きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2005.12.23 群馬県安中市
新島襄旧宅
 
 

2005.12.20(火)

 年末なので倉庫の片付けをしました。部下を督励して、、、というのは嘘ですね。要不要が判らない試料がいっぱいあるので、なんとかしてください! と部下に怒られて、やっと動き出した次第です(^^; お陰でだいぶ片付きました。担当者としてはあれも残したい、これも残したいと思うもの。そうやって1年も放っておくとずいぶん溜まるものです。かなり思い切った処分ができました。一番の大物の処分、、、私自身はまだだなぁ(^^;;;




個人誌『パープル』27号
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2006.1.16
川崎市宮前区
高村昌憲氏 発行
500円
 

  <目次>
   四行詩 七○年代の雨 ………………… 高村 昌憲(2)
       雨の日の朝 …………………… 岸田たつ子(3)
       思無邪 ………………………… 山口 格郎(4)
       エーゲ海にて ………………… 開 あきこ(5)
       破る …………………………… 齋 藤 (6)
   評論  初期プロポ断想(その11)…… 高村昌憲 (8)
   編集後記 (24)  執筆者住所録 (24)
   誌名/笠谷陽一 表紙デザイン/宿谷志郎 カット絵/高村喜美子



    七〇年代の雨    高村昌憲

   いつも好きな人が靄の中にけむる未熟な愛
   自分だらけの雫に濡れた気儘な連帯だった
   デモとストライキでびしょ濡れの七〇年代
   それでも醒めた今よりも他人
(ひと)に酷(ひど)くはなかった

   ポケットに仕舞い込んでいただけの革命
   ノンポリの青年たちも狙っていた台風の目
   傘をさしながら並木道に落とした七〇年代
   今よりも自由に快活に跳ねていた 時代の雨

 「七〇年代」は私も20代で、思い出しますね。確かに「自分だらけ」だったし「ポケットに仕舞い込んでいただけの革命」だったように思います。しかし、作者も書いているように「醒めた今よりも他人に酷くはなかった」し、何より「今よりも自由に快活に跳ねていた 時代」だったと云えましょう。そんなことを思い出しながら作品を拝読すると「雨」がよく効いているなと感じました。雨は「七〇年代」も現在も変わらないはずなのに、やはり「時代の雨」があったのだなと改めて思います。




○隔月刊会誌Scramble79号
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2005.12.18
群馬県高崎市
高崎現代詩の会・平方秀夫氏 発行
非売品
 

   <おもな記事>
   ○還暦と百賀 ……………………………………… 宮下公仁子 1
   ○私の好きな詩 香山末子−凝縮された心象風景 宮崎  清 2
   ○会員の詩 …………………………………………………… 3〜7
    渡辺慧介 / 堤 美代    遠藤草人 / 金井裕美子
    田口三舩 / 金井治子    鈴木宏幸 / 福 田 誠
   ○平成17年度「文芸たかさき」受賞 …………………………… 8
   ○絵本原画展 ……………………………………………………… 8
   ○編集後記 ………………………………………………………… 8



    向寒のみぎり    田口三舩

   いつの間にか
   虫の声も遠ざかった頃だった
   母から一通のハガキが
   届いたのだった

   栗の実を拾っておいたから
   とあって末尾に
   向寒のみぎりご自愛ください と
   無学の婆にしては
   なかなかの字で書いてある

   向寒のみぎりご自愛だなんて
   洒落たことばを知ってるなと言ったら
   これからぐっと寒くなるから
   無茶して風邪ひくなってことだという

   あれから十数回目かの
   向寒のみぎりがやってきて
   あたりの木の葉が色づいて
   風が肌を刺す季節

   古希を過ぎて一人暮らしをしている友人に
   その後元気かと手紙を書いたが
   結びがうまくまとまらない

   そこで遠いところに旅立って
   手紙のやりとりもできなくなった母から
   中身ごとそっくり拝借することにして
   向寒のみぎりご自愛ください と
   締めくくった

 「無学の婆にしては/なかなかの字で書いてある」というのは謙遜でしょうが、それにしても昔は「なかなかの字」の人が多かったと思います。今はパソコンの普及で、肉筆を見ることすら少なくなりましたね。それに「洒落たことばを知ってるなと」も思います。言葉に敏感だったのかもしれません。現在はTVの影響が大きいのでしょうけど下品な言葉が氾濫していて、耳を塞ぎたくなることが多いですね。
 そんな時代の違いも考えさせられますが、作品の底に流れている母上への追慕も胸を打ちます。決して表面には出していませんけど「あれから十数回目かの/向寒のみぎりがやってきて」、「手紙のやりとりもできなくなった母から/中身ごとそっくり拝借することにして」などのフレーズにそれを強く感じます。湿ってはいませんがしっとりと落ち着いたものを享受できた作品です。




大森隆夫氏詩集『蘇生』
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21世紀詩人叢書・第U期14
2005.11.15
東京都新宿区
土曜美術社出版販売刊
2000円+税
 

  <目次>
   生存 6       撃たれた少年 8
   殺戮 12       循環 14
   蘇生 16       湖 20
   雪の訪れ 22     ピンクの大福餅 24
   痣 26        陰画 28
   とぐろ 30      都会の影 32
   都会の十字路 34   瞑想 36
   躊躇 40       隊列 42
   歩く 44       折鶴 46
   雨の中の少女 48   迷える少女 50
   その女 52      間合い 56
   雨の路上 58     鈍色 60
   祈り 62       姿 64
   連れ 66       貴女と 68
   夕暮れの徘徊 70   場末の野犬 72
   ころころ 74     マンホール 76
   船場の老婆 78    老婦人の述懐 80
   老人 84       老人の死 86
   晩秋 88

    あとがき 90



    蘇生

   光は見えるか
   見えるか

   否 光は存在そのもの
   影もまた光のネガ

   ここに物質があり現象がある
   ここに光があり影がある

   無限遠点に目を凝らす
   億光年の星の光
   そのまた億光年の星の光
   闇とは何か

   闇に蹲る気配
   見えるか
   闇の気配が見えるか

   否 闇は一切の源
   光もまた闇からスパークする

   蹲る 私
   慄きながら闇に蹲る 私

   射るか
   私の心臓を光の矢は貫くか

 タイトルポエムを紹介してみました。平易な言葉で書かれていますが内容はかなり深遠だと思います。光と影についての考察が、まさに詩だと云えましょう。「影もまた光のネガ」「光もまた闇からスパークする」などの詩句に圧倒されています。
 この作品の何が「蘇生」なのかを考えてみました。おそらく「闇に蹲る気配」「闇の気配」からの「蘇生」だろうと思います。「蘇生」に必要なのが「光」であり、「光は見えるか」と冒頭に置き、「私の心臓を光の矢は貫くか」と締めているのではないでしょうか。では、何が「闇」か。作品の表面的には「慄きながら闇に蹲る 私」を挙げることができますけど、「物質があり現象がある」この世と採ることも可能だろう思います。それは詩集全体からも受けた印象です。
 平易な表現であるだけに一歩踏み込まないと意図を汲み取れない怖れがありますが、それだからこそ堪能できた詩集と云えましょう。




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