きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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夕焼け 2005.1.2 神奈川県南足柄市

2006.1.15(日)

 今夜は若い女性3人と呑んでいました(^^; トシの頃は21から26。高齢化が進んだ職場でも、詩人仲間でも(失礼!)ちょっといない妙齢の女性ばかりです。でもね、3人とも姪ですから、発展はないなあ(^^;;;

 正月に妹の家で呑んだときに、姪たちに「おじさん、呑みに連れて行って!」と言われて、鼻の下を長くして今日を迎えました。伯父としては当然なんですが、彼女たちがオシメをしていた頃から知っていますから、一緒に呑める年頃になったかと思うと感無量ですね。場所は市内で一番好きな「一膳一酒」。珍しく「獺祭」も置いてあったし、タラタラとした自慢話も聞いてくれたし、いい夜だったなぁ。呑み代は全部オゴリだったけど(^^;; ま、いつまで一緒に呑んでくれるか判りませんけど、親戚付き合いも捨てたものではないと思った夜でした。



新 哲実氏詩作品レクイエム アダムの手
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2006.1.17 東京都千代田区 アテネ社刊 1300円+税




   ☆ ☆ ☆

「アダムの手」と
後年私はあなたを名付けた
あれから程なく 引き潮のように
私から去っていった手よ
ボール紙で作ってくれた
二階建の家を残して

世間の俗に汚
(けが)れた手が
まだ俗の意味も分からずにいる
形の定まらない手を取って
人として生きてゆくために
学ぶべき様々なことへと
忍耐強く導いてゆく

そんな奇妙な営みの
かの原初の時代からの
果てしのない受け継ぎのうちに
人間社会の存続と
繁栄の秘密はあるのだと
知ってしまったその時に

けれども手よ
もしかするとあのころ既に
私は気付いていたのだろうか
あなたのやさしさを嘲
(あざけ)るように
あなたからふと漏れてくる
遠い人のため息を通して

人間であるということの
潜在的な悲しさと
人間を生きてゆくことの
宿命
(さだめ)としての危うさに
深遠なものに鋭敏な
子ども特有の直感によって

もう行ってもいいよ と
そしてこの手は言ったのだろうか
あなたの苦悩はあなたのもので
同時にあなたを超えたもの
遠い過去からあなたへと滴り落ちた
どうしようもないものなのだから と

善悪の木
(こ)の実を食べたという
あまりに苦い思い出を秘めて
かつてかの人がその罪の手から
息子たちに伝えたであろうように
それとなく 私に血潮の歌を伝えて
静かに遠のいていったあなた

私の心はあなたを追わなかったけれど
この手はあなたの感触と匂い
あの歌の生温かさと切なさを
いつまでも忘れずにいて
あのボール紙の家を懐かしみ
一つの礼拝堂へと 時に私を誘
(いざな)うのだ

   ☆ ☆ ☆

 新哲実さんの詩集は今でに2冊拝読していますが、いずれも1編の詩が1冊になっています。今回もその例に漏れず、1編の詩が1冊になっていました。非常に読み応えのある詩集です。ここでは「☆ ☆ ☆」で区切られた3番目、一般的には第3章とでも名付けられるでしょうか、それを紹介してみました。タイトルと同じ「アダムの手」が最初に出てくる場面です。この詩集の意図については、それだけでは判りにくいので「あとがき」の冒頭の部分を抜粋してみます。

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 私が父と暮らした年月は、赤ん坊のころの月日を合わせてもせいぜい三、四年ぐらいにしかならないだろう。一緒にいたりいなかったりで、そのせいか、父と私との間には、いつも何か遠慮のような戸惑いのようなものがあった。それでも、父は私にとっては良い父であった。
 本作品のモチーフとなった父との山行きの思い出は、私が五歳のころのものである。当時の私たちの家は、神戸の、その時はまだ無かった新幹線新神戸駅の裏山にある布引の滝まで、さほど遠くないところにあった。
 気軽な散歩のつもりだったのか、それとも何か特別な思いに促されてのことなのか、父は私の手を引いて滝への道を上っていった。ごく断片的にしか覚えていないのであるが、それでも詩に書いた幾つかの場面の映像と音声は、長い歳月を経た今もなお、色あせず劣化することもなく、私のたましいの中に生き続けている。

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 これで「本作品のモチーフとなった」のは「父との山行き」であったこと、それも「私が五歳のころのものである」ことが判ります。しかも「私が父と暮らした年月は、赤ん坊のころの月日を合わせてもせいぜい三、四年ぐらいにしかならないだろう」ことも。さらにタイトルに添えられている「
レクイエム」を合せて考えると、父上は亡くなっているか、今後逢えない立場であることが想定されます。詩作品ですから、現実がどうであるかは無関係ですが、作品の背景としては読み取っておく必要があるでしょう。

 その上で「アダムの手」を見ると、ここには「善悪の木の実を食べたという」アダムが表出します。そのアダムは「ボール紙で作ってくれた/二階建の家を残して」去っています。そして父を「手」と置くところにこの作品の意図がはっきりと見えると思います。手を父に置き換えて読んではいけないでしょう。手はあくまでも手であり、それは父の手であり神の手だということを表現しているように感じます。その一点からも判りますように、平易な表現の裏にある「私」の心理が巧みに表現された作品であり詩集だと思いました。



新・日本現代詩文庫33『千葉 龍詩集』
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2005.12.31 東京都新宿区 土曜美術社出版販売刊 1400円+税

<目次>
詩集『死を創るまで』(二〇〇三年)より
噫 日本、日本人よ ・10          冷えてから料理を ・26
母を殺された日が、また ・10        石の秘密 ・27
ひとつの八月十五日 ・13          龍の「挿話」 ・28
存在 ・15                 日の丸と太陽と ・28
嘘がつける「もの」たち ・16        太陽が帰ってゆく ・30
金沢の顔 ・17               如月「雪伝説」 ・32
雉が哭いている ・19            ことしも雪でおめでとう ・33
一人のためだけの童話 ・20         直球でゆく ・35
業を引きずって ・21            怒りを食う男 ・35
アロエ奇譚 ・22              一歳へのエール ・36
コリアンの娘 ・24             桜惚れして盃を ・38
詩集『まだ まだ』(一九九八年)より
きょうだい ・40              泥棒 ・51
桜の物語 ・42               異界の人たちと ・52
如来・哲久 菩薩・あき ・43        えのがれぬわざ ・54
無量劫の渇き ・45             昭和一桁論 ・55
心辺報告申し上げ侯 ・45          『無礙』にほど遠く ・56
冬の海の季節 ・46             ご免こうむる ・57
一ネオロジストの独白 ・47         春への予感 ・57
カミサマヘの手紙 ・50
詩集『夜のつぎは、朝』(一九九四年)より
酒道怠るべからず ・59           裸の少年とカミさま ・72
鏡を見る ・61               魚と納豆 ・73
連夜臨死 ・62               共生の記憶 ・74
夜のつぎは、朝 ・63            青の時代・幻想 ・76
回る地球に ・63              海辺の宿で ・79
海と息子とおれと ・64           ふるさとの祭り ・81
信仰のおハナシ ・65            恐怖の砲口 ・83
打擲 ・66                 龍さんから哲さんへ ・86
告白 ・68                 若き友へ ・88
夕闇のさくら谷 ・70            現代のロマン派  秋谷 豊 ・91
詩集『無告の詩』(一九八八年)より
赤蜻蜒なぜまぐはひせぬ ・94        再会の島 ・99
壊れ始めて、おれ ・95           語らい ・100
判決 ・96                 響き合う血が ・100
オレ 偽物 ・97              増穂ケ浦 ・102
87・2・10 ・97
詩集『玄』(一九八四年)より
虚飾のないひと  森山 啓 ・103      呪文子守唄 ・110
序の詩『玄』 ・105             玄の季節 ・110
真っ黒な 海 ・106             炎帝の海 ・111
緑がみえない ・107             おれの ヤツ ・112
能登半島 ・107               風花 ・114
百日紅 ・108                旅びと ・115
おれの 頭 ・109              屈辱 ・116
詩集『日本現代詩人叢書30池端秀介詩集』(一九八二年)より
緑の落日 ・117               狼の末裔 ・122
異類の世界 ・121
詩集『昭和詩人全集20池端秀介詩集』(一九七九年)より
豊饒の個性 小沢伸男 ・125
詩集『関』(一九七七年)より
詩人よ 今こそあなたたちは ・130      はんらん ・136
こんくりーととどぶがわと ・133       はぐれ鳥 ・136
詩集『炎群はわが魂を包み』(一九七四年)より
金沢炎ゆ ・136               どこへ ・140
わが『死歴書」 ・138            冬の岬 ・141
センセイとシャチョウ ・140         踏みつけられた草 ・142
本物・偽物 ・140
詩集『魂のありか』(一九七二年)より
魂のありか ・143              死者との接吻 ・147
病めるもの ・144              赤の風景 ・152
国ぐにのカルテ ・145
詩集『雑草の鼻唄』(一九七一年)より
不孝物語 ・153
解説
西岡光秋 風花の舞う街の詩人・158      中原道夫 少年の心を失わない詩人・164
年譜/千葉 龍の独白 ・170



 判決

うつくしくないおんなより
うつくしくなろうとしないおんな
これは 醜悪だ
有罪〈堕落・不快罪〉

わからない詩を書く青い詩人
わからせない詩を書くエセ詩書き
これは 麻薬のバイ人だ
有罪〈自慰常習・麻薬販売罪〉

世界に誇る美しい日本語を使えぬ物書き
無能を横文字の無断転用と乱用で糊塗して愧じぬ
スカタン
有罪〈外国語盗用国語破壊罪〉
     
(1985・2・28)

 1971年の第一詩集『雑草の鼻唄』から2003年の第11詩集『死を創るまで』の30年を越える詩業の抜粋で、千葉龍という詩人を研究する上では欠かせない一冊と云えましょう。特に「年譜/千葉 龍の独白」は秀逸です。失礼を省みずに言えば、詩作品もおもしろいのですが、この年譜は詩そのものだと思います。千葉龍さんに対しては勝手に親しくさせていただいていると思っていますが、千葉龍という人間そのものが詩であるという受けとめ方をしています。その理由が年譜には良く現れていると認識を新たにした次第です。この詩集を手に取ったら、そこは良く見ておいてほしいですね。

 紹介した作品は1988年刊行の『無告の詩』に収められていました。当時は北陸中日新聞の記者で、詩人の眼と記者の眼が相乗効果を持った詩篇だと思います。「判決」というタイトルは私などには遣えない代物ですが、日頃接している事件から何の苦もなく出てきたのだろうと想像しています。「うつくしくなろうとしないおんな」に相槌を打ち、「わからせない詩を書くエセ詩書き」「無能を横文字の無断転用と乱用で糊塗して愧じぬ/スカタン」には思わずわが身を振り返ってしまいました。直球勝負の詩人の言として胸に刻んだ作品です。



詩と散文・エッセイ『吠』30号
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2005.12.25 千葉県香取郡東庄町
山口惣司氏方・「吠」の会発行 700円

<目次>

空のかたち…牧田久末…2          鬼瓦……柏木隆雄…4
創作民話 『老人星』古式(3)<第二章>スネーク・ピット…いちぢ・よしあき…6
エッセイ
東総文学館だより…S・Y…11        酔水亭珍太の生涯(6)…桂木 圭…12

能楽と死…飯塚 真…14           道の駅…川本京子…16
エッセイ
合唱演奏ドイツ旅行…山下広之…18      麻酔から醒めて(2)…平林健次…20

蒸し暑い日…秋田高敏…22          スマングス部落詩抄(二十八〜三十)…蔡秀菊…24
エッセイ
網の目のように…S・Y…29         人事を尽くして天命を待つ…根本文夫…30
道(一)…川本京子…34

夏草〈終戦〉…桐谷久子…38         妻のお誕生会…大森静夫…40
時調研究 「韓国現代の愛の時調鑑賞(3)」…瀬尾文子…42
詩 僕らも戦争犯罪人…山口惣司…44
受贈深謝…編集室…48            編集後記…S・Y…50
表紙絵 山田かおり  題字 紀国東涯    目次カット 山田かおり



 道の駅/川本京子

国道の所々に 道の駅がある
人間の目的と欲望の一つのエリア
旅の途中の つかの間の溜息をつくところ
色とりどりの さんざめきに火照る
春夏秋冬の道からは
天然更新の遠い山は
種や蘖
(ひこばえ)の声が振動しかすんでいる
垣間見る風景と トンネルを過ぎれば
万感こもごもに 命を懸けた人々の
槌の音と 汗が滴ってくる
家を離れ 道の駅の顔達が去り
わが触れ合いのグループは
軽やかに踊り 歌い語りあう
幾夜かの草枕に
海を渡る風の羽ばたきに
空を舞い来る花の雲が
ささやきながら降りて来る
道の駅は 行きも帰りも小躍りする
上機嫌の空間である
土産は軽いけれど 無事を祈る
春燕が 夏燕に変わる頃
天気占いも 昔にならない
己を変えてくれる旅への参加は
体調との相談の解答は
これからは幾つもあるだろう
ハミングの「ユーモレスク」は
誰の耳にも 届かないらしい
     
しらがみわ
緑陰に 白髪分けし 小滝かな

 今では「国道の所々に」ある「道の駅」もだいぶ認知されてきたと思うのですが、「道の駅」を書いた作品というのを初めて眼にしました。詩人は本当にいろいろなところに目配りするものだ、詩の素材に何処にでもあるものだとつくづく思います。「人間の目的と欲望の一つのエリア/旅の途中の つかの間の溜息をつくところ」「道の駅は 行きも帰りも小躍りする/上機嫌の空間である」とは、まさにその通りですね。
 娘が保育園生から小学生の頃は、休日になるとキャンピングカーを駆って全国を旅行していました。その折に出来始めの「道の駅」をあちこちで利用しましたが、高速道路のサービスエリアには無い「上機嫌の空間」を感じたものです。「体調との相談の解答」も得ながら「これからは幾つもあるだろう」国内旅行を楽しみたいと感じた作品です。



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