きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2005.10.9 栃木県 | ||||
「ツインリンクルもてぎ」にて | ||||
HONDA CB250 | ||||
2005.11.3(木)
文化の日で休日。2日ほどバタバタしていましたから、今日の休みは本当に助かりました。ベッドに寝転びながら本を読んで、いつの間にか眠って、起きて本を読んで、また眠って、、、。怠惰な一日を過ごしました(^^;
○秦 恒平氏著『湖の本』エッセイ36 | ||||
2005.11.15 | ||||
東京都西東京市 | ||||
「湖(うみ)の本」版元 発行 | ||||
1900円 | ||||
<目次>
花鳥風月………………………………………………3
好き嫌い百人一首――秦恒平百首私判――………21
小倉百人一首 一覧=目次………………………23
秦恒平百首私判……………………………………31
百首索引 上区・下区………131
作者索引………………………135
あとがき(平凡社版)………140
<装幀>
篆刻 井口哲郎
私語の刻………142 装画 城 景都
湖の本の事……149 装本 堤 ケ子
三 柿本人麿(かきのもとの・ひとまろ)
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む
かみ
撰者定家が殊に好んだ人麿歌。「あしびきの」の枕詞の、なおその上に上三句がそっくり「長々し」
へかかる序詞でもあるという、国語の授業の好教材にはなるものの、長の一夜を独り寝の寂しさに、い
くらか甘く想い負けている歌、とても人麿を代表する歌とは思いにくい、のだ。が、渋滞しないという
事ではこれほど聴こえの住い歌もめずらしい。和歌の、耳にし口にしての「聴こえ」という音楽的な実
の要素は、時に一首の意味を超えてでも、もっと丹念に味わわれていい気がする。『百人一首』の魅力
の大半は、今やむしろ卓越した聴こえの美にある。まして「かるた」遊びの視点、いや聴覚からすれば、
この妙味をルーズに聞き逃していては話にならない。ふつう和歌の濁音は耳障りに響き易いのに、この
一首など、「び」「ど」「だ」「が」「が」とつづく五つの濁音が、暢達のハーモニィを成している。
定家卿はじめ平安京歌人らの繊鋭な耳の冴えが、みごとに聞き漏らさなかったこの歌の美点を受取らず
に、鈍感に「かるた」遊びを終っては損をする。名歌の条件といったものが、客観的に決められるとは
思わないが、歌であれ散文であれ耳に聴きこむ音から音への続きぐあい、つまり「聴こえ」の効果はい
つも我・人の別なく気になる。それを幾分でも判定すべく、遊び半分母音へ戻してみる。この歌の上三
句も「アイイイオ アアオイオオオ イアイオオ」と音読して、快い調べに妙に首肯ける。
持続・文武朝の宮廷歌人。久しく歌聖と頌えられてきたが、官位低く万葉集の伝えるほかは生没年など事蹟不詳。
「好き嫌い百人一首――秦恒平百首私判――」から、その三を紹介してみました。こんな感じて百首について「好き嫌い」を述べ「私判」していきます。その根拠となったのが子供の頃の歌留多遊びで、「好き嫌い」は変わっていないと言いますから驚きます。私の年代では正月の歌留多遊びはもう廃れていましたけど、著者の頃は盛んだったのだろうなと羨望しています。
それはそれとして、なぜ「好き嫌い」があるかという理由に「聴こえ(原文では傍点が振られています)」を持ってきているのは重要だと思います。和歌ですから朗詠と言うのが正確なのでしょうが、耳からの「聴こえの美」が「私判」のひとつだということは判りますね。いつものことながら勉強させられる一冊です。
○詩とエッセイ誌『錨地』44号 | ||||
2005.11.1 | ||||
北海道苫小牧市 | ||||
入谷寿一氏方・錨地詩会 発行 | ||||
500円 | ||||
目次
<作品>
点をのせていた夏 ……………………………… 尾形 俊雄 1
無為の約束 ……………………………………… 宮脇 惇子 4
鳥の耳 …………………………………………… 遠藤 整 7
Blue(E)…………………………………… 岡 巴里 9
アカシヤと電車の記憶 ………………………… 中原 順子 11
白い辛夷 ………………………………………… 笹原実穂子 13
コスモス ………………………………………… 菊谷芙美子 15
記憶 ……………………………………………… 浅野 初子 17
薔薇よ …………………………………………… あさの 蒼 19
マニキュア ……………………………………… 関 知恵子 21
祈り・穴禅定 胎内めぐり …………………… 入谷 寿一 24
わが縄文 ………………………………………… 新井 章夫 29
<エツセー>
二〇〇五年 駒苫ナインありがとう ………… 宮脇 惇子 38
岩屋観音・円空仏にみる救い ………………… 入谷 寿一 39
コスモス ………………………………………… 山岸 久 41
<風鐸>『錨地43号』に寄せて ………………………………… 45
同人通信 ………………………………………………………… 46
「錨地」新同人募集
……………………………………………… 40
受贈詩誌・詩集紹介 …………………………………………… 48
あとがき ………………………………………………………… 49
同人名簿 ………………………………………………………… 50
表 紙 ………………………………………… 工藤 裕司
カット ………………………………………… 坂井 伸一
記憶 浅野初子
「置いた」記憶は無いのに
「置かれた」記憶はあるらしい
「置いていかれた」になってあるらしい
「連れに来て」と泣いている
記憶に呼ばれているらしい
私を知っているという記憶に
誰かのそれ≠ネのかもしれないのに
誰かが忘れてしまいたくて置き去りにした
それ≠ネのかもしれないのに
抱き上げて連れてきて育ててみて
それ≠ェ私≠ノなったなら
もう泣かないでと抱きしめてもみるけれど
同時にそれが故意にしたことだったと
気づいてしまったらどうしよう
このごろ 気づかせることが出来たと気づいた
それ≠ェ耳元で偉そうに言うのです
あんたの一部だと私≠名のり
「私はあんたが置いてきたことさえ忘れていた記憶だ」と
「あんたに捨てられた記憶なのだ」と
自分だけのものなど何もなく
私と一緒に消えてしまうものなのに
いつでも一緒に消えてしまうだけのものなのに
ただそれだけのものではないかのように
「自分だけのもの」と思っている「記憶」は、実は「誰かのそれ≠ネのかもしれない」、という、記憶の本質について描いていて、面白い作品です。ひとりの人間の記憶が過去の人類の記憶、それ以前の生物の記憶を継承していることは、科学的にDNA・RNAの研究で新たに判明したようですが、詩人を始め芸術家はとっくの昔に判っていたのかもしれません。そしてそれは「ただそれだけのものではないかのように」将来へ繋がっていく…。脳を刺激されながら拝読しました。
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