きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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夕焼け 2005.1.2 神奈川県南足柄市

2006.1.16(月)

 日本ペンクラブの電子文藝館委員会が開催されました。2001年11月26日の「ペンの日」に開館して以来まる4年が過ぎて、今年の1月12日現在で掲載作品は627点になったことが報告されました。よくやってきたなと自讃してしまいます。1000点も射程距離に入ったと云えるでしょう。
 今日の委員会では縦書表示が話題になりました。文藝館を立ち上げた古い委員には解決している問題ですが、最近新しい委員も増えて、また再燃したという感じです。現在の日本語を扱うパソコンでは縦書を無理なく表現するには限界があること、横書で供給しても読者側で簡単に縦書にできること、そもそも日本語表記は縦書も横書もあることなどを理由に結論を出した問題です。しかし、画面で縦書表示してほしいという希望が根強いことや安価な縦書ソフトも市販されていることが、新しい委員からは出てきました。私も横書にこだわっているわけではありませんから、それはそれで拝聴しましたが、自分でそのソフトを実際に使ってみないと何とも言えないと感じました。器械がもう少し進歩すれば、そのうち縦書表記の文藝館が実現するかもしれませんね。



城塚朋和氏著      研究紀要第13号抜粋
『中国宜興紫茶壺(急須)の日本的受容』
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2005.3.25 明星大学日本文化学部造形芸術学科発行 非売品

<目次>
はじめに 17
器形の分類と紫砂急須制作の修行形態(科班) 18
紫砂迷奥蘭田の『茗壺図録』 20
煎茶家の好んだ、具(倶)輪珠と名付けられた紫砂急須 21
玩物喪志も徹すれば壮志 27
おわりに 29



 前出の文藝館委員会で、著者の城塚朋和委員長より頂戴しました。現在、私たちが急須として使っている茶器の歴史的な検証です。一般の家庭にあるようなものではなく、国宝級の急須の論考ですからちょっと馴染みが薄いのですが、おもしろいです。中国で醤油注しとして生産されたものが、わが国に入って急須として使われたようですね。タイトルの「
日本的受容」には、そういう意味があります。
 専門的なところは私などにはコメントできませんから、「おわりに」の冒頭の部分を紹介してみます。

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 現在中国茶はブームだという。茶文化は中国から渡ってきたものだから、今次の波で四度目だろうか五度目だろうか。
 一番最初が平安時代遣唐使、留学僧が持ち帰った唐代の茶。
 二度目が鎌倉初期、栄西禅師が持ち帰ったとされる宋代の茶、抹茶。現在茶の湯の形で残っている茶である。
 三度目が本稿での中心となった江戸期の急須を使用する明代の葉茶、煎茶。
 四度目と五度目は分け方だが、四度目は痩せる飲料の宣伝戦略で売り出された龍烏茶、中国産烏龍茶が缶入りで売り出されたのは昭和五十六年(1981)、バーでウイスキーのウーロン割りをはやらせるという戦略も有った。そして缶瓶からペットボトルへ。烏龍茶は日常になった。
 五度目が今次の茶芸の形での工夫茶の中国茶。ぺットボトルではない、緑茶を含め急頻で入れる中国茶全般。
 一般の人にとっては、戦前で中国紫砂急須は全く文化としても知識としても断絶してしまった。だから今次の中国茶は丁度よい機会だと思う。中国茶を工夫茶方式で入れるための器具としての紫砂急須をゼロの形で受け入れることができるからだ。
 今は昔と違って情報を沢山、正確に入手できる時代になったのだから、中国における急須の文化背景の最低限の知識をもって、その上でこの形は使いやすそうだ、可愛い、きれいだ、自分は好きだ、と自分の判断で好みで選んで欲しい。わざと古色をつけたような古びたのには絶対色気を出さないことだ。

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 論考のまとめの部分ですが、このままでも一級のエッセイになりそうです。中国茶のブームを五度目と歴史的に捉えるところは、さすがに専門家の目だなと思います。最後の「わざと古色をつけたような古びたのには絶対色気を出さないことだ」は、今のところ磁器に疎い私には関係なさそうですが、この先どうなるか判りません。ある日突然目覚めるなんてことも否定できませんから、肝に銘じておこうと思います。



詩誌『孔雀船』67号
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2006.1.15 東京都国分寺市
孔雀船詩社・望月苑巳氏発行 700円

<目次>
*詩
もう 森へなんか行かない/黒岩隆―6    風のぬけ道/新倉葉音―9
用意/北岡淳子―12             ナツメさんの庭/尾世川正明―14
あるく/間瀬義春―16            届けられた幾葉かの写真から/日砂順二―18
園丁3/日砂順二―20            日本橋界隈で/福間明子―23
透過光/藤田晴央―26            新居/岩佐なを―29
*H・ミラー「暗い春」より 巨大都市住人の忘想 田中弘宣・訳 32
*吃水線・孔雀船書架/竹内貴久雄―38
*リスニング・ルーム/竹内貴久雄―40
*孔雀船画廊(16) 岩佐なを―42
*連載 絵に住む日々《第十三回》 一年の記(2005年)小柳玲子 44
*連載エッセイ 眠れぬ夜の百歌仙夢語り《第五十三夜》望月苑巳 49
*詩
便座/大塚欽一―56             祥曇/文屋順―58
内側の声/谷元益男―60           猫の缶詰、猫の時間/望月苑巳―62
蘭陵王のユメ/望月苑巳―64         メタセコイアと天牛/紫圭子―67
風のディルドー/朝倉四郎―70        眠りのために/脇川郁也―73
あぁーんっ/堀内統義―76          眠り姫/君島蓮品―80
娯楽のない町/ 洋子―82
*試写室―
天使/フライトプラン/ホテル・ルワンダ/タブロイド/単騎、千里を走る。/アメリカ、家族のいる風景/イベリア・魂のフラメンコ/リトル・ランナー/ダイヤモンド・イン・パラダイス/嶋崎信房&清水進・選+国弘よう子 85
*連載 アパショナータPARTU(31) 追悼・川崎洋〜はくちょうと横須賀 藤田晴央 90
*航海ランプ―103 *執筆者住所録―102



 ナツメさんの庭/尾世川正明

ナツメさんの庭には棗の木がある
棗の実はドライフルーツにして瓶の中に入っている
家の前を通ったときナツメさんがそう言った
そしていつか食べにいらっしゃい
垣根越しにそう言って棗の実を振ってみせた

ナツメさんの家は早稲田南町にあって
そこでナツメさんは血を吐いた
ナツメさんは人嫌いだったけれど
同時にさみしがり屋でもあったので
ネコを相手に暮らしていた

ナツメさんはとうに死んでしまったけれど
ナツメさんはなにを残したのだろう
紙に文字をたくさん書き付けて
そのなかでいろいろ悩んでみせたけれど
ナツメさんはいったいなにを悩んでいたのだろう

養子になったこととか
兵隊にならなかったこととか
倫敦で偏屈な生活をしていたこととか
書きたかった大論文が書けなかったこととか
長い間他人はいろいろ言ってきたけれど

ナツメさんはあれこれ詮索をする探偵が一番嫌いだった
だから足跡を消すためにいろいろ歩いただけで
あれはお芝居のようなもので
本当はずっとあの棗の木のある家にこもって
ひとりでネコを眺めていたかっただけなのかも知れない

ナツメさんの庭の
棗の実のドライフルーツの味はどんなだったのか
誰も食べずにもう九十年もたってしまった

 「ナツメさん」というキャラクターが不思議な存在感で迫ってきます。「人嫌いだったけれど/同時にさみしがり屋でもあった」は一般的かもしれませんが「紙に文字をたくさん書き付けて/そのなかでいろいろ悩んでみせた」は、「ナツメさん」の重要な側面だと思います。このフレーズがあるからこそ「ナツメさん」という人間像が浮かび上がってくると云えましょう。
 そして圧巻は最終連ですね。「誰も食べずにもう九十年もたってしまった」というのですから、これは100年以上前のお話と採って良いでしょう。時間を超越したおもしろい作品だと思いました。



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