きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2005.2.22 新幹線富士川鉄橋より |
2006.3.29(水)
特記なし。7時半過ぎには会社に入って、17時に仕事を終って、平穏な一日でした。波乱に満ちた仕事は、もうたくさんですね。日々好日、これが一番(^^;
○詩誌『谷神』5号 |
2006.3.15 千葉市稲毛区 楓舎・中村洋子氏発行 非売品 |
<目次>
雪が降る/対岸 田中憲子 2 ミカン カンカン/葬列 肱岡晢子 5
ホワイト・ガーデン 山中真知子 8 観覧車のある風景 増田恭子 10
ひかりの春に 中村洋子 12 わたしはずっと 鈴木正枝 14
楓舎の窓 中村洋子 16
あとがき
わたしはずっと/鈴木正枝
わたしはずっと
わたしを飼っていました
こっそり
まるで仔犬を飼うように
愛していたのです むしろ
部屋中に鍵をかけました
不安だったのです
ヒトサマに知られてしまうのが
仔犬はいつまでも仔犬ではいられず
(そういう愛し方をしたので)
こっそりは
不可能になりました
わたしは
わたしより大きくなったわたし
の重さに耐えられず
捨てました
(愛していたのにむしろ)
それが
わたしを見た最後です
部屋には鍵をかけなくなりました
かわりに誰か来たでしょうか
誰も来ませんでした
わたしは
二匹目の仔犬を飼うようになりました
前の犬より
もっと従順でした
愛しています
大きく大きくなるように
そういう愛し方を
今もずっと
しています
鍵はかけずに
平気でいつでも風に晒される
そういう愛し方を
不安はもうありません
「こっそり/まるで仔犬を飼うように」「わたしを飼ってい」たのが、「重さに耐えられ」ないほどに「わたしより大きくなっ」て、結局は「捨てました」。しかし「二匹目の仔犬を飼うようになり」、今度は「大きく大きくなるように/そういう愛し方を/今もずっと/しています」。これは自身の成長を言っているかのようですが、そういう傲慢さは感じられません。むしろ「部屋中に鍵をかけ」るほど「不安だった」ものが「鍵はかけずに/平気でいつでも風に晒される」ようになった、やっと平均的な感覚になった、と採るべきだろうと思います。「わたしはずっと/わたしを飼っていました」という最初のフレーズに気弱なものを感じましたので、最終連の「不安はもうありません」を読んでホッとしたのが正直なところです。屈折した心境の喩に「仔犬」を登場させたところが奏功している作品だと思います。
○詩誌『濤』10号 |
2006.3.31 千葉県山武市 いちぢ・よしあき氏方 濤の会発行 500円 |
<目次>
訳詩(続遺稿)激情と神秘 粉ごなにされた詩篇 ルネ・シャール 水田喜一朗訳 4
作品
回廊の瞳/村田 譲 10 南天/鈴木建子 12
炎の女/森 徳治 14
特集2(第三回)いちぢ・よしあき 私の詩の転々V 18
追悼・水田喜一朗 22
水田弘子 水田英朗 小暮規夫 いちぢ・よしあき タマキ・ケンジ 山口惣司 後藤信幸 宗 左近
詩誌・詩集等受贈御礼 45
作品
メロポエム・ルウマ/いちぢ・よしあき 46 昨今[ そう言えば/山口惣司 50
濤雪 こだわり(6)/いちぢ・よしあき 52
編集後記 54
表紙 林 一人
回廊の瞳/村田 譲
むきだしに支えあうコンセプト
J・ジェ
R・リ
Y・イー
開墾時代への前衛的な掛け橋
結ぶ・Joint・ものは
記録・Record・のうちに
湧別・YubetsuのJewel宝箱に
あまりの思いこみの激しさで
ふるさと館のリーフレットは真っ二つ
JRY入口正面と向きあい
吸いこまれた一棟の屯田兵屋の入口
かかえられたその左腕に登り
ながれ戻す
一八七二年、八七年、九七年、一九一九年
どこから調べあげるのか
乱雑な切れ端に残された署名が
いままでの風景を
遠く写し出しながら
ところどころには今の
無縁というモニュメントが鎮座してみえる
この地へつなぐものだから
共有する唯一
証言によって切れ切れを埋めながら
時間の針に触れる
そして唐突に
そんなことはいいからと吹抜から落ちた視線
あばら屋のうえへの階段で
螺線に呼びこむ
オレんところの最初だよ、と
言いきっている
尿意が
便所までの通路は輪になって
途中の壁には
数多の屯田兵士達の油絵が飾られ
こいつもあいつも
名前なんか読みきれない通りすがり
あれ、この顔
オジキに(生田原町の)
と思うのだが
ひっぱり歩きだす子供
はしゃぎ踏みちらしながら手と手
重ね響く声を
見守っている
*北海道上湧別町の郷土資料館、愛称は「JRY(ジェリー)」。開基百年を記録し、平成八年に建てられた。
「回廊の瞳」とは「数多の屯田兵士達の油絵」の中の「見守っている」瞳なのでしょう。「あれ、この顔/オジキに(生田原町の)」似ている「と思うの」は判るような気がします。私事で申し訳ありませんが、私の生母は北海道出身で、私も北海道生まれです。長くは住みませんでしたが、それでも小学校の1年間暮したことがあり、そのときに「屯田兵」に興味を持ちました。おそらく母方の親戚にも屯田兵出身者がいたのではないだろうかと思っています。
この作品を何度か読み返すうちに「開墾時代への前衛的な掛け橋」である「ふるさと館」へ行ってみたくなりましたね。私の個人的な郷愁もありますけど、素直な作品に刺激されたことも事実です。
○文芸誌『らぴす』22号 |
2006.4.10 岡山県岡山市 アルル書店・小野田潮氏発行 665円+税 |
<目次>
タチアオイ/岡崎和子 2 島崎藤村と竹久夢二/荒木瑞子 8
船遊びする人たちの昼食/西田英樹 27 随筆二題/前田総助 34
とんぼのめがね(4)とんぼ 44 石と本(二)/高木寛治 55
エターナル・バーレイの狼/野間口新一 67 早朝自転車通勤とパスカル/玄 善允 71
岡山と映画(9)/谷季用充 87 料理の雑学(十五)/岡嶋隆司 95
執筆者住所録 103
編集後記 104
(表紙絵・坪井光子)
その日両隣の二つのテーブルではそれぞれ子供たちをふくむ二つの家族が占めて、料理が出るのを待っていた。そのうちなにがきっかけか外人の身には知るよしもないが、両家の間、より正確に言えば、片方の父親ともう一方の母親の間で諍いがもち上がった。口角泡を飛ばす猛烈な口論であった。互いに鼻先と鼻先が触れんばかりに面つき合わせ、睨み合い、大仰に両手を振り回す。
互いに論理と修辞の限りを尽くして張り合うその手の喧嘩場は、これまでにも西洋映画のどこかしこで見知ってはいた。しかし丁丁発止の応酬を砂かぶりで見るのは一味も二味も違うものである。大衆食堂があってもラーメン一杯でそそくさと昼めしを済ます習慣はない土地柄である。皿と皿の出る間合いは恐ろしく長い。互いに一歩も退かぬ取組みをとくと見物する隙はたっぷりとあった。砂かぶりのわが頭上で飛び交う砲弾に度肝を抜かれていた時間は、恐らく十分間以上続いたであろう。
熱し易く醒めやすい人人の住まうわれらが列島では、そもそもかくも延延と口論が戦わされる例はない。多弁と饒舌に費やされる彼らの精力にはただただ舌を巻くばかりである。もしこれがわれら神経質な逆上民族の間であったら、疾っくに口より先に手が出て、言葉の雨より先に血の雨が降っていたことだろう。いや、血の雨が降る前に、家族の者か店の者かだれかお節介焼きの第三者がしゃしゃり出てきて、マアマアナアナアと分け入っているだろう。ところがここでは、両家族の者はいずれも我関せず焉の涼しい顔で食事の供されるのを待っている。給仕のボーイももとより知らん顔である。
文化の相違、と言ってしまえばそれまでである。文化とはなんぞや。生活の流儀であり、生活の型である。われわれは知らず識らずのうちに一定の流儀を踏襲して生きている。いかに型破りの一匹狼を気取ろうとも、結局は型に吸収され順応して生きるのである。才能や個性の枠を超えてわれわれの生き方を下支えするところに文化的伝統が息づいている。喧嘩の仕方、飯の食い方にも文化の相違は生きている。
片やしゃべってしゃべってしゃべり散らす多弁な冗舌の文化があれば、一方には言葉を吝しむこと銭を吝しむに似た寡黙の文化もある。その間に優劣はつけ難い。西洋文化はしゃべってしゃべってしゃべり散らし、思いの丈を発散して、これでもかこれでもかとばかりに余白を埋め尽くす文化である。余情を尊ぶわれわれとしては、その余白の無さにしばしば息の詰まる想いがする。
わが国はすでに十二分に西洋化した極西の国だという説、をなす者がある。錯覚である。幕末維新の黒船開国以来百数十年、敗戦による第二の開国から六十年、そんな短時日の間に異国文化が吸収消化されるはずがない。西洋は依然としてわれわれにとっては得体の知れぬ異境なのである……
--------------------
紹介したのは前田総助氏の「随筆二題」の中にある「サンチャゴ・デ・コンポステラの大喧嘩」の部分です。1976年にポルトガルを旅行し、行きつけになった四つか五つしかテーブルのない大衆食堂でのこと。大喧嘩を通して見た文化の違いというところでしょうが、「いかに型破りの一匹狼を気取ろうとも、結局は型に吸収され順応して生きるのである」とは慧眼です。「西洋文化は」「余白を埋め尽くす文化である」というのも文人らしい見方で、極東に対して「極西」と言うのもおもしろいですね。「そんな短時日の間に異国文化が吸収消化されるはずがない」とは大喧嘩を見ての実感でしょうが説得力のある言葉です。日本人であるに少しは自信を持った随筆です。
(3月の部屋へ戻る)