きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
夕焼け 2005.1.2 神奈川県南足柄市 |
2006.1.23(月)
小田原市のアオキ画廊で開催されている第10回「西さがみ文芸展覧会」の最終日。片付けがてら会場を見に行ってきました。
狭い会場で、小田原駅から歩いて5分ぐらいでしょうか、ちょっと遠いかもしれませんが、それでも期間中に数百名の来場があったそうです。私は昨年からの出品ですが10年も続いているわけですから、それなりの知名度は出てきたということでしょうね。
今回の特別展は写真の奥に見えていますが「蕗谷紅児特別展」。蕗谷紅児は大正から昭和にかけて活躍した詩人・挿絵画家で、戦争中に山北町に疎開していたことから西さがみ≠ニの因縁があるようです。戦後も『アラビアンナイト』や『アンデルセン童話』『アルプスの少女』『白鳥の王子』などの絵本挿絵を描いていますから、その絵を観たことがある人は多いと思います。
会場には原画撤収のため息子さんもお出でになっていました。その息子さんが「あなたが村山精二さん!?」と声を掛けてきたので驚きました。私の拙い出品作品「居酒屋」を見たとのこと。良いとも悪いともおっしゃいませんでしたが、あのニャッは悪い方だろうなぁ(^^;
実はこの会の推進者の事務局長が昨年急死して、会は戸惑っています。地元の新聞社に掛け合ったり、小田原市と交渉したりと精力的に会を運営いた方で、私も彼の誘いで入会しました。その彼がいない今回、開催そのものを私は危ぶんでいましたけど、無事に終えて本当に良かったと思っています。
そんなこともあって、会の代表者から手伝ってほしいと言われたときは無碍に断れませんでした。4月に早期退職して、5月からは宮仕えから解放されますので、まあ何とかなるでしょう。決して地元を無視したつもりはありませんが、結果的に東京中心の活動になっていました。その罪滅ぼしのつもりで微力ながら貢献したいと思っています。泉下の故事務局長も喜んでくれるでしょうか…。
○随筆誌『おほりばた』2号 |
2004.5 神奈川県小田原市 『おほりばた』編集委員会編集・発行 非売品 |
<目次>
玩物喪志録……………………田代 道彌 1 昔、井細田は憧れの町だった………宍倉正弘 7
楽しみお遊び・三題…………日下郎良平 11 山とスナック………………………日比野正已 16
錦通りの思い出……………美濃島新太郎 18 「初めての海」………………………岩田修乎 21
蕎麦産物語………………………大垣博正 24 お彼岸…………………………………石井芳和 26
私のふる里………………………益田昌子 29 声「二十一世紀への郷土文化館」…大木充由 33
足柄縫箔の始まり……………上田不二郎 35 祭衣裳は身体に合った物とすべし…石黒栄治 40
絶品 梅里幸(ばいりこう)の想い出…大石士朗44 十才の夏の想い出……………………佐藤弘明 48
外国人女性に日本を教わる……広右武久 50 セピア色の写真………………………矢島康吉 51
初釜のこと………………………曽根三江 53 旅のアルバム………………………首藤信次郎 55
異論と私訳………………………加藤達夫 60 小田原詣………………………………杉本久雄 62
あとがき…………………………………編集子 71
楽しみお遊び・三題/日下部良平
一、「帝国ホテルでの晩餐会」
畏友達が始めた同人雑誌がある。だいぶ前にも同様の同人誌を発刊したらしいが、私は参加出来なかったが同紙は好評のままどうゆう訳か絶版になって久しい。
今回の発刊については、友達の勧めにより拙文ながら私も参加した。この文集が発刊続けたら出稿者の一人が帝国ホテルで晩餐会を開こうと。
この度で私の筆稿も二回目になる。してみれば次が三回目、次回が刊行されればの表題「帝国ホテルでの晩餐会」。まこと楽しみこの限りで無し。
さて、何故に我等世代「帝国ホテルでの晩餐会」にこだわるのだろう。
今は明治村に移されて仕舞ったが、ライトの設計による「帝国ホテル」の容姿は我等の青春時代の憧れの場所で、ましてテーブルセットにワイン片手にシャンデリアの下で 「ア・ボトム・シャンテ(乾杯!)」夢に描いた姿であった事は言うまでもない。
一流ホテルでの食事会は、昨今では珍しくないが、当時は大変のものだった。
若い読者のために当時の有り様を記述しておこう。省線(山手線)の最後部には外人専用の列車がついていた。箱根の富士屋ホテルも日光の金谷ホテルも連合軍(占領軍)に占領されていた。
八重洲口を出札して右手には外人待合室があった。入口には日本の警察官と白いMPと書かれたヘルメット、白い手袋、白いベルトを着装した連合軍の背の高い憲兵が並んでいた。いつも日本人の侵入を監視した。
私はたやすく入る術を持っていた。つまり私はエチオピアの将兵の一人が小生に貸してくれた少尉の軍服の正装をすれば、彼らと同伴ならば市ヶ谷の将校クラブも金谷ホテルも簡単に入れた。だが「帝国ホテル」はそう簡単に入れなかった。
そんなころ、マリリン・モンローとディマジオが一九五四年二月一日結婚してハネムーンで来日して帝国ホテルに宿を取った。
二月の十六日には朝鮮動乱に派遣された将兵の慰問で韓国へ。
さて、モンローの韓国慰問の写真が英字新聞のトップに掲載されてさほど日が経たなかったある日、苦学生の私はある新聞社に勤めており、帰りがけには新橋のガード下の赤堤灯で安酒を飲んでいた。名刺大の厚紙を台紙にチヂレ毛が一本セロハンでパックされた「もの」を三千円で買わないかともちかけられた。
「ヘェー。モンローの…」と。
どうやらホテル勤務の賢いルームボーイがモンローとディマジオの寝室の浴槽からかゲットしたとの事。いかにもリアリティーがあったがサテサテいかがなものかな。
銀座の「銀巴里」や新橋の「夜来香(イェライシャン)」への常連の紳士が大枚を払って内ポケットにしまった。因に当時の学卒者の初任給は一万円前後だった。
それと前後してペレスが来日した。駿河台の「ヒルオップ・ホテル」に宿泊した。
この時今で言うガードマンのアルバイトをした。現役空手部員に課せられた、ていのいい用心棒である。
我々が頂いた食事が「ライス・カレー」。つまリカレーが銀の器で、ライスは磁気の皿。ラッキョ、福神漬けはガラスの器。これには驚いた。
「ライス・カレー」か「カレー・ライス」かで議論した。昔日の感ひとしお。なんせ四十五円の「カレー・ライス」と「ハヤシ・ライス」は一つの皿に全てが盛り合わせ。月に四十五枚ほどしか支給されない外食券で、たまには米を食おうと外食券食堂へ行った。
食に乏しかったが心は豊かだった。あのころの羨望の「帝国ホテル」たとえ「カレー・ライス」でも良い、卓を囲みワインで刊行会を開きたいものである。
おいらソレまで元気でいるかな……。
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前出の「西さがみ文芸展覧会」で日下郎良平氏より頂戴しました。小田原という街には意外とこういう雑誌が出ているのですが、なかなか目につきませんから、貴重な思いをしました。誌名の「おほりばた」は小田原城を取り巻くお堀端のことですね。
ここでは日下郎良平氏の随筆を紹介してみました。三部までありますが、その一の部分です。「一九五四年」というと私が5歳の頃で、福島県浜通りの片田舎に住んでいました。占領軍の姿は記憶にありませんので、片田舎からはさっさと引き揚げた後なのかもしれません。ですから「省線(山手線)の最後部には外人専用の列車がついていた」など知る由もなく、「若い読者」(それほど若いわけではありませんが、相対的に)のひとりとしては貴重な証言だと思いました。主題の「帝国ホテルでの晩餐会」とは離れてしまいますが、そういう面でも注目した作品です。
○文芸誌『小田原文学』2号 |
1955.2 神奈川県小田原市 小田原文学会・木村孝氏発行 50円 |
<目次>
詩
告白 光山嘉昭(一)
林 …………………田中章惠(四)
心 …………………田中瑩子(六)
病院の午後・埋火…………………木村 孝(八)
○
日曜先生スケッチ帳(其の一)…鍵和田務(一一)
創 作
彷 徨 ………………田中章惠(一二)
娼 婦 ………………原石 寛(一六)
蹄 ………………木村 孝(二二)
中年者の夫婦 ………………大森 澄(二九)
○
編 集 後 記 …………………………(四四)
表紙画 片野不空藏
埋火/木村 孝
外は木枯の吹く夜だ――――――
暗い場末の居酒屋を
今日も又
お前は出ようとしないのか
何がそんなに寂しいのだ
たとえ地球の果てに陽は落ちるとも
変ることない真面目な生命を
はしない酒に何故散らすのだ……………………
こちらも前出の「西さがみ文芸展覧会」で入手しました。執筆者のおひとり大森澄氏が展示しておいたものですが、片付けの時に「欲しい人がいたら持って行って良い」と書かれたメモを発見して、すぐに手を挙げました。『小田原文学』はこの地方では老舗で、目次のメンバーを見てもこの地方を代表する人たちであることが判ります。創刊号でなかったのはちょっと惜しい気がしますが、それでも初期を知る重要な資料であることに変りはありません。
紹介した木村孝氏は第1回日本詩人クラブ賞受賞者で、1998年に亡くなっています。私も親しくさせていただきました。その木村さんの初期作品を見て、思わず胸が熱くなってきました。酒呑みで、何度か一緒に帰って来ましたけど、高歌咆哮、乗客の顰蹙、車掌の責めも今は懐かしい思い出です。木村孝という詩人の、本質的な「寂し」さが出ている作品だと思います。
○久保木宗一氏著『立原道造』 |
2005.12.25 群馬県前橋市 風塵舎刊 1500円 |
<目次>
第一章 永遠に青春の詩人として佇つことの宿命 ………………………………一
第二章 抒情への回帰 ………………………………………………………………五
第三章 堀辰雄との訣別 …………………………………………………………一五
第四章 矢のゆくえ ………………………………………………………………二二
第五章 北への羇(たび) −ひとつの愛を検討する場として− ……………三〇
第六章 南への羇(たび) −抒情の終結として− ……………………………三五
立原道造ノート 立原道造−もう一つの貌−「欲情」を持った詩について……四二
資料 (一) …………………………………………………………………………四五
資料 (二) …………………………………………………………………………四八
後書
「また幾日かが早く過ぎた。夢のなかである夜、僕はおまへとはじめて出会つた日のことを思ひ出した。
夜中に限がさめて、僕はずうつとそれをかんがへつづけた。夏の日、おまへといつかTと三人でシャーベッ
・・・・・・・・・・・
トを食べに行つたとき、おまへがみすぼらしく感じられたことなど。おまへはあのときにほんたうにみす
・・・・・・・・・・・・・・・・
ぼらしかつたのだらうか。それともあのころもう僕はおまへを愛してゐたのだらうか。それがおまへと一
しよに行くのを僕にあんなに恥らはせたのだらうか。僕はそんなおまへと行くのが、何かしらへんに恥か
しかつたのだ。そしてそれがおまへのみすぼらしさのせゐのやうにばかりおもつてゐたのだ。」(節全行引
用、傍点−久保木)
・・・・・・
愛し始めているとき、相手がみすぼらしく見えるというのはどういうことなのだろう。そうした有り方で
相手と交通を結んでゆく道造の愛とは、明かに何かが欠落した愛なのではないか。換言すれば、愛する人を
・・・・・・
みすぼらしいと観察するもう一つの眼が道造の心に潜んでいるのではあるまいか。
・・・・・・・ うつつ
このように、アサイとの愛が観念としての愛の実験であったとするなら、その「愛」は空の愛であり、デ
ラシネの愛として現実という土壌に根をはることはあり得ない。そして、もしそうした実験が成されていた
としたなら、それは相手に対して大変失礼なことであり、また、不幸なことでもある。
22年をかけて立原道造論を書き、25年後に一冊の本になった、と後書にありました。その息の長さに敬服しています。
紹介した文は「第五章 北への羇(たび) −ひとつの愛を検討する場として−」の部分です。インターネットのHTML形式の日本語表記ではルビがサポートされておらず、行間が不統一という見苦しい形になったことをお詫びします。
著者のように立原道造を専門に研究しているわけではありませんので論考は勉強させていただくばかりですが、紹介した部分は私にも覚えがあることなので抜き出してみました。すなわち「おまへがみすぼらしく感じられたこと」は体験しています。20代前半は「おまへ」に限らず私の身の回りの全てが「みすぼらし」いものという感覚に苛まれていました。父母弟妹は言うに及ばずクルマでもレコードでも、何もかもが「みすぼらし」く思えていたのです。おそらく青春特有の自意識過剰と、その反動だったのだろうと思います。それから脱却できたのは30過ぎ、40になってからでしょうか。いま思い出してもおぞましく、二度と経験したくない感覚でした。
立原道造と私を同格にする気はありませんが、おそらくそれに近いものが道造にもあったのだろうとこの部分を読んで思いました。道造詩が青春の文学と呼ばれる所以を感じた次第です。
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