きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
夕焼け 2005.1.2 神奈川県南足柄市 |
2006.1.24(火)
弊社の九州工場が建設され、そこの従業員が昨日から私の職場に研修に来ています。私の仕事とは直接の関連がないので、私が指導することはありませんが、朝夕に彼ら彼女らを見ているのは楽しいものです。まだ20代前半というのは、私のいま居る工場では久しく見ていない年代です(^^; 若いということもありますが、純朴さが伝わってきます。おそらく九州という地域性で、関東の私たちには無いものを持っているように感じました。九州工場はこれから弊社の主役になっていくだろうと思います。研修もそうですけど、九州に帰ってからも頑張ってほしいですね。
○隔月刊詩誌『RIVIERE』84号 |
2006.1.15 大阪府堺市 横田英子氏発行 500円 |
<目次>
切る/正岡洋夫 4 冬が来て/松本 映 8
お地蔵様はひっそりとお堂のなか/ますおかやよい 11
雪んこ/水月とも 14 おじいさんの子守歌/横田英子 17
RIVIERE/せせらぎ 釣部与志/永井ますみ/横田英子/河井洋/石村勇二 20〜26
――ラジオドラマとして制作された――/殿井善隆 27
さみしい風/泉本真里 28 弥生の昔の物語(37) 再生/永井ますみ 30
空と海の不連続線をくぐり抜けて/釣部与志32 巷談(ちまたばなし)・六十点/梅崎義晴 34
のろしを上げる/平野裕子 36 凍った細胞/後 恵子 38
春の夜 冬/藤本 肇 40 それから/戸田和樹 42
慟哭/蘆野つづみ 44 リヴィエール84号に真実の私を表現します/安心院祐一 46
探す/森かおり 48 カウント・ダウン/石村勇二 50
後 恵子詩集「文字の憂愁」特集 52〜57
受贈誌一覧 58 同人住所録 59
編集ノート/石村勇二 60
表紙の写真・TORU/詩・泉本真里
切る/正岡洋夫
切ることは素敵だ
大切な人と指切りをして
千切り絵のような人生に
区切りをつけた
電話を切るように
切っても切れない縁を切った
不幸な出来事が続いて
切り裂かれてしまった記憶がある
玉葱を切りながら涙と一緒に
手首を切って死んだ人の
最後の胸の心音を思い出した
(どこかで葦切りが啼いている)
ブルーベルベットは
芝生に落ちた耳から始まったが
テレビでは顔を隠した男たちが
切々と哀願する人質の首を切り落とし
自らの正当性を主張している
昔は切られた首で塚ができたが
今も幕切れのない戦争が繰り返される
悲しみと憎しみの連鎖を断ち切って
影で操る権力者を切り捨てたい
そんな切羽詰まった思いも
今では切れ切れになっている
切ることは素敵だ
人に裏切られて髪を切って
それでも思いを断ち切れない人がいる
急カーブでハンドルを切らずに
人生を打ち切ってしまった人がいる
悲しいニュースにため息をついて
テレビのスイッチを切る
なぜいのちを切り刻むような
切ない生き方ばかりになったのだろう
人生は仕切直せばいいのに
絶望など振り切ればいいのに
切り札を切ったつもりが
啖呵を切っただけで首を切られた
肉を切らせて骨を切るような
思い切りのいい生き方に憧れたが
思い切ったらあとがなかった
肩で風を切った日は思い出せないが
息を切らせて逃げた日はいくらもある
空手形ばかり切っては
心ならずも人を裏切ってしまった
それでも白を切っているうちに
胃も切ってしまった
(どこかで葦切りが啼いている)
昔は親切な切れ者がいたが
今は切れた人ばかり多くなって
チーズまで切れている時代だ
蜃気楼の見える荒れた切り通しで
黄や赤に枯れた木々を切り倒すように
生活のあちこちを切り捨てている
それでも切ることは素敵だ
切り続けていると
輪切りにされた私の頭に
生きることの意味の一切が
くっきりと現れてくる
まあ、よくもこれだけ「切る」を集めたものだと感心します。作者の努力もたいしたものですが、日本語の語彙の豊富さも改めて感じますね。技巧的には何度か出てくる「切ることは素敵だ」「(どこかで葦切りが啼いている)」のフレーズが変化していく言葉を抑える役割を担っていて、ここは考えているなと思います。「思い切りのいい生き方に憧れたが/思い切ったらあとがなかった」「それでも白を切っているうちに/胃も切ってしまった」「昔は親切な切れ者がいたが/今は切れた人ばかり多くなって」などのフレーズも光っています。ここだけでも1編の詩ができそうですね。
○詩誌『あそ・ま』15号 |
2006.1.30
埼玉県坂戸市 非売品 千木貢氏編集 詩と思想・埼玉の会発行 |
<目次>
落剥/千木 貢 2 本屋がない/青木ミドリ 6
するする と/大羽 節 9 ながれている川のほとりで/志野原一也 12
日溜り/竹内輝彦 14 花嫁は魔女/二瓶 徹 16
彩りの季節/昼間初美 23 カゴノトリ/堀井裕子 26
カラス/間中春枝 30 カラス/向井 和 32
冬のひと−ハリヨに−/北畑光男 34
執筆者住所録 37 受贈誌書 38 表紙・青木ミドリ
カゴノトリ/堀井裕子
「モクテキは何か」
「今 何をユウセンすべきか」
「シテンをどこに置くかが重要だ」
(なんて
ごシドウくださるおかげで)
くちゃくちゃの紙クズみたいな
オツムの中は
ひろげてたたんで
キッチリ端をあわせること
ぐらいできそうです
(いつからホゴシャに
なったんだっけ?)
そういえば
アナタが
初めて敷居をまたいだ日
気づかぬうちに
のしをつけて
紅白の水引の下
“親権”も入っていたらしい
(鍵のついたカゴもそえて)
お仕込みの成果か
今じゃワタシが
《キョウイクテキシドウ》を
振りかざし
アナタにピシピシ打ちつける
(カゴの中で
ピヨピヨしてたのにね)
いつまでも
手のりでいるとはかぎらない
カゴの扉 すりぬけて
ムコウミズ
飲んで 泳いで 溺れたから
やっとこさたどりついた
カゴのとまり木
(でもね)
置いたシテンは
アナタより
ひとつ
上
「アナタ」とは誰かと考えてしまいましたが「初めて敷居をまたいだ日」「(カゴの中で/ピヨピヨしてたのにね)」などのフレーズから自分の子ではないかと思います。「カゴノトリ」だった子が親を越えていく状態を作品化しているのでしょう。しかし、この親はまだまだ「(でもね)//置いたシテンは//アナタより/ひとつ/上」と強気です。ほほえましい感じも受けますね。
○評論集『現代詩事情』2号 |
2005.12.30 埼玉県坂戸市 非売品 千木貢氏編著 詩と思想・埼玉の会発行 |
掲載作品
倉田良成「森戸海岸で」(コールサック50号/04・12・25発行) 2
高田千尋「台所で又、お婆さんがパニックになって」(黄薔薇173号/05・2・17発行) 4
林洋子「粘る種」(流22号/05・3・3発行) 6
冨長覚梁「蜆」(山繭76号/05・3・10発行) 9
菊田守「夕立」(詩集「タンポポの思想」/04・11・25発行) 11
瀬崎祐「行商人の話」(交野が原58号/05・5・1発行) 14
星野元一「影は台所に跳びだしてきた」(かぎゅう27号/05・4・20発行) 16
高山利三郎「雨」(青い花50号/05・3・20発行) 19
麦朝夫「恩があるんや」(叢生138号/05・6・1発行) 22
秋山公哉「曲がったこと」(詩集「夜が明けるよ」/05・6・10発行) 24
みもとけいこ「場所」(飛揚41号/05・7・7発行) 26
山田隆昭「巣」(波16号/05・8・15発行) 28
秋元炯「門番」(波16号/05・8・15発行) 30
金井裕美子「水になる日に」(東国130号/05・8・1発行) 32
青山みゆき「氷雨」(東国130号/05・8・1発行) 34
石内秀典「正しいイチゴの食べ方」(RAVINE155号/05・9・1発行) 35
吉沢孝史「着物で暮れる」(コールサック52号/05・8・25発行) 38
増田幸太郎「蝉」(詩集「遠い声」/05・8・30発行) 41
谷本州子「ある看護福祉士に」(石の詩62号/05・9・20発行) 44
日原正彦「風とポプラ」(ERA5号/05・9・30発行) 47
谷崎眞澄「移動と配置」(詩集「移動と配置」/05・9・10発行) 48
北原千代「異郷の橋」(詩集「ローカル列車を待ちながら」/05・11・1発行) 51
瀬崎祐「行商人の話」(交野が原58号/05・5・1発行)
私が行商で売りあるいているのは 妻の骨を削って作った指輪だ
もう長い年月のあいだ 私はその指輪を作っている
指輪の材料が足りなくなると 妻の部屋へ行く
妻は 今度はここがよいでしょうと 自分で骨の部分を探しては私に差しだす
ときに それはごつごつしており ときに始めから滑らかな場合もある
大切な妻の骨だから ていねいに骨を削っていく
指輪を作る際にもっとも大切なことは 骨の曲面を自然に活かすことだ
曲面の陰になった部分は 深く切れ込んでいる なにか液状のものをたたえて
いるようにも見える いつの日にか そこから溢れてくるものがあるのだろう
か
指輪を買う人は もちろん 妻の骨からできたものだということは知らない
おそらく何かの動物の骨と考えているのだろう 私もあえて訂正はしない
しかし 指輪をはめていると 動物の骨では起こらない現象が生じる
指輪をはめている指が次第に細くなるのだ そして 指輪はわずかに大きくな
っていき やがて 指輪はすとんと抜け落ちる
買った人の指の骨を吸い取って大きくなった指輪は 気がついたときには 妻
の元へ戻ってきている
妻の骨は こうして 他人の骨を吸収して 次第に太くなっていく
妻が他人から預かっているものは何なのだろうか
顔だけは新妻のときと同じなのに 身体は巨木のようになり いまや 妻は部
屋の中央にどっかと座り 身動きすらできなくなっている
こんなふうに詩作品を紹介しながら、いつものことだけれど、私は当の詩人について何の知識もない。もしかしたら、以前から目にしていて気がつかなかっただけなのかもしれないが、瀬崎祐はまるで突然に暗闇の向こうから目の前に姿を見せた感じがする。この作品は私にちょっとした衝撃を与えた。「交野が原」で気づいてみると、同じときに目にした
「ERA」の巻頭にも彼の詩があった。いったい瀬崎祐の魅力は何なのだろうか。
こうした非現実の世界を描くのはいまさらのことで、現代詩はいまやその大半が非現実化された表現で溢れているのだから、妻の骨を削って指輪を作り、行商するといった設定に新鮮さがあるということではあるまい。瀬崎祐の新鮮さはそういうことではなく、非現実のうしろに現実が隠れていないという手法そのものにあるような気がする。この詩を現実のたとえとして受け取ってしまったら、詩の魅力はたぶんたちまちにして失せてしまうだろう。私たちの知性はいつも現実と向き合っていて、現実をどうにかしたいと思っている。表現欲にしても、それを満たすがためのものであるが、瀬崎の詩にはそこの部分が欠落している。行商人の妻はあくまで表現のなかでしか実在しないのである。表現のなかに妻はどうしようもなく巨大となり、中央にどっかと座りつづけるのである。それは現実の写しではない。
しばらくあとに送られてきた「詩界」246号に、瀬崎の詩論が載っていて、「どうせ詩を書くからは現実世界では意味を持たないような、仮想世界でしか通用しないような世界の構築をめざさなくては何の意味があろうか」と述べてあった。「(仮想世界の戦いは)仮想世界の意味を問う戦いであり、戦っている相手は現実世界である」とも言っていた。こういう論にたまたま目が留まったのは、もちろん瀬崎の存在を気にしたからである。そして、あ、やっぱりと思った。
「夢」は解析されなくても、私たちの存在を内側から支えているひとつの要素だということに、すでにフロイド以降だれもが気づいている。それに現実的な判断を下すと、「夢」は「夢」の世界を失って色あせてしまうということに、「現代詩」は気づいている。瀬崎の新鮮さはたぶんアンチ・フロイドにあるのだろう、と私は思う。
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「詩と思想・埼玉の会」で千木貢さんがテキストとして使う冊子ですが、ひとつひとつの作品に付けられたコメントには瞠目するばかりです。実は私は瀬崎祐さんの作品に注目しているのですが、本当のことを言うとよく判らない、瀬崎詩の魅力をうまく説明できないというもどかしさを感じていました。その瀬崎作品について千木さんは「非現実のうしろに現実が隠れていないという手法そのものにある」と見破っています。あっ、そうなのか!と思いましたね。「いつも現実と向き合っていて、現実をどうにかしたいと思っている」だけでは瀬崎詩は読めないんだということが判りました。私のもどかしさもそこにあったと気付いた次第です。『現代詩事情』はやっと2号ですが、これから先も何を教えてくれるか楽しみです。
○詩誌『HAND ISLAND』8(終刊)号 |
2005.11 東京都国立市 鍋島工房ガリ版部発行 非売品 |
<目次>
ありがとう……………………………佐伯多美子 2
荒れ野から―追悼 タメさんへ―…村野美優 6
今、なぜガリ版なのか………………12
ガリ版 札場倫江
ありがとう/佐伯多美子
しょうがいしゃの あつまる
デイケアは
とても ぜいたくな場
じかんも こころも
ゆったりと 流れる
あんしんして 委ねる
あんしんすると
こころを ときはなす
じゆうで いられる
じゆうに なると
すなお でいられる 気がする
すなおに なると
しあわせに なる
しあわせに なると
いっぱい 好きになる
じぶんが すきになる
まだ やさしくは なれないけれど
仲間が
いてくれることに
気づく
うれしい
それから ありがとう
ありがとう
珍しい、ガリ版刷りの詩誌です。何かホッとする詩誌です。40年前の高校生の頃までは私もガリ切りをしたものでした。なつかしいですね。しかし今号が最後とのことで残念。こういう詩誌は残ってほしいものです。
村野美優さんと札場倫江さんの二人詩誌で、ゲストが佐伯多美子さんでした。佐伯さんの作品を紹介してみましたが「あんしん」「じゆう」「すなお」「しあわせ」と畳み掛けて行きますけど、そこに無理を感じません。ひらがなの効果もあるのでしょう。最後の「ありがとう」まで「すなお」に読むことができる作品です。
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