きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2006.5.29 さいたま・見沼たんぼ「見沼自然公園」にて



2006.6.1(木)

 退職して丸1ヵ月が過ぎ、2ケ月目に入りました。自分でも不思議なのですが、在職中の怒涛のような38年間をすっかり忘れています。まるで昔からこうであったかのように本を読んで感想文を書いて、たまに詩人仲間と会って酒を呑んで、すっかり板についてしまったかのようです。順応が早いんでしょうね、節操がないと言うか(^^;
 たまった本を読んでアップロードして、平和に日は暮れて行きました。



和田恒男氏詩集『慈姑採りの歌』
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2006.5.23 栃木県宇都宮市 詩風社刊 3000円+税

<目次>
霊歌 8       牢獄にて 14
団欒 20       箱篋の傍で 26
花客の院 34     喪失 40
蠱女の町 46     慈姑採り 54
向日葵の道 60    耄老譚−Kに 64
首切り地蔵 72    饅頭 78
飛蝗 82       襤褸案山子 88
心猿記 90      暴力の空 94
不在の砌 98     予見の犬 102
お春ちゃん 104
.   蝶蝶 110
 あとがき 116
*装幀−著者     *装画−東泉 彰



 慈姑採り

 食卓の準備が整ったところで、中国鉄鍋に
天麩羅油を適量注ぎ、天麩羅の時と同じ程度
に温めて、芽が付いたままの慈姑の球莖の皮
を剥いたものを丸ごと揚げる。白い球莖がや
や白目の狐色になったところで、皿にキッチ
ンーペーパーを敷いた上に盛って油を切り、
少々食塩を振り掛けて食する。
 淡く薄い紫色の表面に、細い鉢巻きの線を
巻いた、何か寂びしそうな内実を抱えた、直
径約四センチ五ミリの球莖からは、黄色い八
センチ程の芽が伸びていて、年輪こそ無いも
のの、底辺は木の切り株のように平らに削が
れて座りがよく、眼に映る上方へのその力強
い芽の延び方が目出度いと言って、年の初め
には、縁起を担ぐ罪深い者が、決まってこれ
に寄り付き餌食とする。
 味は無く、軽く塩分が舌に浸みて、歯にさ
くっと微かに心地よい噛み応えを覚える程度
で、真っ白な実からは、味気ない不在の味と
言うものを感じる。旨味は無いものの、やが
て忘れた頃、また思い出したように、不思議
と慈姑を食し、期待どうりの空疎を噛み潰し
てやりたい衝動に駆られるのだ。
 斜め下方の近い死角から、得体の知れぬ刺
客のようなものに、間断もなく促されて、寒
い水田にそれなりの武装を懲らして、オモダ
カ科多年生植物の慈姑を採りに駆り出されて
いる。 
ぬ か
 水田は泥濘り、足は深く埋まり、躰の自由
はたちまち奪われる。眼下の足元近く、十本
の指を真っすぐ地下に縦に突き刺し、手前に
掻くようにして、球莖の芽を折らぬように注
意しながら引き上げる。まるで、大きなゴム
鞠に乗った熊のような窮屈な変態になる。前
進はままならぬ。苦痛はじわじわと全身を覆
う。それが慈姑採りに駆り出される者が舐め
る辛苦の様態だ。
 思い返せば、病気のように循環してくる不
幸を想う季節には、何時も、何処か分からな
い空想の慈姑の水田に浸っていることに気付
くのだ。
 苦しみにまみれている時には、辛い奇行の
労働に没頭した後の爽やかさほど、現在に喜
びを齎らしてくれるものはない。
 そして、遥か遠い過去の、或るまだ暗い明
け方に、生まれてすぐ死んだ女の子は、その
日のうちに自転車に乗った男に背負われて、
遠い他人の墓地へと行ったので、苦役してい
る背後では、死相を隠して安らかに眠る、あ
の小さな背負い子のような、使嗾する変容の
奇体までもが、嬉しそうにさくっさくっと、
口が大きく、赤い腹の井守の食み音のようで
はあったが、もう一つの不在の味覚を賞味し
ているのが聞こえるのだ。

 著者の第4詩集だそうです。全て散文詩の美しい構成の詩集です。ここではタイトルポエムを紹介してみましたが、構成の美しさを損なわないためにルビを省いています。3行目の「慈姑」はくわい=A「球莖」にはきゅうけい=A後から11行目の「齎らして」はもた≠轤オてで、後から5行目の「使嗾」はしそう≠ナす。
 また、浅学にして意味の判らない言葉が二つありまして辞書で調べてみました。「慈姑」は作品中でも説明されていますがオモダカ科の水生多年草。中国原産で、古くから各地の水田で栽培される。高さ六〇〜九〇センチメートル。ほぼ球形で径三〜四センチメートルの青色の塊状の地下茎から、長柄のある鏃(やじり)形で長さ二〇〜三〇センチメートルぐらいの葉を叢生する。秋、葉間から花茎をのばし、白色の三弁花を円錐状につける。地下茎は食用になり、その液汁は、やけどに効くという。漢名、慈姑。しろぐわい。《季・春》≠ニいうことでした。ほかに理解や納得のしにくい事柄、人当たりの悪い人間≠ニいう意味もあるようです。
 もうひとつの「使嗾」は指図して行わせること。けしかけてつかうこと≠ニいう意味だそうです(いずも出典は小学館『国語大辞典』1988)。

 「慈姑採り」というのはやったことがありません。たぶん見たこともないだろうと思います。しかし情景はよく思い描ける作品です。「まるで、大きなゴム/鞠に乗った熊のような窮屈な変態になる。前/進はままならぬ。苦痛はじわじわと全身を覆/う」という描写で判るのですが、続く「思い返せば、病気のように循環してくる不/幸を想う季節には、何時も、何処か分からな/い空想の慈姑の水田に浸っていることに気付/くのだ」という表現が素晴らしいですね。詩を深めるということはここを描けるかどうか、だろうと思います。
 最終部の「生まれてすぐ死んだ女の子」と「もう一つの不在の味覚」との結びつきも見事です。ここでこの作品が立体化したと思います。詩とはこう書くものだと教わった思いがした作品・詩集です。




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