きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
満天星 2005.1.8 自宅庭にて |
2006.2.26(日)
午後1時より日本詩人クラブ三賞の最終選考委員会が神楽坂エミールで開かれ、授賞詩書が以下のように決定されました。
第39回日本詩人クラブ賞 川島 完 詩集『ゴドー氏の村』
第16回日本詩人クラブ新人賞 竹内美智代詩集『切通し』
第6回日本詩人クラブ詩界賞 佐藤伸宏 著 『日本近代象徴詩の研究』
私は新人賞の選考委員だったのですが、毎度のことながら新人賞≠フ定義について考えてしまいましたね。新人賞は完成度の高さも大事ですけど、書かざるを得ないものが表出しているかどうかも大事だと思っています。その観点で推した詩集は残念ながら授賞に至りませんでした。しかし最後まで接戦を演じたことは良かったと思っています。
選考委員としての所感は詩人クラブ会報『詩界通信』や雑誌『詩学』に載りますので、そちらに譲ります。相当本音を出して書いていますのでよろしかったらご覧ください。
○詩とエッセイ『千年樹』25号 |
2006.2.22 長崎県諌早市 光楓荘・岡 耕秋氏発行 500円 |
<目次>
詩
透明な夜ほか一篇/鶴若寿夫 2 五線譜/さき登紀子 8
さるの反省/和田文雄 10 初冬/早藤 猛 12
初春月の雪ほか一篇/江崎ミツヱ 14 鈍色の海灰色の海ほか一篇/松富士将和 18
野の道ほか二篇/岡 耕秋 24
エッセイほか
ドラキュラ城の虜/小辻梅子 30 ウエストミンスターの鐘(八)/日高誠一 38
城原川(三)アオと烏貝/佐藤悦子 46 二重暦について/植村勝明 54
暴力考/中田慶子 57 古き佳き日々(二二)/三谷晋一 60
物流の先端にいて/早藤 猛 64 菊池川流域の民話(一九)/下田良吉 66
千年樹の窓から 六年輪記念エッセイ 74
自分の仕事 江崎ミツヱ/黄泉の島 さき登紀子/見えないカラスと聞こえないネコ 佐藤悦子/父・私・光 鶴若寿夫/八街の落花生 早藤猛/元旦当番医 日高誠一/六年輪記念号に寄せて 松富士将和/華厳の滝と父の思い出 三谷晋一/ヤグルマギク 岡 耕秋
六年輪索引 二一〜二四号索引・執筆紹介 86
編集後記ほか/岡 耕秋 92
表紙デザイン 土田恵子
さるの反省/和田文雄
子ざるが反省すると可愛さがまし
人びとは手をうって笑い
子ざるは知ったふりして知らぬ顔
人はほだされ顔で進化する
光景の一転に条理と非理
いずれ機械に破壊される
打ち跨った大将の髪毛のおどり
猫が踊り魚が饐える
条理は子と親の不慮の別れ
行きずりにさらわれ
黄昏と黄泉のさかいに
女の子が泣いている
枯れ葉に書いた宣言の帳消し
刺客は遊び場にうすら笑い
煩悩の鐘は薮知らずに鳴り
聳える嫌悪に花束はいらない
遊びまわる異人の子
褒めている沸沸おやじの影
肉食に進化した猿たちに
反省ざるの可愛いさはない
TVのCMに出ているような「子ざるが反省すると可愛さがまし」ますが、私たち「肉食に進化した猿たちに」は「可愛いさは」ありませんね。第4連は昨年の総選挙ととらえたら表面的過ぎるでしょうか。どうしても「刺客」という言葉に反応してしまいます。第3連の「黄昏と黄泉」は言葉の成り立ちを考えさせられました。「黄昏」は夜への前章、まさに「黄泉のさかい」なのだなと気付かされます。それにしても「反省」させられるばかりの昨今だなと感じた作品です。
○詩と評論・隔月刊『漉林』130号 |
2006.4.1 川崎市川崎区 漉林編集室・田川紀久雄氏発行 800円+税 |
<目次>
詩作品
証人・ずんずん…池山吉彬 4 〈日常〉へ――21…坂井信夫 8
この不可抗・他一編…遠丸 立 10 浜川崎の風 2…坂井のぶこ 12
あれからこっち…成見歳広 18 茶色の朝…市村幸子 20
祈り…田川紀久雄 26
エッセイ
民という言葉…田川紀久雄 28 スペイン紀行…高橋渉二 30
島村洋二郎のこと(23)…坂井信夫 26 現代詩の再発見 1…田川紀久雄 48
畑を耕すように…田川紀久雄 50 後記 53
ずんずん――ある兵士の証言―― 都市の記憶 7/池山吉彬
男がひとり山を降りてくる。五日前まで、金毘羅山の陣地で高射砲を撃ってい
た兵士である。ためらいがちに流れる朝霧に逆らいながら、「トントンと」坂道
を降りてきて、大学病院の前を通りかかる。塀は崩れ落ち、あたりにはレンガ
の破片が散らばっている。
そこで、消防服を着た人たちが死んだ患者を運んでいるのを見たとです。死
体を抱え、あるいは引きずって路上に出す。死体はあとからあとから、際限
なくあらわれる。中には鳶口を使っている者もいる。誰ひとり声をあげる者
もおらんとです。
ふしぎな静寂のなかを、魚河岸のマグロかなにかのように無雑作に効率よく積
みあげられ、死体はたちまち幾つもの塊りを形成する。
あっちこっち死体は転がっとるし、
あっちこっち死体ば積んどるし、
また、あっちこっちで死体を焼いとるし、
牛や馬まで倒れて、腐った臭いを立てとるし、
その場所を除いて(その盛大な仕事場以外に、ということだが)、ほかに人影は
ない。前方はいちめん瓦礫で、道らしい道のしるしもない。男は頭のなかの記
憶の地図をたよりに一度も振り向かず、駈けるようにそこを離れた。山の上で、
すでに幾人もの死を見てきた男が、「もう、(背中が)ずんずん、ずんずんした」
というのである。
病院の医師たちもせいいっぱいの治療をやったのだし、
消防団員もつらい仕事をやむなく引き受けていたのだし、
死体も焼かずにはおけなかったのだし、
だれを責めるわけでもない、八月十四日の朝。
トントンと男が坂を降りてくるその刻まで、何千人、何万人の人が死んだのか。
数えきれない男は、それでも眼にした光景と、そのような事態をもたらした、
目に見えないなにものかへの恐怖に駆りたてられ、ずんずんとして、帰ったと
いうのである。死の灰の積った場所で、死の灰を浴びた人々が死者を焼く。そ
のとき、焼く者と焼かれる者の間にどんな違いがあったろう。
その日はまた、男の小学六年の弟に、身体じゅう、いっせいに、小豆色の斑点
が発芽した日でもあった。
* 金毘羅山 爆心地の背後に連なる、三三六メートルの山。
2発目の原爆が投下されてから5日後の長崎の状況です。「金毘羅山の陣地で高射砲を撃ってい/た兵士」の「もう、(背中が)ずんずん、ずんずんした」という証言がリアルに迫ってくる作品です。その証言を聞く作中人物(おそらく作者)の「死の灰の積った場所で、死の灰を浴びた人々が死者を焼く。そ/のとき、焼く者と焼かれる者の間にどんな違いがあったろう」という視点は重要だと思います。60年も経った現在の視点かもしれませんが、そこには時間を越えたものを感じます。このような証言をまだまだ集める必要性を感じた作品です。
○機関紙『漉林通信』7号 |
2006.3.10 川崎市川崎区 漉林編集室・田川紀久雄氏発行 非売品 |
<目次>
詩を書いて詩人であることは難しい 田川紀久雄
詩人 田川紀久雄
詩人/田川紀久雄
幸せになることが人生の目的ではない
不幸であったとしても
人として生きていけたら
それもある意味での幸わせな人生なのだといえる
詩を書いて暮らせるのなら
貧乏もあたりまえ
誰に読んでもらえないにしても
詩を書ける喜びは
お金で計れないものがある
でも
見知らぬ人が自分の詩に感動してくれたなら
このいのちあなたに差し上げてもよいと思う
詩人とはまこと単純な生きもの
美しい人を見れば
心がどよめき
人に批判されれば
すぐにめげる
自分は何も出来ないのに
あれこれと人のことを心配する
眠る時は
神様や仏様に
もう少し生活が楽になりますようにと祈ったりする
今日は銭湯に入る金がないとか
明日はお米を買わなければ……
という毎日の生活の不安がなくなれば
この世は詩人にとってパラダイス
でも二階の部屋から見える月はあまりにも美しい
人から頂いたお酒で
心もほろ酔い気分
すぐ近所の公園にはホームレスの人がいるというのに
今は世の中の悲しみを忘れていたい
詩人は自分自身を持て余しているのに
どうして他者の面倒が見れるというのか
せめて詩でこの世の苦しみを消し去りたいものだ
幸せにならなくてもよい
そんな詩が一篇でも書けたなら
本当に「詩人は自分自身を持て余している」感じがします。自分自身を振り返ってそう思います。まあ、「詩人」という定義が私にあてはまれば、の話ですが…。詩人の一面をよく捉えている作品と云えましょう。それにしても「詩を書ける喜び」って、いったい何なんでしょうね。考えさせられる作品です。
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