きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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夕焼け 2005.1.2 神奈川県南足柄市

2006.1.21(土)

 来週、仲の良い詩人たちと箱根で一泊する予定があり、今日は下見に行ってきました。箱根は国道にも雪が残っている状態で、チェーンを巻いている車もあったほどです。私のクルマはノーマルタイヤですから、ちょっと心配だったのですが無事でした。スキーに行かなくなって10年ほど経ちますけど、雪道の運転はしっかり覚えていました。

 帰りに真鶴町の中川一政美術館にも行ってみました。来週また雪になって、箱根から早々に引き揚げなければならなくなったら、暖かい真鶴に降りて一政美術館にでも行くことにしようと思った次第です。久しぶりでしたから堪能しました。10年近く行ってなかったと思います。真鶴町に福浦という小さな漁港があるのですが、そこを描いた油彩は海から見ている構図です。中川一政というと「人生劇場」の挿絵が有名なようですが、本来は油絵画家なのだと改めて認識しました。
 図録購入。友部正人の「愛について」を竹下ユキの透き通る声で聴きながら、一政の図録を観るのは至福の時間です。



文藝誌セコイア30号
創刊30集記念
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2006.1.20 埼玉県狭山市
セコイア社・松本建彦氏発行 1000円

<目次>
夜刀の神の祭り(18)…友枝 力…2      回国の岸辺の眼(])―番外篇…吉川 仁…12
影たちの遠く晴き巡礼道V…長津功三良…34  わたしを何処につれてゆくの…高橋 次夫…40
小さな町その感情…木暮克彦…42       つむじ風…内藤喜美子…44
幸魂の国…高野保治…58
哀悼 伊藤幸也さん
その詩、煌めいて…木暮克彦…67       善き友をうしないて…内苑竹博…67
付・伊藤幸也「略年譜」 「セコイア」発表作品目録…67
浅間山の炎…初沢澪子…70          あこがれのウィーンへ…内苑竹博…76
凌霄花(のうぜんかずら)…千葉 文…84    ガランス遍歴…篠崎道子…88
曼陀羅随筆(18)…松本建彦…102
「セコイア」総目録…(20〜29)…松本建彦・編…110
<魚眼>…114
・同人名簿…表3   ・広告…87・表4



 したがっで本稿が縷々書きつらねてきた、戦争をぐぐりぬけ敗北の岸辺に立った人びとの視点からいえば、にわかに世論を高いパーセンテージで被いはじめたそういう偏向した発想にはなにか重大な歴史認識が抜け落ちているとおもえてならないのである。そもそも、日本の軍閥なる侵略者集団が仕掛けた戦争に敗北して囚われの身となり、暴虐な国家の負うべき責任を多少なりとも個人の責任のごとく背負わされた体験をもつものからは、そういう傲慢きわまりない発想は絶対に出てこないからである。はっきりいえば敗戦六〇年目の土砂降りのような改憲容認世論には俘虜の視点、つまり真の平和の出発点こそ俘虜の視点で構築されたものでなければならないという厳粛な基本的歴史認識がすっぽりと欠落しているのである。
 しかし俘虜の視点とはいうものの、六〇年も経ったいまとなっては、いくら論理をつくしても、そらぞらしくてまともな説明にはならないだろう。だいいち俘虜とはなにか、ということさえ当時の日本人一般には十分に理解できていなかった。たとえば「戦陣訓」による捕虜否定の思想は「虜囚のはずかしめは絶対にうけてはならぬ、虜囚になるより自決せよ。そのかわり虜囚はつくらない、捕らえたものはすべて殺せ」ということだったから、完全な敗北者としての俘虜の心情など想像もつかないし、「集団自決など無意味だ、たとい俘虜に堕ちてでも、もっともみじめな生き方を選択する」という覚悟をこめた俘虜の視点などしっかりと胸に刻みこめるはずもない。ただ、俘虜とはごく単純化して、一九四五年八月十五日における天皇以下すべての日本人の立場がそうであったと考えれば、あるていどは理解できるかもしれない。なにしろ「終戦の詔勅」は厳然たる「俘虜宣言」とみることができるからである。すなわちあの日、あの場所で、あの「玉音」が発せられた瞬間から日本人は、国内であれ海外であれ、戦勝国の規制を受ける受けぬにかかわらずすべて俘虜の身分に堕ちたのであり、その明白な事実を誠実にみとめ、その屈辱をまるごと勇敢に引きうけて、平和への蕀の道を切りひらいてゆく態度こそまさに俘虜の視点ということにほかならない。

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 長々と引用してしまいましたが、紹介した文は吉川仁氏の「回国の岸辺の眼(])――番外篇」の中の一節です。昨今の「にわかに世論を高いパーセンテージで被いはじめたそういう偏向した発想」への格調高い論考です。もちろん自民党の歴史的な圧勝、小泉首相の「重大な歴史認識が抜け落ちている」ことを言っています。
 この論考の中で私が最も興味を引いたのは「俘虜の視点」という点です。「俘虜とはごく単純化して、一九四五年八月十五日における天皇以下すべての日本人の立場がそうであった」とは、まさに視点を変えればその通りだと思うのですが、その視点が無いから「傲慢きわまりない発想」に至るのだという論には瞠目しました。「その明白な事実を誠実にみとめ、その屈辱をまるごと勇敢に引きうけて、平和への蕀の道を切りひらいてゆく態度」こそ今は求められているという指摘は重要でしょう。ご自身、「日本の軍閥なる侵略者集団が仕掛けた戦争に敗北して囚われの身となり、暴虐な国家の負うべき責任を多少なりとも個人の責任のごとく背負わされた体験をもつもの」であったことから出てきた言葉ですが、戦後生まれの私たちには真摯に受け止める警告だと思います。機会があればぜひ読んでほしい論考です。



会報『近状通信』25号
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2006.1.15 広島市佐伯区   非売品
広島花幻忌の会事務局・海老根勲氏発行

<目次>
「ウルシュラ博士」誕生
広島花幻忌の会第10回研究会案内



 冒頭の「『ウルシュラ博士』誕生」の内容を抜粋しますと、次の通りです。

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 広島大学に留学して10数年、ポーランド出身のウルシュラ・ステイチェックさん(愛林・ウラ)が05年秋、同大学から念願の縛士号を授与されました。母国で読んだ「真の花」に惹かれて広島にやってきたウラは、原民喜と原爆文学、さらにアウシュビッツなどユダヤ人収容所から生まれた収容所文学の比較論をライフワークに、研究を続けてきました。
 博士論文のテーマは「人間存在の不安−収容所文学と原爆文学」(日本語です、念のため)。被爆60周年と原民喜生誕100周年祭の05年秋に、こうしたレポートが花幻忌の会会員の中から紡ぎだされたことは、私たちにとっても実に得がたい成果といえます。さらに、ウラのレポートは、さまざまな「60周年」が、それぞれの地域、民族、国家に重く、深く存在することをも明確に示した労作でもあります。

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 このあと「ウラ博士誕生を祝う集い」の案内となりますが、「広島大学に留学して10数年」もの間、遠くポーランドから来日して「原民喜と原爆文学」を研究し続けていることに敬意を表します。その研究者に博士号を授与するとは、広島大学も粋だなと思った記事です。



個人誌『風都市』14号
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2006.冬 岡山県倉敷市
瀬崎祐氏発行 非売品

<目次>
溢水・ディープ・ブルー/瀬崎 祐
戦禍/渡辺めぐみ
溢水・蔓珠沙華/瀬崎 祐



 溢水・デイープ・ブルー/瀬崎 祐

青が深くなっていく
まるで
そこだけが抉られたような欠落にもみえる
青が深いのか 深くなったところが青なのか
その欠落には
水のようなものがたたえられている

 中津川さん一はいつもびしょ濡れであらわれる
 まるで海から上がってきたばかりのようで
 かすかに潮のにおいもするほどだ
 でも 中津川さんは無口だから誤解もされやすい

 隣の部署にいる中川さんは定年が近い
 中津川さんは「津」があるからいいわよねえ
 わたしは「津」がないから
 夕暮れ時が悲しいめよ と
 愚痴をこぼしている
 それは単に名前だけのことではないようで
 津は 港を持っている人だけに許されているわけで
 だから 津を持たない中川さんは
 どこへもどっていけばよいのだろうか

外は雨が降り始めた
 中川さんは実は警備の仕事をしている
 そして いつも自転車で帰っていく
夕暮れまでにはときがあるから
悲しいことはまだ忘れている
だからといって
中川さんの青が薄くなったわけではない

 「中津川さん」と「中川さん」。「津」があるかないかの違いは「単に名前だけのことではな」く、「津は 港を持っている人だけに許されている」という発想が面白いと思います。「津を持たない中川さんは/どこへもどっていけばよいのだろうか」という設問は、実は港を持たない私たち全てに問われていることなのかもしれません。人間の帰属を意図して書かれた詩ではないと思いますが、そんなことまで考えさせられた作品です。



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