでも若くはないということを、そういうことが教えてくれるのでしょうね。




齋藤氏著『詩と自画像』
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[新]詩論・エッセー文庫(6)
2005.9.30
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
1400円+税
 

  <目次>
   T 瓦礫の中から
     往時茫々私と「詩學」    10
     城 左門さんを偲ぶ     22
     幻の吟遊詩人        32

   U 敗戦 引揚げ
     生涯を一詩にかける     40
     一枚の枯れ葉の上で     54

   V いのちの輪
     生の大きな環を見つめて   70
     大地に生きるマタギのうた  82
     生命を受けつぐ火喰鳥    94

   W 農村 方言 子供
     最初の方言詩集『まるめろ』 104
     自戒と炯眼の詩人      113
     村に生きる         121
     児童文学としての詩     134

   V 日本と朝鮮
     李沂東の聖地        150
     梁石日の青春        162
     遥かな土手         170

      初出一覧 180
      あとがき 182



    終戦    李沂東

   灼熱の裏の木立ちで
   しひやんしひやんと鳴き続けていた蝉も
   待ちに待った今日の重大放送が始まると
   一瞬その鳴き声も止まったようだった
   一台のラジオに隣近所の衆らが集まって
   町は息をのんだかのように静まりかえった

   その日母の墓参の帰り道に
   一人だけの弟を初めて顔見せにともない
   自分の育った興津町の在所を訪ねると
   奇しくもそのお盆の日が重大放送日だった

   想えば五歳になった時だ
   迎えにきた父につれられて
   韓国から母とこの旧家にやってきたのは
   あれから二十年――の歳月
   まさかこの家で終戦の放送を聞くとは
   なんという因縁だったのだろう

   母は来てから四年目にして
   産後の肥立ちが悪く女盛りの
   紫陽花色の若さでこの世を去った
   身寄り一人としていない私は
   この育った家だけはいつも心にかけていた
   母のいない私を哀れんでくれた家族の人達も
   訪ねる度ごとに
   自分の家だと思ってたびたび
   俊
(とし)よ来い来いと言ってくれた

   たまに久々に訪ねてゆくと
   俺
(お)らのあの俊(とし)が帰ってきたと言って
   直ぐに隣近所に知らせ
   そして毎度のように集まった人達は
   如何にも懐かしげに死んだ母の昔話や
   幼かった頃の私の話を聞かせてくれた

   そして帰るともなるとかならず
   俊
(とし)やこれを持っていけ
   俊
(とし)ちゃんこれを持っていきなと
   何かしら持たせてくれたものだ

   父が一体何処から
   興津町のこの在に来たのか
   今となってはお婆さんも次の小母さんも死に果てたので知る由もないが
   ある工事があってこの部落に来た時
   父だけが一人この村の人間になれといわれ
   親方であった此の旧家に残ったそうである
   そして親方の飯場頭となり子分をつれて
   工事現場を廻り歩いたとのことだ

   まるで法事のような静寂の中で
   聞き取りにくいラジオがやっと終わると
   名付けのお婆さんがおもむろに口を開いた
   「俊
(とし)や!今ラジオはなんて言ったずらか?」
   聞いていた人の眠が一斉に私へ移った
   小母さんや義兄
(あに)夫婦や
   近所の人々の眼までが
   うん 聞き取りにくかったがどうやら戦争が終わったらしいよと言って
   それ以上は一言も言わなかった
   本当の話日本が負けたなどとは
   どうしても言うことが出来なかったのだ

   この私が育った家では一つのタブーがあって
   互いに気に障る事は何も言わなかったから
   私は私で気まずくなるような話は何も言わなかったのだ すると
   それまで聞こえなかったはずの蝉が急に
   しひやんしひやんと聞こえてきて
   急にまた真昼の蒸し暑さになった

   終戦になって先ず何よりも嬉しかったのは
   夜昼とない空襲がなくなったことだった
   清々と明るい電灯の下に暮らせることと
   そんな程度の認識しかもたなかった私だから
   強制労働で引張られてきた同胞や
   屈辱や差別の中で暮らしてきた人達のように
   爆発的な歓喜も解放感もなかった
   また戦争に負けたからと言っても
   興津育ちの私は日本人のようには
   哀しくも悔しくもなかった

   それよりもこれからどうするか
   次々に引揚げて行く人々は良いが
   その人々とは違って
   とうの昔に私達には帰る所はあって無かった
   ハングルは勿論のこと言葉も知らないし
   金持ちでもないし
   明日の当てさえもなく
   ただその日その日を生きることばかり考えていた
   混沌とした世相の中で寝ても覚めても
   食べることだけを考えその他の事は
   組織がどうのこうのと誰が何を誘おうとどうでも良かった

 様々な雑誌に書いた書評や詩集の跋文をまとめたエッセイ集です。すでに読んでいた跋文などもありましたが、齋藤さんの包容力のある文章を楽しみながら拝読した次第です。それらの書評の中で、私が最も感激して読ませてもらったのが「V 日本と朝鮮」の中の「李沂東の聖地―岩本俊雄が辿った道―」です。その中で採り上げられていた作品を上に紹介してみました。

 話はまったく個人的なことになって申し訳ありませんが、李沂東という人は私にとって決して忘れることの出来ない詩人です。高校の文芸部の後輩に岩本君という男がいて、彼の父親が李沂東さんでした。1967年の11月に沼津の彼の家に招かれて、そこでお会いしています。そのとき、その年の1月に出た詩集『記憶の空』をいただいたのが、生れて初めて詩人からいただいた詩集でした。もちろん今でも大事に持っています。

 その李沂東さんについて、韓国で生れて5歳で渡日、静岡県興津町で幼少を過したと書かれていました。李沂東という詩人を私は偶然に17歳で知ったわけですが、今回初めて詳細を知ることができ、「終戦」という作品に触れて、彼に一歩深く近づいた気でいます。この喜びは大きいと申せましょう。また、最近注目されている韓国の詩人・金光林をいち早く日本に紹介したのも李沂東さんであった、とも書かれています。自分の詩業に専念するだけでなく、祖国の優れた詩人も紹介するという懐の深さを示すエピソードと云えましょう。
 読み終わって、素直に読んで良かったなあ≠ニ感じたエッセイ集です。




石川早苗氏詩集『アマテカレイ』
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2005.9.14
岡山県総社市
火片発行所刊
1000円
 

  <目次>
   ひぐらしパン
    手間をかける     8   春のほほえみ   12
    とってきたよ     16   夏休み      20
    プールの日      24   キャベツの千切り 27
    秋刀魚を焼いて    30   ひぐらしパン   34
    なみだパン      38   パン人生     40

   病院大奥
    病院大奥       46   病院ランチ    50
    人並みヘルペス    53   病気のヨメ    56
    不生女(うまずめ)  59   遠い遠い     62
    入院なんかコワくない 65   誉めて育てよ   68
    検査室にて      71   一里塚      74
    台所に神様が     78

   右手に神様
    右手に神様      84   ドライブ・ポエム 86
    アマテカレイ     89   いつもの君と   92
    花も嵐も       94

   * あとがき      96



    誉めて育てよ

   月に一度、試験がある
   提出するとその場で採点され
   一カ月の生活態度から
   食事内容
   先生のお言葉を守って
   良い子にしていたかが
   すぐさま数値となって現れてしまう
   とうてい平均値には及ばない
   劣等生だけど
   上がり下がりには結構敏感
   いつも喜んだり落ち込んだりしてる

   でもデータが良ければ
   自分の方針が正しかったと悦に入るのに
   悪ければ私たちを責めるのは
   先生、やめてよね
   頑張れなくなるじゃん

   「じゃあ同じ薬出しとくから。
   来月も診察前に採血・採尿。
   ええか?わかったか?」
   検査結果を渡され
   おとなしく診察室を出る私

   日本の男性は女性を誉めるのがヘタ
   日本の親は子供を誉めるのがヘタ
   そして医者は患者を誉めるのがヘタ

   治療効果を上げるには
   この患者が治るには
   大切なことは何でしょう
   もうちょっとよく考えて
   誉めて育てていただきたい

 膠原病に罹って20年という著者の日常を描いた詩集です。病気のことを描いた散文の著作はあるようですが、詩集として初めてのようです。どういう病気か具体的には判りませんが、20年も継続していることから考えると難病の部類なのかもしれません。しかし詩集は見事なまでに明るい色彩です。1965年生まれという若さのせいばかりでなく、紹介した「誉めて育てよ」という作品でも判る通り、前向きな姿勢が奏功しているのだろうと思います。

 それにしても、確かに「日本の男性は女性を誉めるのがヘタ/日本の親は子供を誉めるのがヘタ」ですね。それに加えて「医者は患者を誉めるのがヘタ」とはよくぞ言ってくれたものです。最近は治療方針の情報開示が進んだこともあって、昔よりはマシかもしれませんが、日本人の特質の一面をえぐり出していると云えましょう。




詩誌『濤』8号
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2005.9.28
千葉県山武郡成東町
いちぢ・よしあき氏方 濤の会 発行
500円
 

  <目次>
   広告  川奈静詩集『ひもの屋さんの空』       2
   訳詩  梗概 他  ルネ・シャール/水田喜一朗 訳 4
   作品  西を向く地図          村田  譲 6
       生き態             浅見 光昭 8
       木喰行道             森 徳治 10
   特集2(第一回)いちぢ・よしあき 私の詩の転々 I 12
   作品  昨今 Y  孫の餌食      山口 惣司 16
       メロポエム・ルウマ    いちぢ・よしあき 19
   書評  かわな静の絵童話
       『プクリとパクリ』を読む    伊地知 元 25
   濤雪  こだわり(4)      いちぢ・よしあき 26
                       受贈御礼  28
                       編集後記  29
   広告  山口惣司詩集『天の花』           31
                   表紙  林 一人



    
ほふら
    雪玉

   俺は一粒の雪だ
   木の枝に積った雪の一粒だ
   仲間よ俺の上に積るな
   ぎゅうぎゅう積って来るな
   重いではないか
   やがて木の枝が撓み
   風が木の枝の俺を吹き飛ばした

   俺は大地に寝そべって人心地がついた
   と思ったのも束の間
   そこの雪よ 『同志よ』 なぞと言って
   俺の上に飛び下りてくるな そっちの雪もだ
   気が付いた時には十耗の塊になって
   斜面を転がり始めた
   最初はそろそろ
   皆面白がってくっついて来る
   少しづつだが大きくなって
   大きくなればくっつく仲間も増えて来る
   転がる力が強くなる
   加速度も次第について来た

   もういゝ加減に俺にくっつくのはやめろ
   藪をなぎ倒すではないか
   潅木をへし折るではないか
   このま、転がればもっと大きくなり
   大木を根扱
(ねこ)ぐではないか
   家を押し潰してしまうではないか
   人が死ぬではないか
   やめろやめろ地球を呑み込んでしまうではないか

   どう仕様もないんだ もう止まりようが無いんだ

                     52・4・3

 いちぢ・よしあき氏による「私の詩の転々I」にありましたから、氏の作品で1952年4月3日作と思われます。ほとんど初期に位置する作品でしょう。私が3歳頃のことですが、戦後7年というその時代をよく現していると思います。「一粒の雪」であった「俺」が「地球を呑み込んでしまう」位に「大きくなって」いった時代…。今では考えられないほどの社会性があったと読み取れます。

 この他に「托卵」「凧」「この街」「Y港の夕暮」という1952〜55年の作品が収録されています。当時、神奈川県大船の文学集団に籍を置いていたという作者の『JAP』を始めとする同人誌の動向が判って興味深いのですが、いちぢ作品を通しての戦後状況に教えられるものが多くありました。猥褻な写真を売りつける少年など、私には書物の中での知識でしかないものが体験として作品化(「Y港の夕暮」)されており、その時代の息遣いを感じる特集でした。




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