きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2005.6.29 山形県戸沢村より 月山 |
2006.4.1(土)
日本詩人クラブの第2回オンライン現代詩作品研究会をメーリングリストを使って午前10時より開始しました。この日記は4月23日に書いていますので、すでに結果が判っていますから記載しますが、2日(日)の午前10時までの24時間開催され、作品提出者19名、発言者19名、総発言数57件に上がり、インド在住の会員も参加し、前回のイギリスからの参加もくわえると、まさにグローバルな研究会となりました。ご協力いただいた会員・会友の皆さま、ありがとうございました。
この日は4ヵ月ぶりに床屋に行きましたけど、それが出来るのも会場に集まる必要がないオンライン研究会だからだと云えましょう。実家の父親からの電話にも対応して、居ながらにして日本詩人クラブの仕事も出来るという結構な一日でした。
結構でなかったのが親父の電話です。昔、ヤクザ屋さんもやっていたという強面オヤジで、泣きを入れることはまったく無いんですけど、初めて窮状を訴えてきました。年金が半分になった、というものです。自分の国民年金と死んだ連合いの遺族年金が生活の糧ですが、この4月1日から一本化されたとのこと。一本化されたらいいんじゃないかと思いましたが、内容は遺族年金が無くなって自分の国民年金だけという一本化。年金が半分になったということです。不足分を我々子供に補ってくれという電話でしたけど、国もヒドイことをやるもんだなと思いましたね。兄弟3人寄れば何とかなるので補填を約束しましたが、子に恵まれない人だったらどうなってしまうのだろう? 国というものは国民あってのもの。その国民の福祉を増大させて、精神的にはともかく、少なくても経済的な安心感を与えるのが国の仕事だと思うのですが、今はまったく反対です。大企業や米国を潤すことが日本政府の仕事になっています。こんな馬鹿な話があるか!
でもね、何度も書いていますが、それは我々が選んだ政府です。米国人が私の家に乗り込んできて、自民党に投票しろと言ったわけではありません。大企業の社長があなたの職場で自民党候補を応援せよと演説したわけでもないですよね。私たちが私たちの頭で判断して、今の政府を作ったわけです。そうしたら諦めるしかありませんね。これを衆愚政治と言います。
○詩誌『黒豹』111号 |
2006.3.30 千葉県館山市 諫川正臣氏方・黒豹社発行 非売品 |
<目次>
諫川 正臣 タンポポの観察/桜の頃 −少年期W− 2
西田 繁 老人脱出/あいつ 4
よしだおさむ 九十九里浜/おまえに 6
前原 武 お静さん/「ふみきりちうい」 8
山口 静雄 カモシカ 10
パパのワルツ シオドア・レトキ 山口静雄 訳解 11
宮田 和夫 夜明けを告げる−オーストラリアのウルルにて− 12
杉浦 将江 公孫樹(いちょう)/梅 見 13
編集後記 15
.いちょう
公孫樹/杉浦将江
誕生日記念にと
庭に植えた公孫樹
幼い頃拾った銀杏(ぎんなん)が芽生え
転居のたびに移植したが
がっちりと根づき
僕の木だと喜んだ息子
高すぎてはと
切った幹から細い枝が競って伸び
広がりを作った
秋は金色の葉をひらめかせ
冬は裸木で凛と立つ
逝った息子の年を超え
樹齢四十八年
ざらついた木肌にふれると
手のひらから伝わってくるぬくもり
めぐってきた春の輝やく中
浅緑のつまやかな新葉に
息子のささやきが聴こえる
「僕の木だと喜んだ息子」さんとの幸せな一齣と思って読んでいましたから「逝った息子の年を超え」というフレーズでハッとしました。その息子さんの年を越えて「樹齢四十八年」ということは、ずいぶん若い時に亡くなったのだろうと思います。「ざらついた木肌にふれると/手のひらから伝わってくるぬくもり」は息子さんの肌のぬくもりと重なっているのかもしれません。読み過ぎかもしれませんが、息子さんについてようやく書けるようになった感慨までも行間から伝わってきた作品です。
○会報『「詩人の輪」通信』10号 |
2006.4.4 東京都豊島区 九条の会・詩人の輪事務局発行 非売品 |
<目次>
憲法改悪の策動に備えて/土井大助
九条/下村和子
ちんたらまんたら/内田麟太郎
詩
竜はいた/いだ・むつつぎ
墓標と勲章/出木みつる
アレッポの石ケン/日高てる
人間裁判(朝日訴訟の会に入会して)/小林忠明
場外ホームランを 放ちたがる覆面打者たち/岡本清周
火吹竹/ゆきなかすみお
石からのレター・メロデー/神田好能
茨木のり子さんのこと/宮本勝夫
九条の会詩人の輪 関西のつどい 案内
ちんたらまんたら/内田麟太郎
まだ若かったころ。
どうすれば戦争協力詩を書かないですますことができるだろうかと考えて
いたことがある。かなり真剣にそう思っていたのではないだろうか。というのも
父の世代や、その前世代の詩人たちがそれらを書いていたからである。それを自
分はしないといいきれる自信はなかった。いいきれればカッコイイだろうけど、あ
まり具体的には思えなかった。
そのとき二つのことを考えた。
ひとつは反戦統一戦線の存在というものだった。一人の英雄よりもということ
になる。もうひとつは、詩のなかには人を目的のために動員する文体があるなと
いうことだった。先の戦争協力詩はその動員する文体が、それらに利用されてい
た。いいかえれば戦争にも役に立つ文体ということだろう。それで、
(役に立たない文体で詩を書きたい。人を動員しない文体で詩を書きたい)
と考えた。それは平たく言えば情けない文体でもあった。そんな私に山之口獏
の詩は、文体は、情けないに満ちていた。
(この文体では、勇ましい戦争詩は書けないなあ)
もしもしもしもーでは眠ってしまうだろう。
ここで気づくのは?山之口獏の詩はくねくねしていることである。どう読んで
も直線的ではない。ある画家が「自然界に直線はない」といっていたが、詩もい
のちの営みだから、たぶん直線的な詩(動員する詩)よりも、ことばの多義性に満
ちている詩に、身も心も悦ぶものがあるのではないだろうか。
多くの戦争はたぶん一義的な価値観を植え付けることによってなされていると
思える。宗教であれ、主義であれ、制度であれ。世界の多様性を否定して叫ぶ。
あいつは敵だ。
だから、私は詩を書くとき、なるべく情けないをなによりも尊び、人を動員す
ることばの一義性と直線性に用心し、ちんたらまんたらと書いている。
今号では詩作品ではなく内田麟太郎氏のエッセイを紹介してみました。佳い「文体」だと思います。作者の散文の文体はこのようにしっかりしていますけど「詩を書くとき」は「ちんたらまんたらと書いている」という、その違いがなぜなのかよく判ります。「人を目的のために動員する文体」は、何も「戦争協力詩」だけでなく「宗教」「主義」「制度」など、「世界の多様性を否定して叫」んでいるものは要注意だという指摘も重要でしょう。詩を書く前に考えなければならないことだと思いました。
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