きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2005.6.29 山形県戸沢村より 月山

2006.4.6(木)

 日本詩人クラブ理事会が午後6時より東京・神楽坂エミールで開かれました。4月8日の3賞贈呈式のツメが主な議題でした。私はカメラマンを割り当てられました。
 一般的な報告事項としては4月1日〜2日にオンライン現代詩作品研究会をやったこと、次回は6月3日〜4日の予定であることを報告しました。HPアクセスは月に500件ほどであることも報告。8月には第13回詩書画展を銀座の地球堂ギャラリーで開催するので、4月中に下見がてら挨拶に行くことも報告しました。

 5月の総会に向けての話し合いも行い、永年会員の資格変更も提案しようということになりました。現在は在籍20年以上で満80歳になると会費が免除されます。今年度は該当者が10名! 来年以降も同じような人数が見込まれますので財政圧迫は必至です。在籍25年以上で満80歳を提案することになりそうです。高齢化社会は喜ばしいことですが、こういう影響もあるのかなと妙に感心してしまいました。私がその年齢に達したころには在籍30年なんてことになるかもしれませんね。ちなみに私の80歳時は40年在籍になります。今から16年前、40歳直前で入会していました。



詩誌『ONL』84号
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2006.3.30 高知県四万十市
山本衞氏発行 350円

<目次>
現代詩作品               
.俳句作品
河内 良澄 集団下校        1  瀬戸谷はるか 四温の雨     31
西森  茂 病んでいても拙者は武士 2
浜田  啓 おめでとう       4  随想作品
福本 明美 ほんのこのあいだまで  5  秋山田鶴子  どんぐりリポート 32
大山 喬二 橡の木の森へ/他    6  葦  流介  幸徳秋水と漢詩3 33
丸山 全友 祖父の面影       10  小松二三子  医は仁術なり   34
北代 佳子 豆まき         11  芝野 晴男  本能寺      35
土志田英介 合ってます       12
名本 英樹 かつて路上にて     14
土居 廣之 ポケットの中      15  後書き             36
岩合  秋 庭の桜木        16
大森ちさと 父           18  日本詩人クラブ高知の会案内   36
水口 里子 花千里         19      (宿毛市での文学散歩)
柳原 省三 アラフラ海の朝/他   20
徳廣 早苗 子守唄         24  執筆者名簿           37
宮崎真理子 法要          26
横山 厚美 病院          27  表紙
山本  
 兄よ/他        28  田辺陶豊  《 アンテナ 》



 病んでいても拙者は武士/西森 茂

病んでいても拙者は武士
これまで筋を通してきた武士道だが
今はいささか苦痛でござる

いっそのことヤクザにでも身を落とし
旅に出たき心境でござる

病む身を横たえ
ここが最期と定めた安住の地までも
召し上げられそうな拙者でござる

拙者だとて世が世ならば
総理招きの祝い酒
東西一の男伊達ともてはやされて
とびっきり上等のマンションを与えられ
とびっきり上等の食事を毎日振る舞われ
有頂天になり舞い上がり
叱責をかう身であったかもしれぬ

今は切り捨てごめんの時代でござる
弱き者には悪しき時代でござる
こんな時代を生きる手立ては
仮の姿を装う事で生きるしかないようでござる
悪しき時代が長引けば
一生仮の姿のままで終わってしまうかもしれぬ
忘れてはならないことは
仮の姿は悪しき時代を欺く為であることだ

貴公らが
切り捨てごめんでくるなら
拙者もその手でやり返すだけのこと
血祭りにあげるは小泉純一郎の
そっ首一つ

 侍言葉の現代詩を初めて拝見しましたけど、現在の「切り捨てごめんの時代」には良く合っているなと感心しました。「これまで筋を通してきた武士道」も「仮の姿を装う事で生きるしかないよう」だという言葉にも実感があります。「仮の姿は悪しき時代を欺く為である」という慧眼には感服しました。「武士」と謂えども根は庶民、「仮の姿を装う事で生きるしかない」のかもしれませんね。本当に「そっ首一つ」「血祭りにあげ」てやりたいものです。



詩誌『想像』112号
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2006.4.1 神奈川県鎌倉市
羽生氏方・想像発行所 100円

<目次>
正月のお飾り…………………………………………羽生槙子 1
レシピ詩集・春………………………………………友田美保 2
市民の移住労働者支援と移住労働者の相互扶助…山中啓子 4
詩・「竹とセミと素数」……………………………羽生康二 9
詩・「夢は旅」他6編………………………………羽生槙子 11
鈴木規雄さんのこと…………………………………羽生槙子 15
花・野菜日記06年2月……………………………………………17



 竹とセミと素数/羽生康二

     1
マダケという竹は一二〇年ごとに開花し実を結ぶ。
地球上のどこに生えていても同時に花を咲かせ
一二〇年の周期を規則正しくくり返す。
だから 開花する年は
外部の環境要因によってではなく
遺伝的な体内時計によって決定されるに違いない。
また アメリカには十七年の周期で大発生する
十七年ゼミが三種類いる。
幼虫が地中の生活を十七年間送ったあと
地上に出てきて同時に羽化する。
地域がことなれば羽化が同時でないこともあるが
同一の地域では常に同時に羽化する。
そしてアメリカには十三年ゼミもいる。

なぜ マダケは一二〇年ごとに開花し
セミは一三年一七年ものあいだ地中で生活し
それから地上に出てくるのか。
多くの生物は大量の種子や卵を生む。
それは 種子や卵が捕食者によって食べられても
少数は生き残れるようにするためだ。
進化生物学者ステイーヴン・ジェイ・グールドは
生きもののこういう進化上の防衛策は
捕食者飽食戦略≠ニいう名で知られる仮説だと言う。
竹の種子やセミはとてもおいしいので捕食されやすい。
けれど 非常にまれにしか出現せず
その上いったん出現したときにはきわめて大量なので
捕食者たちが食べつくしてしまうことは不可能なのだ。

この戦略が成り立つためには二つの適応が必要だ。
一つは羽化や開花の同期性がきわめて正確であること、
二つ目はこういう種子や卵の大量供給が
ごくまれにしか起こらないものであることだ。
それは 捕食者たちが予想される時期に合わせて
生活サイクルを調整できないようにするためだ。
グールドは言う、「(竹の)開花と開花との間の期間が
どのような捕食者の寿命をもはるかに越えるものであれば
このサイクルは嗅ぎつけられないだろう」*と。

     2
十三年ゼミと十七年ゼミの例もユニークだ。
それは十三と十七がともに素数であることだ。
グールドは次のように説明する。
セミを食べる多くの動物は
二年から五年のサイクルで繁殖する。
だから これらの動物の繁殖サイクルと
素数である十三年ゼミ十七年ゼミの繁殖サイクルは
一致するまでに長い年月を要する。
例えば 五年の周期を持つ捕食者が
十七年ゼミにありつくまでには
5×17=85、すなわち八五年待たなければならない。
素数のサイクルで子孫を残すことは
貪欲な捕食者から逃れて生きのびるための戦略なのだ。
そういえば 七年かけて卵から成虫になる
日本のアブラゼミとミンミンゼミも素数のサイクルで繁殖する。
これらのセミたちの素数のサイクルは
途方もなく長い年月にわたる自然淘汰の産物なのだ。

     3
すべての生きものは生存のための戦略を持つ。
それはそれぞれの遺伝子に組み込まれている。
生きものの一つである人間も 何百万年にもわたって
生存のための戦略を駆使し生きのび繁殖してきた。
どの段階までが猿でどこから人間か諸説あるにしても
直立歩行をはじめ 手を使うことをおぼえ
道具を作り 火を起こすことをおぼえ
ことばを作り 意志を伝え合うことを身につけた。

これまでの人間の生存戦略は大成功をおさめた。
六五億人が地球を満たしている事実がそれを証明する。
だが 大成功だったことが 実は
大失敗だったという例はたくさんある。
地質学的年代から見ればきわめて短い時間のあいだに
絶滅した恐竜もその一つ。
人間の欲望にはかぎりがない。
人間以外のすべての動物すべての植物から
収奪することで満足したりはしない。
現在では すべての生きものの住み家である
地球そのものから鉱物や石油を大量に取りだし
海と大気を汚し 地球を破滅に追いこもうとしている。
殺し合うことをおぼえ
ますます殺し合うことをおぼえ
(殺し合うことは
 人間の遺伝子に組みこまれたのだろうか?)
核兵器、原子力発電という怪物まで作りだした。

竹やセミが持つ生存のちえを失ったわたしたち人間は
滅亡の不安におびえながら心おだやかでない。
人間が少しでも竹的セミ的になることができたら
心おだやかになれるのではないか、とわたしは考えることがある。

* ステイーヴン・ジェイ・グールド著浦本昌紀・寺田鴻訳「ダーウィン以来」(ハヤカワ文庫)の11章「竹とセミとアダム・スミスの経済学」。なお、この作品の1と2はこの章の内容に依拠する。

 ちょっと長かったのですが面白くて全行を紹介してみました。米国の「十三年ゼミ十七年ゼミ」は有名なので知っていましたが、「これらの動物の繁殖サイクルと/素数である十三年ゼミ十七年ゼミの繁殖サイクルは/一致するまでに長い年月を要する」ためだとは思いもしませんでした。「自然淘汰の産物」とは言え、自然の奥深さを感じてしまいます。
 それに対して「(殺し合うことは/人間の遺伝子に組みこまれたのだろうか?)」と作者をして言わせる「人間の欲望」はどこから来ているのか不思議です。己を振り返ると不安の裏返しのようにも思えますが…。考えさせられた作品です。




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