きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
満天星 2005.1.8 自宅庭にて |
2006.2.12(日)
日曜日ですが部下の男性には出勤をお願いして、私はのうのうと家にいました(^^; 部下とは言ってもトシは私より二つ上、仕事の内容は私より何倍も判っています。安心してお任せしました。もうひとりの女性の部下に休日出勤してもらうときはそうはいかず、出社・退社時に電話をもらって安全確認していますけど、男ですからね、心配はしていません。
そんな気苦労もあと二タ月ちょっと。待ち遠しいです。
○秦 恒平氏著『湖の本』エッセイ37 からだ言葉の日本 |
2006.2.10 東京都西東京市 「湖(うみ)の本」版元発行 1900円 |
<目次>
からだ言葉の日本 序にかえて…2
からだ言葉を″lえる…7
からだ と ことば…7 からだ で体験――お手を拝借…18
からだ で批評――あな面白…29 からだ で文学――身も心も…41
からだ で勝負――歯むかえ…54 からだ で哲学――目分量・手加減…66
チエのない話 中仕切にかえて…80
からだ言葉で″lえる…81
頭の話…81 目の話…83 鼻の話…84 耳の詩…86 口の話…88 歯・舌・喉の話…90 顔面の話(一)…92 顔面の話(二)…93 首の話…95 肩の話…97 胸の話…98 腹の話…100 背の話…102 腰の話…104 股・尻の話…106 胴体の話…108 手の話…109 足の話…111 四肢の話…113 毛髪の話…114 皮膚の話…116 内臓の話…118 骨の話…120 血の話…122 筋・肉・体の話…123 性器の話…125 排泄・分泌物の話…127 身の話…129 心の話…131 気の話…132 息・脈・声・言葉の話…134 生・命の話…136 老・病・死の話…138
私語の刻…140 湖の本の事……149
装本・<篆刻>井口哲郎 <装画>城景都
<装幀>堤ケ子
背の話 やはり話はここから始めよう、「背に腹はかえられぬ」とか。どういう意味と、説明の必要こそ無いけれど、この物言い、いつ、だれが、どういう場合に始めたのか。
狂言に『ぶあく』というのがある。勤めをおろそかにしている「ぶあく」を、主人の言い付けで朋輩の太郎冠者が手討ちに行く。行かねば、太郎冠者が主人の手討ちに遭う。朋輩同士はかねて仲良しなのだが、さて太郎冠者にすれば「背に腹はかえられぬ」と言いわけするしかない。この際の「背」は命であろう、そして「腹」は友情に当たろうか。ただし『ぶあく』の用例が最初とは思えない。もうよほど双方で了解が利いている。
ここで気にもなるし、面白いと思うのは、腹より背のほうが大事そうに言われている点だ。絶対的なことは言えないにしても、やや常識をはずれている。どちらかなら、逆ではないかという気がする。いや、この言いかたでは、腹と背とに格差はつけていない、という意見もある。なるほどそうも読める、ちょっと苦しいが。少なくも現時点では、やはり背が目前に大きく在って、腹はいささか向うの蔭に在る。そんな感じに読める。そして、それはヤッパリやや奇異に思える。邪推がしてみたくなる。
「腹は借りもの」というゾッとしない物言いがある。「腹違い」「腹が大きくなる」「同(異)腹」などともいうし、それなら、妊娠を謂うのに「はらむ」と表現してきたことも思い合わすことができる。「お腹様」など甚だ気色の悪い言葉だが、要するに「おんな」をハッキリ指さしている。
一方、背は「背の君」で、正しくは「兄(せ)の君」の当て字にもせよ、「妹背(いもせ)の契り」などと、けっこう「背」の字で一般に「おとこ」を指してきた。慣用という意味では、これは決してマチガイではない。
だが、これまた何で? と聞きたい。
「背に腹はかえられぬ」また「背の君」という典型的なからだ言葉≠フ背景に、そんな男女の性(セックス)の様態などを看て取っていいのかどうか、私に確信があるわけではないが、からだ言葉≠ノいわば隠語の効果が秘められてもいたのは間違いないのだし、存外こんな分かりやすそうな表現のウラに、「腹位」より「背位」がもともとの「体位」などと、イワク言いがたい性技の含蓄が籠めてあったかも知れんなぁ、とも想像している。
「背」は、「背丈」「背格好」と同義に用いられてもいる。「中肉中背」もそうだろう。「背後」というように、ウシロを意味した背の熟語も少なくないし、「面従腹背」でソムク意味の言いまわしも多い。「背戸」など前者だし、「背を向ける」は後者だろう。「…を背にする」となると、どっちにも取れる。面白いのは、ドタン場へ来て「背負い投げ」を食ったり食わせたり。これなどは例の「背水の陣」に通い合うのだろう。
「背負(しょ)ってる」人が、いる。また、「背負(しょ)いこむ」人も、いる。同じようでも、微妙に違う。どっちもウンと「背伸び」しているのだが、その仕方に人柄の違いが微妙に出てくる。どっちも、ある意味では困りモノなのだが、そうとばかりも言えない。「1一家を背負って立つ」人もいれば、他人のイヤがる「苦労を背負いこむ」人もいるからだ。紙一重の「背中合わせ」で評価が動く。考えようで「背筋が寒くなる」。
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1984年に筑摩書房より刊行された、原題『からだ言葉の本』の復刻のようです。「からだ言葉」がいかに日本人の日常に密着しているか、文学表現でどう扱われているかを検証したエッセイで、面白く(これもからだ言葉)読みました。紹介したのは「からだ言葉で″lえる」の「背の話」の全文です。これを読んだだけでもいかに深く洞察しているかが判ってもらえると思います。こういうことを書いた人は稀有ではないでしょうか。
おやっ?と思ったのは「背に腹はかえられぬ」の意味です。私は昔から侍言葉で、肉を切って骨を切ると同じだと思っていました。背を切らせても内臓のある大事な腹は切らせない、という意味だろうと思っていたのですが、どうも違うようです。思い込みは怖ろしいですね。勉強させてもらいました。
○詩・仲間『ZERO』13号 |
2006.2.15 北海道千歳市 綾部清隆氏方「ZERO」の会発行 非売品 |
<目次>
森 れい 螺鈿
斉藤征義 メヒシバの川の
綾部清隆 たそがれ
メヒシバの川の/斉藤征義
大きな川にそそぐ ちいさな川を 子どもの
川っていうが あれは
子どもが流される川のことだよ
切りきざまれて 切りきざまれて
子どもらが流される
おんなはまだ若いころ 誰かに背負われて
この村にきた 暗い幾日もの揺れに泣きなが
ら 川の音をきいた 川があふれるたびに
岸辺を這って逃げた 川の喘ぎに縺れたのは
同郷というおとこと出会った春 つぎの春に
子どもが生まれた そのつぎの春にも子ども
が生まれ そのつぎの子どもも生まれた そ
の つぎの春にも
ひとの魂は その肉体と結ばれていない メ
ヒシバの魂も あらゆる器官から分離されて
いる だがいずれの魂も あまねく器官に浸
透し 哀しみのときにだけ発光する
切りきざまれて流されるメヒシバの子どもら
が 川面をみどりいろに発光させ 腫れた眼
をして 遠い森を睨む
切りきざまれて 切りきざまれて
子どもらが流される
あの流れのひとつひとつの光りが
子どもらだよ
おんなを攫ってきたのは誰だったのかね
「メヒシバ」とは雌日芝と書き、ジシバリ(地縛)のことと辞書にありました。ジシバリは、子供の頃、草むしりで一番泣かされた草だと思います。根が深くて、菊の葉に似た葉は取れるのですが根が取れない、あの嫌な草だろうと想像しています。
冒頭から「あれは/子どもが流される川のことだよ」というフレーズが出てきてドキリとさせられますね。そして「切りきざまれて流されるメヒシバの子どもら」に重なって、怖い童話を読んでいるようです。伝説、民話と謂ってもよいかもしれません。その重奏が見事で、最終連の「おんなを攫ってきたのは誰だったのかね」もよく効いている作品だと思いました。
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