きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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満天星 2005.1.8 自宅庭にて

2006.2.8(水)

 上司との面談があって、退職日が正式に決定しました。私の希望の3月末はやはり受け入れられず、当初の予定通り4月末になりましたけど、まぁいいかあ。後任者への引継ぎに3ヵ月を要望されましたけど、それは拒否。やり様によっては1ヵ月で充分、ということで合意しました。
 正直なところ3月末でも長いと思うのですから、4月末まで気力が持つか自信はありません。辞めると判っている職場で今まで通りのフェーズで働くのは無理な相談です。意欲は落ちるし効率も当然落ちます。それを覚悟しての会社提案なんでしょうから、責任は会社にあると言えますね。私はこれ幸いと喜んで早期退職しますが、いやいや辞めていく人たち、あの手この手で辞めさせられる人たちのことを思うと、組織としての会社に対していい顔ばかりはしていられません。



アンソロジーKADOの会詩集4集
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2006.1.15 岡山県岡山市 吉久隆弘氏方・KADOの会発行 非売品

<目次>
有元利行  わが友よ ……………… 8   朝が来て ……………… 10
今井文世  窓中 …………………… 14   机の上に ……………… 17
川内久栄  古代米を炊く ………… 20   終身刑を課した ……… 23
木村真一  骨 ……………………… 26   芥捨場 ………………… 28
杉田ソノ子 背を洗う ……………… 30   ひとときアフリカに … 33
壷阪輝代  神無月こ ……………… 36   あの日から …………… 39
西崎綾美  舞い降りた花 ………… 42   酔芙蓉 ………………… 44
日笠勝巳  潮鳴り ………………… 46   禁煙考 ………………… 48
日笠芙美子 月となめくじ ………… 52   海と巻貝 ……………… 54
三村洋子  榎木 …………………… 57   昼の月 ………………… 60
悠紀あきこ 海鼠 …………………… 63   蝶の地図 ……………… 66
吉形みさこ ハイビスカス・一輪 … 68   手紙の行方 …………… 70
吉久隆弘  河を渡る ……………… 73   水番 …………………… 74
あとがき ……………………………… 78   報告 …………………… 80
活動記録 ……………………………… 82   装幀 吉久隆弘



 わが友よ/有元利行

こんばんわ
はにかみ笑いをうかべ
一冊の書物をだいじそうに抱え
その人は寒々と薄暗い庭先に立っていた

恐るべき父親が指さしつづけた稔りの土地を
まぼろしの衣のようにふり払い
父に焼き捨てられた書物の中からかろうじて
残った一冊の詩集をひろい
長い冬の夜 くらい峠を越え
吹き下ろす木括らしを全身に受けて
谷川沿いに下ってきたその決別の道のりは
どれほど痛く長かったことか

間借りしていた私の狭い部屋の
火鉢に手をかざすその人の孤独な形
思わずわたしは
大海原のはての異国の子守唄を口ずさんだ
これからもつづく長いいたみの旅の初めの
ボオドレールの信天翁の羽ばたきのように
ひたすら天を信じなければ羽ばたけない鳥の歌のように

ようこそ むなしい一日を耐える人よ
ようこそ 輝かしい青空を飛ぶ人よ

 作者は会の代表者でしたが昨年12月に亡くなったそうです。詩集を編まれていて、原型となる手作りの印字を見てお亡くなりになったことが「報告」に載っていました。ご冥福をお祈りいたします。
 有元利行という詩人にはおそらくお会いしたこともなく作品もほとんど拝見していないのですが、紹介した詩「わが友よ」を拝読すると人間性の豊かさを感じます。「間借りしていた私の狭い部屋の/火鉢に手をかざすその人の孤独な形/思わずわたしは/大海原のはての異国の子守唄を口ずさんだ」というフレーズには「その人」に同化する「わたし」の姿勢が表出していると思います。最終連の2行も佳いですね。広い人間性に一度触れてみたかったと感じた作品です。



詩誌『砕氷船』12号
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2006.1.31 滋賀県栗東市
苗村吉昭氏発行 非売品

<目次>

ダーウイン17世/森 哲弥…2        ホヌ・ホヌ/苗村吉昭…16
小説 脳髄の彼方(6)/森 哲弥…26
随想 プレヴエールの詩をどうぞ(5)/苗村吉昭…32
エッセイ
空想と現実/森 哲弥…38          きねずみ/苗村吉昭…39
表紙・フロッタージェ/森 哲弥



 ホヌ・ホヌ/苗村吉昭

 この季節になると、ホヌ・ホヌ(海亀)が、トゥアオ
ネ(砂浜)に上がってくることがある。ただし、通常は
真夜中のことであり、昼間からトゥアオネ(砂浜)でホ
ヌ・ホヌ(海亀)を見かけることは、めったにないこと
だ。あの人は、いつもの小高いプケ・プケ(丘)から降
りていて、トゥアオネ(砂浜)に坐って、一匹のホヌ・
ホヌ(海亀)を見ていた。僕はあの人の傍に駆け寄って
いった。

 「キア・オラ(こんにちは)。今日は、いつものプケ・
プケ(丘)におられないものですので、ずいぶん探しま
したよ。」
 「キア・オラ(やあ)、君か、悪かったね。ホヌ・ホ
ヌ(海亀)が見えたので、つい降りてきてしまったんだ。
それにしても、ホヌ・ホヌ(海亀)の甲羅というのは、
上手い具合に出来ているものだね。美しいものだね」
 見ると、ホヌ・ホヌ(海亀)は、トゥアオネ(砂浜)
を一所懸命になって、掘っていた。
 「何をやっているんでしょうね」
 「うん。卵を産みにきたのだけれど、ちょっと時間の
概念を間違えてしまったんだ、と思うよ」
 「どうして、ふだんモアナ(海)の中にいるのに、わ
ざわざ、トゥアオネ(砂浜)まで上がってきて産卵する
のでしょうか」
 「さあ、私にはよく分からないけれど、何か理に適っ
たことがあるのだろうね」

 そのとき、向こうの方から歓声が聞こえてきて、船着
場に向かって、大勢の人たちが進んでくるのが見えた。
あの人は、少し迷惑そうに顔を上げた。
 「何の騒ぎだろうね」
 「はい。今日は、ナン・ドワース村のジュジュの嫁入
りの日です。ナカップ島の領主の所へ嫁ぐそうです」
 僕がそう答えているうちに、耳に真っ赤な大輪の花を
挿し、一際晴れやかに着飾った女性を先頭に、長い行列
が通り過ぎていった。行列に連なる人々は、口々に新婦
を褒め称える言葉を発していた。
 「ジュジュよ、今日のように、いつまでも美しくあ
れ!」
 「ジュジュよ、みんなが老い朽ち果てても、今日のよ
うに永遠に若々しくあれ!」
 「ジュジュよ、誰よりも幸せであれ!」
 一団を見送ると、僕は振り向いて「今日のジュジュは、
綺麗でしたね」と言った。あの人は軽く領いたけれど、
しばらく黙っていた。それから、こんな叙事詩を諳んじ
始めた。

 ナン・マドールの地に
 丸い船が降り立った日
 民衆は異形の人の姿を見つけ
 民衆は異形の人の言葉を聞いた
 民衆はその人の姿が異なることを怪しみ
 民衆はその人の言葉が異なることを恐れ
 その人を捕らえ打ち殺そうとした
 ナン・マドールの若人ウラジ・ミルは
 民衆に異形の人の犯した罪を問い
 異形の人が受けねばならぬ罰を問うたが
 誰一人ミルの問いに答える者はなかった
 そこでミルは異形の人を預かり
 異形の人を家に招き入れた
 ミルの家にはパパとジジとチチとハハがいた
 パパもジジもチチもハハも異形の人を恐れ
 異形の人を追い払うようミルに命じた
 ミルは家族に再び問うた
 異形の人が犯した罪と受けねばならぬ罰を
 しかしジジは答えた
 異形の人はその異形ゆえに罪である と
 そのときからミルには
 異形の人の考えが心に響くようになった
 《モウヨイ ミルヨ ワタシハ タチサル》
 《ワタシノフネマデ オクリトドケテホシイ》
 異形の人を丸い船まで送り届けると
 ミルは聞いた
 あなたは何処からきて何処へいくのか と
 異形の人は答えた
 《オマエガノゾムノナラ ツイテキテミルガヨイ》
 そこでミルは異形の人と共に船に乗り込んだ
 船は光のように速く進んだが
 異形の人のイウィ(国)に着くまで一年を要した
 そのイゥィ(国)はカーニムエイソと呼ばれていた
 ミルはそこで見た
 千のラア(太陽)とマラマ(月)を
 甘い酒が流れる長いアウア(河)を
 叩けば柔らかいパンが出るプケ・プケ(丘)を
 美しい女と勇ましい男が踊るモアナ(海)を
 ランギ(空)へと駆け上がる大きな階段を
 それからミルは学んだ
 このイウィ(国)の昔話と未来話を
 昔話の多くは残酷なものだった
 未来話の多くは難解なものだった
 ミルはしばらくすると家に帰りたくなった
 しかし異形の人は言った
 《オマエハ ココデハ エイエンニワカイ》
 《オマエハ カーニムエイソニ イタホウガヨイ》
 それでもミルは帰りたいと願った
 そこで再び丸い船に乗って
 光のように速くナン・マドールに戻った
 着くと
 ナン・マンドールの景色はすっかり変わっていた
 ミルの家はなく
 パパもジジもチチもハハもいなかった
 ミルは方々捜しまわり
 やっと自分が知っている懐かしい物を見つけた
 それは子供の頃よく遊んだ石舞台という岩だった
 ミルは子供の頃のように
 なだらかな山の斜面から
 勢いよく石舞台に飛び降りた
 すると分厚いはずの石舞台は
 あっけなくパリパリと砕け散った
 ペラペラになってしまった岩の欠片を摘んだとき
 ウラジ・ミルは千年の時が過ぎていたことを知った

 あの人は、詩を諳んじ終えると、静かに立ち上がった。
僕も立ち上がった。
 「あのジュジュというお嫁さんが、みんなが老い朽ち
果てても、永遠に若々しかったら、きっとミルのように
不幸だろうね」
 「でも、時間というのは、みんな同じように進んでい
くのですから、ウラジ・ミルの伝承は嘘ですよ」
 「それでも、この世界のどこかで、私たちの時間とは
異なる速度で時間が流れている場所があるかも知れない
よ」
 「・・・」
 「そのことは、いつか誰かが証明するかも知れない。
でも私は、その原理が知りたいわけではないんだ。それ
よりも、あの群集が今日褒め称えた言葉や、ミルの伝承
が私たちにとってどんな意味があるのか、ということの
方が大事なように思えるんだ」

 僕はそれから、産卵を終えたホヌ・ホヌ(海亀)が、
モアナ(海)へとゆっくりと歩み出す姿を見た。
 「ホヌ・ホヌ(海亀)は一万年生きる、というのは本
当でしょうか」と僕は聞いた。
 「さあ、私には分からないな。けれども、今日、この
ホヌ・ホヌ(海亀)は卵を産み、やがてその卵から新た
なホヌ・ホヌ(海亀)が現れ、モアナ(海)へ入ってい
くことだろう。そのホヌ・ホヌ(海亀)がまた卵を産み
にやってくる。勿論、少しずつ姿、形は変わっていくの
だけれど、その命の連鎖が永遠に途切れない、と信じた
だけで充分じゃないか。私たちの命も、伝承も、思いも、
また同じことだよ」

 僕はあの人と、モアナ(海)へと戻ってゆくホヌ・ホ
ヌ(海亀)を見送った。このときになって、僕はやっと、
時間を間違えたホヌ・ホヌ(海亀)を群集から守るため
に、あの人がトウアオネ(砂浜)に降りてきていた、と
いうことに気がついた。ホヌ・ホヌ(海亀)は、しばら
く海面に、その美しい甲羅を出していたが、やがて深く
潜って見えなくなってしまった。

 長い作品ですが全行を紹介してみました。この叙事を途中で切るのは難しいと思います。書き方によっては挿入詩だけを紹介することでお茶を濁すことができるかもしれませんが、そうしたくはありませんでした。この長さをこそ味わってもらえればと考えます。
 作品鑑賞の手助けとしては前号(11号)の「
ミロ・ミロ」の鑑賞も薦めたいのですが、この作品単独でも独立した作品として読めます。いずれ一冊の詩集になるのではないかと予想しています。

 実は、この全行引用について添え文には「長いので気を遣うな」と書かれていました。苗村さんへの返信でその回答を書けば良いことなのですけど、いい機会なので全文引用についての私の思うところを述べさせていただきます。
 拙HPはいただいた詩集・詩誌に対してのお礼を述べるという目的で開設しましたが、不遜かもしれませんが一方では日本の現代詩の現状を知っていただきたいという思いがありました。それは部分引用でも可能でしょうが、どこを引用するかは筆者の意図がかなり入るところです。私はそれほど評論に長けているとは思っていませんので、的確な引用に自信がありません。よって全文引用が妥当だと考えています。

 よくある質問で、手入力は大変だろうというのがあります。開設のごく初期には確かに手入力をしていましたが、これは長続きしないとすぐに判りました。スキャナーに切り替えてからは入力の手間は10分の1ぐらいになったろうと思います。最近のスキャナーは確度が上がって9割を超えているのではないでしょうか。ですからどんな長文になっても印刷されている文字であれば問題はありません。
 全文引用については海外の日本文学研究者からも好評だと聞いています。カナダや韓国から拙HPを訪れ、日本の現代詩を堪能しているそうです。そこまでは意図していませんでしたがインターネットの効用に一石を投じられた結果になったと思います。

 著作権の面では問題を感じているのは事実です。出典を明示した部分引用なら許される場合が多いのですが、全文引用は難しいところです。ただし市販の購入本ではなく贈呈された本であること、HPのトップページで断りを入れていること、引用したことをEメールでお知らせしEメールのない人には内容をコピーして礼状を書いていること、引用についての削除要求(今までに2度ありました)にはすぐに対応していること、そして何よりこの活動によって金銭を得ていないことで許されるだろうと考えています。日本ペンクラブの委員として著作権問題を扱った経験からも、今はそのように判断しています。

 書き出せばキリがないのでこの辺にしますけど、基本的にはそんな意図で全文引用をしております。ご理解いただければ幸いです。



会報『「詩人の輪」通信』9号
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2006.2.6 東京都豊島区
九条の会・詩人の輪事務局発行 非売品

<目次>
沖縄で女性九条の会/芝 憲子 1      雑談/芳賀章内 2
手紙より/あずま菜ずな(福井県) 2     初めての韓国/岩本多賀子 3

流れ/葛原りょう 3            名札を縫いつけて/北村愛子 4
夕魚/池山吉彬 6             狼だ 兵器だ!/澤田康男 6
大島博光さんに捧げる詩/小森香子 7
関西のつどいをよろしく/佐相憲一 8



 夕魚/池山吉彬

この街を知るには
小高い丘に登ったほうがよい
眼下に細く長く街並みがひろがり
ごとごとと市電が行き交い
遠く銀色にひかる海が見えるはずだ

そのとき あなたに見せたい一組の資料がある
原爆投下二日前に
上空から撮影された市街の写真と
原爆投下三日後の
正確に同じアングルで撮影された写真
そして もう一枚は
ふたつを比較して作成された被害図である
二枚目の写真の中央には
いっぽんの樹木もないのっぺらぼうの原野に
「GROUND ZERO」という文字が浮き出ている
あなたは心のなかで 眼を開き
見えないなにかを 見なければならない
どのように冷静な手が
どのようにその周到な実験を行ったか

この街には 夕魚 という
みやびな言葉があった
その日の朝 郊外の海で獲れた魚を
背負い籠で漁師の妻たちが街中売り歩き
人々は門口に立って
赤い魚や青い魚を買ったものだが

そのとき 夕魚を売っていた人々
それを食べていた人々の暮らしは
宇宙のどこらへんまで飛ばされていったか
背負い籠も 魚のしっぽも
すっかり地上から消えてしまって
つるつるののっぺらぼう
あとには
見知らぬ風が吹いていたというのだ

 「夕魚」の意味を辞書で調べましたが載っておらず、正確には判らないのですが「みやびな」感じは受けます。おそらく「その日の朝 郊外の海で獲れた魚を」夕方まで「背負い籠で漁師の妻たちが街中売り歩」いたのか、夕方に「それを食べ」たのではないかと想像しています。
 そんな「人々の暮らし」が「飛ばされていった」ことを描いていて、数ある「原爆投下」の作品の中でこの書き方は珍しいと思います。こういう視点もあったのかと改めて思いました。まだまだ色々な視点や書き方で原爆を書かなければいけないのだなと感じた作品です。



季刊個人詩誌『天山牧歌』70号
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2006.2.1 北九州市八幡西区
『天山牧歌』社・秋吉久紀夫氏発行 非売品

<目次>           チャンヤオ
西部高原で思うこと……(中国)昌耀  秋吉久紀夫訳…1頁
東シナ海で再燃する日中問題(1)     秋吉久紀夫…2頁
中東イスラム圏の詩(4)(イランの詩二篇)秋吉久紀夫訳…10頁
 マヌチェル・アターシ「朝焼けのなかの騎士」
 ムハメド・レチャ・アブドラ・マラヂャン「第三世界」
カタコンベの壁画の魚たち……………………秋吉久紀夫…12頁
電気釜他一篇………………………………………稲田美穂…14頁
受贈書誌…………………………………………………………11頁
海外文学情報……………………………………………………15頁
編集後記・身辺往来……………………………………………16貢



 第三世界/ムハメド・レチャ・アブドラ・マラヂャン 秋吉久紀夫訳

あなたはこんな土地に生まれたのだ
   電灯もないし
   飛んでいる燕もいなく
夜はながくて果てしなく
腹ぺこに飢えた狼は
口を地面に貼りつかせ
   顔じゅうにずる賢さをただよわせている
   (大きく膨らみつづける不安)
あなたはこんな土地に生まれたのだ
   電灯もない、燕もいない
飢えと寒さに襲われるひとびとが
   人気ない辺鄙な狭い路地裏に
   喘いでいて
   電灯もないし
   太陽さえも憂い悲しんでいるように見え
どきどきする恐怖心
さむざむとする侘しさ
突如として射し込む−−−一点のきらめく光!

あそこ
   あの折れ曲がった路地にあるのは
     いったい誰の骨々か
        ほら、素っ裸の狼が
血のべっとりと付いた自分の顔を舌嘗めずりしている

みなよ、運命とはなんと惨めなものか、
この土地のさだめはいつもこのざまなんだ
  詩人はせいぜい一本のマッチの微かな光を借りて
    粉々となる己が身と心とを露
(あらわ)にするばかり。

 ムハメド・レヂャ・アブドラ・マラヂャン。一九五二年にナハウンドに生まれる。農業技術者で現代イランの著名詩人。かれの無韻律の新詩は大自然と日常生活を描く優れた絵画だと評価されている。詩集に『雲根』『今日のルバイヤット」などがある。(二篇共にイラン中国駐在大使館文化部選「イラン現代詩抜粋」
『イラン現代文学』華夏出版社2003年10月刊より翻訳)

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 注釈の「二篇共に」というのは、紹介した作品の他に「マヌチェル・アターシ『朝焼けのなかの騎士』」がある、という意味です。ここではムハメド・レヂャ・アブドラ・マラヂャンの作品に限って考えてみますが、ホメイニ革命後の詩人が見た祖国と捉えられるでしょう。「電灯もない、燕もいない」のは比喩としても、それに近い状態なのかもしれません。その中での詩人の役割を「せいぜい一本のマッチの微かな光を借りて/粉々となる己が身と心とを露にするばかり」だと規定しているところに驚かされます。そこまで追い詰められていると採るべきでしょうか。日本の現代詩の生ぬるい現状を考えると、頭を殴られたような衝撃を受けました。
 そういう意味でも本誌の役割は大きいと思います。イランの詩なんてなかなか紹介されませんからね。勉強させていただきました。



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