きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2006.5.6
群馬県榛東村にて
 

2006.5.30(火)

 先週水曜日からずっと出歩っていて、明日もペンクラブに行きます。そんな中で今日はポカンと空いた何も予定のない日。終日、いただいた本を読んで過ごしました。礼状が5日ほど遅れていますがご容赦ください。私としては2ケ月遅れも経験していますから焦ってはいませんけど、理想は次の日に返送ですかね。



二人詩紙『青金新聞』3号
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2006.5.27 群馬県高崎市 金井裕美子氏発行 非売品

<目次>
今月のお題 藤田嗣治
青木幹枝  和魂
金井裕美子 画家の血の騒ぎ
青木幹枝  詩・畑ノ沢 散文・山菜づくし
金井裕美子 詩・ゆれる菜の花 散文・「血の騒ぎ」について
生誕120年 藤田嗣治・萩原朔太郎



 畑ノ道/青木幹枝

道があるのは杉の植林がある所までだ。ここは植物の種類が
あまり多くはないことがわかる。山菜としては、クワバミ草、
コシアブラ、コゴミがあ計。ヒトリシズカとコゴミに似た半
歯植物が交互に生える。ヒトリシズカは少なくとも四、五人
が群がっているのが目につく。商品としての杉はかなりでき
上がっていて、太さ三十センチは超えているように思える。
伐採予告のビニールテープを外してやる人間はいないのかと、
下を向いて歩く私の尻に鞭打つのは誰なのか振り向く。歩く
たびに叫びのように尻を突いたり目を突いたりするのは、枝
打ちされた杉の小枝だ。弓のように湾曲した枝の端を踏むと、
ちょうど尻に当たったり、後を歩く人の前に鎌首を擾げで脅
かす。

すでに道は獣道さえなくなった。杉林は消えてもゴロゴロし
た大岩は大きくなるばかり。ここに来て急に落葉が多くなっ
て、ふかふかと足をとられるようになった。落葉樹ばかりの
渓相になると、渓に降り注ぐ光の量がちがってくる。葉を広
げても春光に透き徹ってしまう程にうすい黄緑の、まだ産毛
の生えた新芽が出たばかりなのだ。それでも根は大岩を包む
かのように這っている。流れに橋をかけているのではない。
熊手状の根がその流れを鷲掴みにしているのだ。私の靴音に
驚いてシマヘビが逃げたふりをして、岩の下できき耳を立て
ている。その横顔が知り合いに似ていた。

大岩の窪みはただのクボミではない。風の吹きだまりになれ
ば小枝や枯葉が舞い降りる。雨水もたまるから濡れ落葉は張
りついて層を成す。そのうち近所にオオルリが所帯をもった
のを俺は知っていたよ。水飲み場に来たりすれば必ずこの大
岩でひと休みして、糞を落としていく。そしてそこで芽吹い
た。芽を出してみたらやけに居心地のいい日だまりだったか
ら。桂の大木がそんな昔話をしてくれた。でもね、とんでも
ない所に聳え立っている、渓のど真ん中。俺がここを守って
いるうちは何ひとつ変えさせない、もう二十年も二十五メー
トルもの大滝を三十メートルもありそうな桂の大樹が見守っ
ている。

大岩が尖った牙のように遡行する私たちに襲いかかる、そう
思えた。しかし岩の上に足をのせて流れを飛び越したりする
その窪みは、軽く弾みをつけてくれていた。こんなにも道の
ない所を来てしまった。

 自分が自然と一体となる経験というのは、私にもありました。小学校の5年生だったと思います。ゴルフ場を見下ろす丘に寝っころがっていて、急に自分が何処にいるのか判らなくなりました。自分が人間であるかも判らなくなって、草の声、樹の声が聞こえたように思いました。恍惚として草たちは何を言っているのか聞き耳をたてていました。おそらく10分にも満たない時間だったでしょうが、不思議な陶酔感を味わったことを今でも覚えています。この作品にはそれと同質のものを感じましたね。「シマヘビ」も「桂の大木」も「私」に語りかけています。生物だけでなく「大岩は大きく」なっていくし、「尖った牙のように遡行する私たちに襲いかか」り、果ては「窪み」さえ「軽く弾みをつけてくれ」ます。なんだか懐かしい感覚に捉われた作品です。



詩誌『帆翔』38号
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2006.5.30 東京都小平市
《帆翔の会》岩井昭児氏発行 非売品

<目次>
鼻の事情        渡邊 静夫 2
ペットショップ     三橋 美江 4
ブラックコーヒー    茂里 美絵 6
冬林檎         茂里 美絵 8
モーニングコール    長谷川吉雄 9
K点          小田垣晶子 12
三月の放心       荒木 忠男 14
「桜はきらい」     岩井 昭児 16
埠頭物語        吉木 幸子 18
色           坂本 絢世 20
魚の声         長島 三芳 26
へび          大岳 美帆 34
随筆
手向草(九)      三橋 美江 22
猫の世界        小田垣晶子 24
上巳雑記        渡邊 静夫 25
夜はともだち      茂里 美絵 28
回顧する童謡      吉木 幸子 29
ケータイ0円の時代   大岳 美帆 30
ジャンギリヤの城    長谷川吉雄 32

時代小説・暁闇の星(七) 赤木 駿介 35
 * * *
※受贈詩誌・詩書等        2〜
※あとがき/同人連絡先       40



 「桜はきらい」/岩井昭児

日中戦争が激しさを増す一九二八年の春
河畔の桜並木の下にその女性(ひと)は歩いていた
わずかな風に 桜の花びらが散っていた

小学生の僕は その一回り年上の従姉妹を慕って
よく 後を追いかけたものである
「桜は嫌い‥‥」
急に立ち止まって振り向くと
ポツンと彼女はつぶやいた

戦地で 愛する許婚者を亡くした彼女は
「桜は白いカビのように
伝染病みたいに広がるのよね全国に」とも言った
(天皇の、祖国の、名のもとに
どれほど多くの掛替えのない若者達の命が
失われたことか!)

そして「桜前線って言うでしょう?
あの言葉 新聞やラジオで聞くたびに
あの人が戦死した大陸の最前線を思い出すの‥‥」

彼女は未婚のまま亡くなったが
四月になれば
今年も桜前線が北上して
靖国神社境内の「*万朶の桜」は
咲き乱れる。

 *万の朶桜=軍歌。
  「あとがきにかえて」参照。

 
「あとがきにかえて」参照とありますが、拙HPをご覧の大部分の皆さんには判らないと思いますので該当部分を転載します。
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 あとがきにかえて
◎サクラは古くから日本を代表する花のように言われているが、歴史をさかのぼつてみると、そうでもないらしい。『万葉集』にはハギ・ウメの順で百首を越えるのに、サクラは四十首ほどである。中国との交流により齎されたモモやウメが貴族たちの関心をひいたためかも知れない。しかし『古今和歌集』にはウメよりサクラやモミジを歌ったものが多くなり、しかもサクラは咲き誇るより散りゆく歌が、圧倒的に多くなる。そして散ることのはかなさよりも、サクラの散る季節には疫病神の活動が激しくなり疫病が流行する、という考えから、災いがサクラの散るように広がってしまわないように、鎮花祭を行った(百練抄)。またサクラの花盛りは、イネの豊かな実りを表している、として当時(平安末期)の踊り歌に、「や、とみくさのはなや、やすらいはなや。や、とみおせはなまえ、やすらいうたや−(以下略)」といったものがある。このとみくさは富草で稲の美林であった。
 「花さそう嵐の庭の雪ならで 降り(古り)行くものは我が身なりけり(小倉百人一首)」のように、散る花にはかなさを見詰めたのは仏教思想によるものであろうが、武家の台頭とともに《花は桜木、人は武士》的ないさぎよさが強調されるようになる。華やかに咲き広がり一斉に散るサクラに託した農民たちの神への願いは、一変して武士の生死観を象徴する憧憬となり、本居宣長の「敷島の大和心を人とわば 朝日に匂う山桜花」に代表される思想となり、それは第二次大戦にまで引き継がれていく。宣長の和歌は大好きな桜の美しさ潔さを無心に歌ったものであろうのに大戦中では殉国の情を鼓舞する標語となり、若者を死地に送り出した。44年秋、最初に出撃した神風特攻隊の名称は、その歌詞から《敷島》《大和》《朝日》《山桜》と名付けられ、「桜花」は、旧日本海軍のロケット式自爆特攻機(約八百機作成)の呼称である。
 万朶の桜か襟の色 花は吉野に嵐吹く 大和男子と生まれなば 散兵戦の華と散れ=i軍歌・万朶の桜)私達戦中派の青少年は、徹底的に死にゆくための教育を受けていた。
 貴様と俺とは同期の桜 岡じ○○校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散ります国の為=i軍歌・同期の桜)
 散る桜 残る桜も 散る桜=@だが勿論桜の花に罪がある筈はない。戦後桜の美しさけなげさを見直し、物語に詩歌に謳われる作品が復活しつつある。桜の花は平和な時代にこそふさわしい、日本の花である。
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 この
「あとがきにかえて」を読めば作品鑑賞のより良い手助けになると思いますが、仮に参照できなかったとしても作品の質が低下するものではありません。すなわちこの作品には一般的に「桜は嫌い」という人の新しい見方があると思うのです。桜は戦中を思い出して嫌いだという人は意外に多いように見受けられます。その根拠はやはり「本居宣長」でしょうか。しかしこの作品の「従姉妹」は「桜は白いカビのように/伝染病みたいに広がるのよね全国に」と言い、「桜前線」には「大陸の最前線を思い出すの」と言っています。これは新しい見方です。少なくとも私はこのように形容された桜を読んだことはありません。
 しかし、そういう新しさは逆に不幸なのかもしれませんね。やはり「桜の花は平和な時代にこそふさわしい、日本の花である」のかもしれません。考えさせられた作品です。




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