きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2006.5.29 さいたま・見沼たんぼ「見沼自然公園」にて |
2006.6.6(火)
午後から土曜美術社出版販売を訪ねて、その後日本詩人クラブの理事会に向かいました。土曜美術社出版販売も詩人クラブ絡みの仕事で、会長・理事長とともに訪れました。会費の納入状況を会員・会友に知らせる手法を改善するため、土曜美術社出版販売のシステムを見せてもらおうというものです。結論としては私の思っていた通りでした。会報の宛名で使われているタックシールに「あなたの会費は○○年○○月まで納入されています」と書けば、年に一度の領収書を見る必要がなくなるわけです。そこで問題になるのはデータの取り込みですが、やはり手入力でした。LANを使ったりインターネットを使う方法もありますけど、危険が大きいのでやらないとのこと。やはりなぁ、と思いましたね。ネットという便利なものが出来ても、使う人間に問題があれば本来の力を発揮できません。人類はまだその程度なのだと改めて認識しました。で、日本詩人クラブも手入力(^^; 近いうちに宛名に記載されるようになると思いますので、注意しておいてください。
理事会の方は行政書士の先生に来ていただいて法人化事務の詰めをやりました。何とか7月の法人発足には間に合いそうです。関西大会の参加者数も発表され、120名を超えていました。今の会場ですとこれが上限。再来年の関西大会はもっと増えるでしょうから、今後は会場の心配もしなければならないでしょう。
私は7月末からの詩書画展の参加者を報告しました。個人的に目標としていた50名は超えそうです。詩書画展は初めて担当理事になりましたので戸惑うことが多々あります。経験者や会員・会友の皆様のご協力を仰ぐことになりますので、よろしくお願いいたします。
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※これからは宣伝です。ポエトリーリーディングのお誘い
急な話ですが、私が入り浸っている紙芝居喫茶「アリキアの街」でポエトリーリーディングをやることになりました。来週6月18日(日)午後3時から2〜3時間です。担当は長谷川忍さんと私。内容は最近の詩集・詩誌から面白そうな作品を紹介したり、希望者の朗読などを考えています。来場者は近所の学生さんや主婦の皆さんが多くなると思います。遠方の方は無理かもしれませんが、よろしかったらおいでください。
日時 6月18日(日)午後3時から2〜3時間
場所 紙芝居喫茶「アリキアの街」神奈川県秦野市南矢名1-5-13 ロイヤルビル2階 Tel&Fax
0463-77-7550 小田急線東海大学前駅より徒歩2分
http://www16.ocn.ne.jp/~arichire/index.htm
会費 500円+1ドリンク
準備の都合上、おいでくださる方はご一報いただけると有難いです。なお、当日は22時からのサッカーW杯TV中継を150インチの大画面で楽しむそうですから、ご都合のつく方はこちらもどうぞ。
○評論誌『未知と無知のあいだ』25号 |
2006.6.15
東京都調布市 遠丸立氏編集 方向感覚出版発行 250円 |
<目次>
沖縄への思い………………久根淑江 1
中国・朝鮮・日本…………渡辺一衛 3
「格差社会」を読む………栗島久憲 4
なさけない近代……………小林広一 6
なによりもだめな日本…久保木宗一 7
地図に想う歴史………前田たつひこ 8
恐竜と巨樹………………水こし町子 10
司会者初体験記…………佐久間郁子 11
四月、新たな「始まり」…吉岡三貴 11
傘の話 紫外線の話………遠丸 立 12
一方、「紫外線除け」黒い婦人帽がはやる、晴天曇天にかかわらず、黒傘をかざし紫外線を避けるご婦人がたが増えた。日傘は昔からあったが、それは盛夏の酷熱を遮断しょうとするもので、陽光一般を忌避し遮断する小道具じゃなかった。最近は、早春の小春日和、穏やかな日光すら避けて小型の黒傘をひろげる女性を見かける。傘は雨除けだけじゃなくなり、紫外線除け用として外出時常用されるようになったのか?目まぐるしく変る世の中の価値転換の一標本みたいに、傘の役目が変ったようだ。
これに関連して浮びあがるイメージがもう一つある。いわゆる鳥インフルエンザの予防ということなのだろう。(二〇〇五年十一月現在、大流行の兆しありと騒がれている)、顔の半分以上を覆うような大型白マスクを厳(いかめ)しく着けて道往く人、電車に乗ってくる人……。口唇、鼻の突端部が白布ですっぽり覆われて見えない人間の顔というものは、正視していて異様である。人間らしくない、人間の生きた表情が無いのだ。何か良からぬことを実行しようと、人から顔を隠す目的で着用する大型マスク……マスクのそんな用途を思えばいい。手術中の外科医やスタッフの面々、診療中の歯科医や看護師、その他が、職務を遂行する際の必要具としてマスクを着けるのは、まあ、職業柄止むを得ないとして。
新型の鳥インフルエンザが実際人間界に大流行、猛威をふるうかどうか、それはだれにも分らないこと。起ったら起ったときのことよ…。私には過大な風評被害を避けたい気持のほうが、まっさきに働くのだが。
自然の力を脅威と受け止め、ひたすら身をかわそう、避けよう……自然の暴力の防衛・忌避の、つまり受身一方の、姿勢を目に留めると、なにかもの哀しい。そこまで光りを、ある意味では慈光を、避けなければならないのか?消極性への傾斜にすがりつく人間の姿に、堂々と生きてゆく自信は感じられない。自信ではなく不安が歩みでている。
戦々恐々たる思いで日々を送る人間の小ささ、心細さ。人間が母なる地球上で正々堂々と生きてゆく自信を喪失したのが、二一世紀に入った私たちの姿じゃないか。環境が徐々に破壊され、破壊の結果惹起するマイナス面のクローズアップに、現在私たちはたじたじとなっている。それと連働する自信喪失なのだろう。
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遠丸立氏による「傘の話 紫外線の話」の中間部分を引用しました。原文は15字で行替えされていますが、ここでは携帯電話で読むときの利便性も考慮してベタとしています。ご了承ください。
「人間が母なる地球上で正々堂々と生きてゆく自信を喪失したのが、二一世紀に入った私たちの姿じゃないか」というところに注目しています。そういえばかつては人類に「堂々と生きてゆく自信」があったなと思います。20世紀の「堂々と生きてゆく自信」が環境破壊につながったという面は措くとして、夏は真っ黒に陽焼けして、安価な鶏はたくさん食べて、そういう面で「母なる地球」の恩恵を堂々と受けていたと云えましょう。それが「小型の黒傘」を常用するようになり「顔の半分以上を覆うような大型白マスクを厳しく着け」るようになったのは、まさに「環境が徐々に破壊され、破壊の結果惹起するマイナス面のクローズアップに、現在私たちはたじたじとなっ」た結果でしょうね。オゾン層破壊にしろ「新型の鳥インフルエンザ」にしろ、19世紀では成し得なかった科学技術の進歩で発見されるようになったという側面もありましょうが、確実に環境破壊が進んだのは事実です。孫子の代がこの地球上で自信を持って堂々と生きるために、現在の私たちがやっておかなければならないことは沢山あるのではないかと考えさせられた評論です。
○季刊個人詩誌『天山牧歌』25号 |
2006.5.25
北九州市八幡西区 秋吉久紀夫氏発行 非売品 |
<目次>
チャンヤオ
放牧するトラムの女神(中国)昌輝 秋吉久紀夫訳1頁
東シナ海で再燃する日中問題(2) 秋吉久紀夫 2頁
海外文学情報
アルゼンチンの詩人 ホアン・ハルマン・・・11頁
受贈書誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・11頁
ソクラテスの洞窟・・・・・・・・秋吉久紀夫 12頁
さくらとへいたい ・・・・・・・・稲田美穂 14頁
身辺往来・・・・・・・・・・・・・・・・・・15頁
編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・16頁
☆さくらとへいたい☆/稲田美穂
サイタ
サイタ
サクラガ
サイタ
ススメ
ススメ
ヘイタイ
ススメ
太平洋戦争が始まった年に
あこがれの一年生になって
はじめて習ったのが
この小学国語読本だった
満州事変
日中戦争
太平洋戦争と
戦争にどっぷりと浸かっていた
この国の教科書で学び
「少国民」(注)とおだてられて
模範的な小学生を夢みていたわたし
「サクラ」は「ヘイタイ」と一つになり
六五年の歳月を経た今も
わたしの頭の中にしっかりと居座っていて
いまさらながら愕然とする
春になって
さくらが満開になると
心が騒ぐようになったのは
いつの頃からだったろう
さくらは
春を迎えるよろこびの花
老いた人にとっては
生きている幸せを感じさせる花だ
なのに
どこまでも青い空に
咲きそろう薄桃色の花を
じっと見つめていると
花の色はやがて薄墨色に変わり
訳の分からない悲しみが
胸いっぱいにこみあげてきて
わたしを異次元の世界に誘い込む
今年もさくらの季節がめぐって来て
わたしはどうにもじっとしてはいられない
いままたこの国が
かつてそうであったように
ススメ
ススメ
ヘイタイ
ススメ
が似つかわしい国になろうとしているのが
わたしには見えて来るから
(注)「少国民」とは、太平洋戦争中に、この国の指導者に
よって意図的に作られた、少年少女を意味する言葉。
勘違いしていたようですが「サイタ/サイタ」と「ヘイタイ/ススメ」は同じ「小学国語読本」に載っていたのですね。復刻版を書店で立ち読みした程度の記憶しかありませんから、別の教科書だとばっかり思っていました。歴史の資料として復刻版でよいからいずれ入手しておこうと思いました。
「咲きそろう薄桃色の花を/じっと見つめていると/花の色はやがて薄墨色に変わり/訳の分からない悲しみが/胸いっぱいにこみあげて」くるというのは「わたしには見えて来る」という言葉とともに、戦争を経験した人には実感として伴って来るのでしょう。先輩のこういう感覚をどうやって次代につないでいくかが私たち戦後世代の課題だと感じた作品です。
○詩誌『墓地』56号 |
2006.6.2
青森県北津軽郡鶴田町 高橋玖未子氏方発行所 山本十四尾氏発行 500円 |
<目次>
アダージョに堕ちて 石下典子
旧友 大掛史子
生きる用意 岩崎和子
ある男の物語に 高橋玖未子
水の充実 山本十四尾
同人近況
いしおろし
アダージョに堕ちて/石下典子
はじまりがすべて
目が合った瞬間 天災の不意打ちで
恋は切り落とされる
たとえ安まることのない旋律が始まろうとも
避けきれぬ定命
不安な震えで知るあなたの呼吸搏動
なのに ときめきになじんでいくリズム
ならば一切の音符を取っ払ってよ
かすかなビブラートなんて
息が止まるほど抱きしめてくれたら
行き場をなくして消えていく
黝くぬめる雌の触角が
さぐり読む譜
血の中の声を黙らせなければ
譜面に火種が落ちる
止めて わらわら広がる前に
胸を火照らせ溺れるそのとき
この身に蔓延る螺旋を詛い
裁ちきれるものならとくちびるを噛む
血がにじむほどこらえても
桜桃は墜ちていく
とろけりたチョコレートをアダージョに
あぁ、大人の恋だなと思いました。19、20歳では「血の中の声を黙らせなければ/譜面に火種が落ちる」、「この身に蔓延る螺旋を詛い」なんてことは書けないでしょうね。こう書けるようになるには深い体験と詩作の修養が必要なはずです。しかも、ただの詩作の修養≠ナは済まされず、血の滲むような時間があったのではなかろうかと推察しています。その結果としてこのような読ませる作品で表出したと思っています。
私事ですみません。わが身に振り返ると深い体験≠ヘいっぱいしたけど詩作の修養≠ヘ浅かったなと思います。それを気付かせてくれた作品でもあります。
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