きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2005.2.22 新幹線富士川鉄橋より




2006.3.19(日)


 雑誌『詩学』に寄稿を求められ、締めきりの1日前に送信できました。5月号が日本詩人クラブ3賞特集だそうです。各選考委員の所感を送れということで、私も新人賞選考委員でしたので求められたという次第です。先に日本詩人クラブの機関誌『詩界通信』にも送稿しましたけど、今回はちょっと枚数が増えたので少しは詳しく書くことができたと思っています。よろしかったら書店でお求めになって読んでみてください。5月1日の発売のようです。



詩とエッセイ『回転木馬』118号
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2006.3.20 千葉市花見川区 鈴木俊氏発行 非売品

<目次>

乳粥/朝倉宏哉 4             赤富士・出合い/川嶋照子 8
蛇のぬけがら/川原公子 12         プラス思考で・時雨(しぐれ)る夜/小笹いずみ 14
エッセイ
見習いは「見て習う」/大川節子 18     チェロとカザルスと徳永兼一郎と/杉 裕子 20

「お帰喚なさい」を聞きたかったわたし・目の敵(かたき)/佐野ヤ子 25
村の生き神様/田中ひさ 30         掌・ひび/つむり葉月 32
静止点/中村弘子 36
エッセイ
私の神様/那須信子 38           蒟蒻女房奮戦記/橋本榮子 45

修養会の夜・お盆参り/長沢矩子 47     晩秋・兎の眼のように・その頃/村上久江 51
返したくても/鈴木 俊 56
受贈書籍・詩誌等御礼 58
編集後記 60



 ひび/つむり葉月

使い慣れた器に
いつのまにか走っている
小さな亀裂

いつか 突然
ぱかっと割れてしまうんだね

平凡な日常みたいに

 「平凡な日常」というものは本当は無くて日々違うものだと教えられたことがありましたが、仮に本当に「平凡な日常」があったとしたらどう書くのだろうと考えていたところでこの作品に出会いました。「使い慣れた」「平凡な日常」が「突然/ぱかっと割れてしまう」と採りました。これはなかなか小説では書けませんね。詩で表現するしかないだろうと思います。短詩ですが見事な佳品と感じました。



詩とエッセイ『橋』117号
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2006.3.10 栃木県宇都宮市
橋の会・野澤俊雄氏発行 700円

<目次>
作品T
◇記憶/瀧 葉子 4            ◇大寒む小寒む…/相馬梅子 6
◇水/簑和田初江 8            ◇冬/高島小夜子 10
◇たすき/草薙 定 12           ◇ひと/都留さちこ 14
◇プロデュース/そのあいか 16       ◇涸れる/園井世津子 18
◇日記 一月十二日/江連やす子 20
石魚放言
二月のはなし/草薙 定 22         里木貝塚の土器/都留さちこ 23
作品U
◇敦煌/斎藤さち子 24           ◇日溜り/冨澤宏子 26
◇そんな夜/戸井みちお 28         ◇詩・他/和田 清 30
◇天晴れ/酒井 厚 32           ◇今日という日[二]/湯沢和民 34
◇臭木U/大木てるよ 36          ◇見返り阿弥陀/野澤俊雄 38
書評  野澤俊雄
◇綾部健二『ジオラマ』 40         ◇坂口優子『沈黙の泉』 40
◇深津朝雄『泥樋』 41           ◇水島美津江『冬の七夕』 41
橋短信 風声/野澤俊雄 42         受贈本・詩誌一覧 43
編集後記 44
題字/中津原範之 カット/瀧 葉子



 日記 一月十二日/江連やす子

難しく考えれば
難しすぎる世の中だ

雲一つない空に
昇る月を眺めて思う
難しいことなど
考えずとも 幸せにはなれる
むしろ その方が
ずっとずっと近道だ
ただ機嫌のよい人たちの中に居て
ただ機嫌のよい自分であることだ

西の空に
落ちる夕陽を眺めて思う
老いてゆく体力は
本当に悲しいものだ
けれど そんな自分を見つめる
もう一人の自分は
老いなければ分からない
何というか
安らかなものがある

難しいことは沢山ある
が 欲は掻かぬことだ
比較はせぬことだ
みんなそれで
右往左往している

ただ今日 私は
損も得も考えずに生きられたのは
幸せなことであった

 「老いなければ分からない/何というか/安らかなものがある」というフレーズに同感しています。50代中盤の私は、一般的には「老い」の部類ではないのかもしれませんが、それでも20代、30代との違いをはっきりと自覚できます。それも「安らかなもの」という前向きな感覚です。「比較はせぬことだ」というフレーズも重要ですね。確かに「みんなそれで/右往左往している」と思います。「損も得も考えずに生きられ」ることの「幸せ」を改めて感じた作品です。



松下和夫氏エッセイ集『そこにあるもの』
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2006.3.15 千葉県茂原市 草原舎刊 2000円

<目次>
そこにあるもの(1)…6  そこにあるもの(2)…10
そこにあるもの(3)…14  甘柿渋柿…20
酸っぱさの幻影…24   お菓子の夢…28
三時のコーヒー…32   沈黙…36
涙が出る話…38     夢の中で…42
贅沢すぎる話?…46   愚や愚や汝をいかんせん…50
白い紙面…52      ある初恋…56
考える葦…62      「思い出」について…66
「やさしさ」について…72 正確さについて…84
詩を書くことの不思議…90
あとがき…96
表紙絵*秋田かなえ



 白い紙面

 この頃はめったに夢も見ないが、ある日の午後風邪をひき微熱のある病床で、うつらうつらと私はおかしな時間の中にいた。私の目の前には新聞紙らしい大きさの白い紙面があり、そこには一字も印刷されていないにも拘らず、私はそこに見えない文字を全部戦慄すべき白い幻想として思い浮かべているのであった。
 以下は私の記憶に残った悪夢のあらましである。

           *

 それは日本の知についての発言なのだが、英語やコンピュータを駆使する能力を持つ知と持たない知を分けて論じたものであった。
 簡単に要約すれば、二十一世紀を迎えるにあたり、日本のメディアは、このような能力を持たない知を指導して、その能力を持つようにせよということで、そうしなければグローバル化した世界の知に日本の知は対応できないであろうという警世の思いを滲ませた論旨であった。
 しかし私にはこの筆者の知についての認識がどこか片手落ちであるような気がしてならなかった。人間の知とは何であろうか。この筆者も最後の方で知とは知識ではないと言っているが、もしそうであれば英語力やコンピュータ操作能力を云々するのは矛盾していないだろうか。ましてその能力のあるなしによって人間を分類することなど、知についての考え方が本末転倒ではあるまいか。
 ひと口に知というが、その人間の知を生み出している知性とは何であろうか。知性とは人間という存在そのものの顔ではないのだろうか。人間の知性がコトバを持った時、そのコトバから組み立てられたのが知識という道具であって、その知識から創り出されたのがコンピュータという通信手段であろう。いわば英語力とか、コンピュータを駆使する能力というものは、人間の知性から生まれたその能力の一分野にすぎない。したがって人間の知とは決して単に英語力やコンピュータを駆使する能力のようなものだけを意味しないだろうと思う。むしろ今後最も大切なのは、人間の知の根源である、人間の知性に目を開くことではあるまいか。
 人間として平和を愛する温かな心を持ち、そのための強い意志を養い、言葉など通じなくとも、コンピュータを操ることなくとも、お互いに目と目で、手と手で心を通じ合えるのが、人間の知性というものであろう。英語もコンピュータも便利な道具ではあるが、人間という存在の人格と直結するものではない。
 該博な知識を持ち、世界的な技術研究の権威とされる人間でも、時に汚職や賄賂と無縁ではないのが、今日の世相の一端ではあるまいか。そこには知性の片鱗も認めることが出来ない。そこに渦巻いているのは金銭欲という、知識を餌にした動物的欲望の海なのである。そのような欲望の海が、今までにも悲劇的な戦争の惨禍を生んで来たことを思うべきであろう。
 目と目で、手と手で、お互いの心を理解し、語り合うことが出来なくなった時、多分人間という存在はこの地球上から姿を消すにちがいない。
 知識のみをもって人間を分類するなど傲慢であり、限りなく危険な迷路ではあるまいか。
              *
 ただ真っ白い新聞紙に似た一瞬の悪夢は消えたが、ひや汗に滞れた老人の胸に恐怖だけが残ったのである。

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 おもしろいエッセイがあふれた本ですが、ここでは「白い紙面」の全文を紹介してみました。「一瞬の悪夢」として描かれていますけど、これはまさに「日本の知についての」現実でしょう。「知性とは人間という存在そのものの顔ではないのだろうか」、「英語もコンピュータも便利な道具ではあるが、人間という存在の人格と直結するものではない」という主張は傾聴に値する文章です。「目と目で、手と手で、お互いの心を理解し、語り合うことが出来なくなった時、多分人間という存在はこの地球上から姿を消すにちがいない」という指摘も現実的で、このままでは確実に「地球上から姿を消す」存在になってしまうでしょうね。心して拝読したエッセイです。



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