きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
060630.JPG
2006.6.30 東京・新宿



2006.8.16(水)

 ときどき「いただいた本は読み終わったらどうするのですか? 捨てるのですか?」と聞かれるのですが、回答は「整理は悪いのですが全て保管しています」。たまたま私の書斎が12畳あることと実家にも置けるので何とかやってこれました。しかし、さすがに限界ですね。そう思って書斎を見回すと意外なスペースを発見しました。書斎に入るドアの内側です。奥行き15cm、幅80cmなら高さ2mは軽く取れます。これを遣わない手はないなあと思いました。今でもその場所に50冊ほどの本を積み上げてありますから、現実的な選択肢です。文庫なら400冊は置けるでしょう。
 問題はそんな本箱が市販されていないことです。隣の建具屋さんに頼んでも良いでしょうが、ここは昔を思い出してDIYを思い立ちました。たっぷりとは言えませんが現職時代に比べれば時間の余裕があります。いつになるか判りませんけど、制作過程がこのHPで書かれるかもしれません。さあ、図面を描かなくちゃ!



総合文芸誌『中央文學』470号
chuobungaku 470.JPG
2006.8.25 東京都品川区
日本中央文学会・鳥居章氏発行 500円

<目次>
◆小説◆
みねと咲子と高松塚古墳/柳沢京子/2
噂の証明/曽根 聖/15
解放された日/本多 爽/18
◆詩作品◆
小さな悲劇/佐々木義勝/25
存在/佐々木義勝/27
プリーズ/田島三男/30
経験という嘘/田島三男/31
すれ違い/田島三男/32
◆俳句◆
残照/黒沢和夫/33
◆翻訳◆
望郷
(原題:The grey cemetery)/ミツオ・ミトガワ作 根津徹也訳/34
●編集後記 38
●表紙写真●オーストラリア/シドニー市/ダーリングハーバー●



 プリーズ/田島三男

大人が教えてくれた
困ったことが起こったら魔法の言葉を唱えるがいい
心をこめて
相手の目を見て
プリーズと言うがいい
そしたら
願いが叶うんだよ

ある日
少年はプリーズと言ったが
理解されなかった
望まない結末にいたった
必死の抗議さえも
笑顔でかわされた
ひとしきり泣き
大粒の涙が乾いて
悲しい思い出となった

あの「プリーズ」が
遠い彼方から聞こえ
届かぬ願いを思い出す
そして今日
あるいは明日
異なるプリーズを
誰かが言うかもしれない
耳をすまして聞こう
言葉のもつ本当の意味を

 「魔法の言葉」が「理解されなかった」のは「少年」が「言葉のもつ本当の意味を」判らなかったから、と理解できます。「誰かが言うかもしれない」「異なるプリーズを」「耳をすまして聞」かなければ「言葉のもつ本当の意味」が判らないのだ、とも採れますね。「願い」は「大人」にとっても「少年」にとっても存在するもの。それは言葉によって達成されるのだとも読み取りました。



季刊個人詩誌『天山牧歌』72号
tenzan bokka 72.JPG
2006.8.10 北九州市八幡西区
天山牧歌社・秋吉久紀夫氏発行 非売品

<目次>
マルコ・ポーロ(イラン)ウラゴー・ハツライ/秋吉久紀夫訳 P1
中東イスラム圏の詩(5)(レバノン)/秋吉久紀夫訳・解説 P2
 アサド・サイドの詩3篇 P2
 レドウェン・サハルの詩1篇 P6
 ユースフ・サイドの詩1篇 P7
古代ローマの円形闘技場で/秋吉久紀夫 P17
乳牛の嘆き/稲田美穂 P18
受贈書誌 P19
海外文学情報 P20
身辺往来 P20
編集後記 P20



 ぼくらは何を望み、何を望まないか/アサド・サイド
  レバノン 秋吉久紀夫訳

友人たちと肉親たちよ
ぼくらはきみらが幸福に暮らすのを望んでいて、
爆弾と原子爆弾がひとびとを
灰儘と帰すのを望まない。

世界のあらゆるひとびとよ、
ぼくらはきみらが幸福に暮らすのを望んでいて、
ぼくらがお互い出会う時、
呼びかけ合う言葉は大砲の轟きではなくて、
「兄弟」や「親友」という文字である。

ぼくらは指にダイヤの指輪をはめたり、労働を売り
ものにするのを望まない、
ぼくらは宗主国や従属国が存在するのを望まないし、
民族間に戦争が発生するのを望まない。

そうだ、ぼくらは楽しい暮らしを求めている。
創造のために、生存のために、
こどもたちの未来の面前で
ぼくらがこの一生を無駄に過ごさなかった証のために、
ぼくらは平和を求めているのだ。
ぼくらは思想が光を発することができるのを望んでいる。
それが自由に飛ぶことができるのを望んでいる。
ぼくらも暗黒が明るい光と変わるのを望んでいる。
ぼくらは壊滅をのぞんでいない。

ぼくらはすべてのレバノンのひとびとが
自由な人民となるのを望んでいる、
かれらの人口は多くはないが、
如何なるひともかれらの生命と労働と栄誉を侵して
はならない。
ぼくらは歌とこどもたちの笑い声が好きだ。

 「中東イスラム圏の詩(5)」5編の中の1編です。イスラエルによるレバノン侵攻が起きている現在、この作品は現時点のものかと思いました。しかし秋吉さんの解説で書かれた時期は1958年頃と判り、驚いてしまいました。ほぼ半世紀前と何も変わっていません。確かに「宗主国や従属国」という言葉があって、特に「宗主国」は今ではほとんど使われていないと思いますが、現実には米国の宗主国ぶりが際立っています。その象徴として違和感がありませんでした。50年経っても変わらないレバノン情勢に愕然とするばかりです。
 誰もが「幸福に暮らすのを望んでいて」「呼びかけ合う言葉は大砲の轟きではなくて」「歌とこどもたちの笑い声が好き」なのに、それが実現できないのは何故なんだろうと考えてしまいます。「ダイヤの指輪」のためなのでしょうか。このままでは「思想が光を発することができる」日はあと半世紀待っても来ないのかもしれません。考えさせられる詩です。




   back(8月の部屋へ戻る)

   
home