きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2005.10.9 栃木県 | ||||
道の駅「もてぎ」にて | ||||
2005.10.26(水)
休暇を取って病院に行ってきました。先週からの経過を診てもらいましたが、あまり良好とは云えないようです。とりあえず薬をもらって帰宅して、あとはひたすら寝るばかり…。疲れているのかなぁ?
○詩誌『坂道』3号 | ||||
2005.11.1 | ||||
さいたま市見沼区 | ||||
坂道の会・ささきひろし氏 発行 | ||||
非売品 | ||||
<目次>
白雪の天山 飯島 正治 4 朔北(さくほく)の旅 ささきひろし 6
終着駅 ささきひろし 8 蓮台野(デンデラノ) 浅井 裕子 10
ワラシゴ 浅井 裕子 12 坂 道 秋田 芳子 14
その日 秋田 芳子 16 猫とやまぶきと 対馬 正子 18
おくることば 対馬 正子 20 舞 踊 林 哲也 22
炭 火 林 哲也 24 上高地 植原 まつみ 26
カレンダー 植原 まつみ 28 前夜式 田中 郁子 30
流れる雲の早さで 田中 郁子 32
茶 房 34
秋田 芳子 対馬 正子 田中 郁子
林 哲也 植原 まつみ
浅井 裕子 ささきひろし (表紙・カット 浅井 裕子)
舞 踊 林 哲也
庭先の藤の花が
風に踊っている
母を久しぶりに訪ねると
小さな身体が少し縮んで
父の写真が若返って見える
父が逝ったあと
母は日本舞踊に熱中した
一人暮らしの寂しさを
紛らわすように
若い日に育んだ情熱が
堰を切って蘇ったのか
その舞踊を
−からだがいうことを効かない
もう人には教えられないから−と
きっぱり諦めた母
和室の隅の小道具が
余熱をもって見守っている
踊る姿は大きく見えた母が
背をまるめて
静かに部屋に篭もる
藤の花片が風に剥がされるように
いま歳月が一刻一刻と
母の身を削いでいる
第1連の「小さな身体が少し縮んで/父の写真が若返って見える」、第3連の「和室の隅の小道具が/余熱をもって見守っている」、最終連の「藤の花片が風に剥がされるように」など魅力的なフレーズが多い作品です。特に「余熱」の遣い方が佳いですね。「情熱」と見事に対応していて、この詩人の力量が現れていると思います。これだけ佳い詩が書けるのは、おそらく母上という人間を見る眼がしっかりしているからでしょう。人間を見る、描くという文学の基本が出来ている詩人だと感じました。
○詩誌『鳥』45号 | ||||
2005.10.10 | ||||
京都市右京区 | ||||
洛西書院・土田英雄氏 発行 | ||||
500円 | ||||
<目次>
岩田福次郎 四十八茶百鼠
螢
鎌たけひと 石柱
路線バス
電車が転覆した
植木容子 黒船再来
続 PARIS雑感 内部恵子
佐倉義信 海をわたる蝶
中東ゆうき サウナ
朝のフェリー
釣り雑感一忘れえぬ人 元原孝司
元原孝司 わかっている
クレス
こする
土田英雄 きょうは何の日
なす・こういち 天にも昇る
お話
雨を聴く木 岩田福次郎
【特別寄稿】神保町裏 新井正一郎
戦争の深層 土田英雄
のたれ死んだ二人−「日本の名画40長谷川利行」「谷中安規版画天国」による
なす・こういち
好色を創作の本義に据えた詩業−由利俊詩集『哂歎記』を涜み解く
土田英雄
表批・カット 田辺守人
きょうは何の日
――平成ウソッポ物語抄より 二〇〇五年八月六日 土田英雄
朝のニュースには
おびただしい黒服や供花が並ぶ
葬いか 何かの追悼らしいが
画面の外では 黙殺されている
よし あさってこそ
ノックアウトしてやる
どうやら あさってははげしい叩き合いがあるらしい
おれたちのシマを
緋虎(ヒトラ)の勝手にされてたまるか
かならず追い出してやる
いよいよ 喧嘩出入りか
肩をいからした分だけ
首を胴体にくいこませ
クイツキガメ や
メガネキツツキの親分衆が
肩で風きって テレビ画面を横切(よぎ)る
一方
緋虎と名指され
ライオンキングと自称するこの男は
追い出せるものなら
追い出して見よ
自分党のシマに 火をつけて
丸焼けにしてやる
この鼻を明かせるものならあかせてみよ
と天に向き嘯(うそぶ)く
政治番組にチャンネルを合わせたつもりだったが
どうも 政治ではない
スポーツや股旅物に切り変えたつもりもないが
いつのまに混在したのか
ボクシングからヤクザ出入り
はてはシマ焼き討ちの話にまで発展して
国を挙げての一大事かと
思えば
単純な家庭騒動のようでもあり
誰が演出しているのか
めまぐるしい狂言まわしが面白く
大人気ない つまらない
と かこちながら
男たちはテレビの前を離れられない
別の部屋では
白昼の時間を持て余している主婦たちを前に
例の男が
にこやかに問いかける
さて きょうは何の日
もちろん六十年前を憶えていて即答する優等生などいない
遊びほうけて夏休みをすごした小学生のように
五年連続日記のこの日は
今年も空白のままだ
*六十年日の原爆記念日
「自分党」には驚きましたが謂い得て妙ですね。確かに行動の基本は自分≠ネのかもしれません。「股旅物」「ヤクザ出入り」「シマ焼き討ち」と続くと、この国を動かしている連中のお里が知れてしまいます。その連中を選んだ国民のお里もね(^^;
そして「五年連続日記のこの日は/今年も空白のまま」。この皮肉たっぷりの作品に脱帽です。
○辻本津女氏詩画集『ときの流れ』 | ||||
2005.10.5 | ||||
京都市右京区 | ||||
洛味社刊 | ||||
1000円 | ||||
<目次>
こども 9 ほうちゃく草 10
夕やけ 11
<詩画論・抄>「みる」ということ 12
百日紅 13 吉祥草 14
秋海業 15 はこねうつぎ 16
やぶみょうが 17 遠山 18
<詩画論・抄>森と木と芸術と 19
校庭 20 瀬戸川 21
水引草 22 すもとり草 23
からすうり 24 雲 25
<詩画論・抄>芸術における二重構造 26
追分 27 近江 28
いたどり 29 散歩 30
しぐれ 31 子ども 32
冬空 33 雪だるま 34
杵(ははそ) 35 あとがき
色紙に水彩画を描いて筆字で詩が添えられています。やさしさに包まれた詩画集です。3編の「<詩画論・抄>」は相馬大さんの著作からの抄出のようです。
絵は著作権上から載せない方が良いと思いますので、詩作品を2篇ほど紹介してみましょう。
雲
いっしょに
かおりを
はこんで
いって
しまった
2辺の雲の絵が添えられています。「かおり」が意外性があって佳いですね。
散歩
どこからか
きこえて
きて
ふきのとうかと
ふりかえる
こちらは2個のふきのとうの絵で、「きこえて」きたのは何か判りませんが、誰かに呼ばれたのでしょう。その主が「ふきのとう」だったのかと思わせる作品です。ふきのとうの声が聴こえる、語れる、これこそ詩人なのだなと思います。
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