きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2006.7.7 クリスタルボウル(「アリキアの街」にて)



2006.9.17(日)

 HP更新やら原稿書きやらの合間を縫って、今日は年金の書類に目を通しておきました。今までは企業型年金だったのですが、退職したから個人年金に移行させなければいけません。そのままにしておくと法律によって国民年金に組み入れるゾという脅しも入っています。10月末日までにやれとのことですから、今のうちにやっておけば大丈夫でしょう。
 会社勤めのころは、そういうことは総務がやってくれていましたから気にしていませんでしたけど、自分が動かないとなにも進まないというのがよく判りますね。自営の方はもっと大変なことをやっているのでしょうから、本当に頭が下がります。それにつけても書類の世界よ。官は書類が全てということがよく判る昨今です。



詩誌『撃竹』63号
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2006.8.30 岐阜県養老郡養老町
冨長覚梁氏発行 非売品

<目次>
白梅…中谷順子 2
詩人の耳…中谷順子 4
九十九里 〜日没まで〜…石井真也子 6
朝を追う…若原 清 10
ちょっとだけ…若原 清 12
木槿…掘 昌義 14
ここだけは…堀 昌義 15
鬼の人…前原正治 16
油に浸り…前原正治 18
堕胎…斎藤 央 19
憤怒の川…=斎藤 央 22
微笑み…伊藤成雄 24
就眠儀式…頼 圭二郎 26
途上にて −木の老姿−…北畑光男 28
真夏の夜の宴…冨長覚梁 30
若原清詩集『物体童話』−社会通念を覆して…豊岡史朗 34
撃竹春秋…35



 ここだけは/堀 昌義

梅雨。 議決。 判明。 解除。 一致。
和平。 偏重。 出番。 老後。 旧友。
経験。改革。増税。格差。自殺。少子化。
連覇創造。温暖化判明。貧困。制裁感謝。
発動激突送検離婚介護 殺人負傷撤退公開入学雷鳴。

ここだけは
平和がたちこめている
枕元の体温計 白い匂い
目も見えない 生まれたばかりの赤子が
大あくびした

 詩人は社会時評を書くべきだという主張があって、私も同意しています。それらしきものも書いてきました。もっと社会に目を向けるべきだとも思っています。そういう考え方からすれば、この作品は「ここだけは/平和がたちこめている」とうたっていますから問題があるかもしれません。しかし私はそうは思いません。「ここだけ」の「平和」も書くべきなのです。一人の詩人は社会の中で生きていると同時に「生まれたばかりの赤子」を抱える市井人でもありますから、両方書くべきというのが正解かもしれません。以前の『撃竹』を紐解いてみると、作者は社会性のある作品も書いています。今回はこういう作品だったというだけだと思います。もちろんこの作品の裏側の社会性も読み取れますけどね。詩集としてまとめるとき、この作品はおもしろい位置を占めるのではないかと勝手に楽しんで拝読しました。



詩の雑誌『鮫』107号
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2006.9.10 東京都千代田区
鮫の会・芳賀章内氏発行 500円

<目次>
鮫の座/前田美智子−表紙裏
[作品]
ゆで蛙/瓜生幸三郎−2
冬のほほえみ/飯島研一−4
公衆電話/いわたにあきら−6
ごみ箱の底から/井崎外枝子−9
九九/岸本マチ子−12
丹秀経がごとく/原田道子−14
モグラ/芳賀稔幸−16
雨/高橋次夫−20
呑みこまれる「私」/大河原巌−22
大司教ベルナルドオのつぶやき/仁科 龍−24
帰ってきた異邦人/前田美智子−28
包む/芳賀章内−31
[謝肉祭]
手術考/瓜生幸三郎−34
批評の基盤 武田肇の暴言を通して/芳賀章内−35
[詩誌探訪]原田道子−39
編集後記 表紙・馬面俊之



 ゆで蛙/瓜生幸三郎

自然の災害は
いわば天のカタルシス
畏怖のトランペットが鳴り響く
人災は瓦礫の世界
忌明けのない
いのちを穿つ氷の刃
見晴かす
海は荒海
日が傾くまで 世界の岸辺を
幻覚症状が駆けめぐる

人災の極めつき
ウォーとは猛獣の雄叫びである
人間の尊厳を吹きさらしにし
猛獣になりきって戦えということではないか
獣性に磨きをかけなければ
血煙りをあげる数が多いはど
英雄視される狂気の世界に
身を挺することなどできようか

くらげのような人心
右といえば右を向き
左といえば左へ頬寄せる
したたかな遊泳術にみえるが
かすかにうち震える木の葉の表情に
嵐の前兆を読み解くすべをもたぬなら
きみもあなたも  

れっきとした ゆで蛙だ

*ゆで蛙 水を張った鍋に蛙を入れ、火にかけると、最初のうちはぬるま
 湯でいい気持ちでいるが、そのうち熱湯になり、ゆで蛙になるという、
 ぬるま湯につかっていることの恐さのたとえ。

 浅学にして「ゆで蛙」という言葉を知りませんでした。広辞苑には載っていませんでしたから地域的な言葉なのかもしれません。しかし注釈の「
ぬるま湯につかっていることの恐さのたとえ」はよく理解できます。現在の「くらげのような人心」に対する警告としては適切な喩えと云えましょう。「ウォー」をWarと「猛獣の雄叫び」に重ねたフレーズも佳いと思います。書かれてみればその通りですが、今までそう書いた人はいなかったんじゃないでしょうか。それにしても「猛獣になりきって戦」う、「獣性に磨きをかけ」るなんて願い下げです。そんなことを感じた作品でした。



個人詩誌『息のダンス』7号
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2006.9.21 滋賀県大津市 山本純子氏発行 非売品

<目次>

落書き 2      柵 4
満月 8       葉書 12
 *
少年 16       風下に 18
観察日記 22
エッセイ
詩の朗読に関するエッセイ
「現代詩で綴る『おくのほそ道』加賀の芭蕉」 24
俳句の朗読について 29
あとがき 34



 落書き

わたしがいつも
ひじをついているけど
わたしの机じゃない

だからちょっと
落書きをする
かたすみに
やどかりの絵を

音楽室とか
家庭科室から帰ってきたら
待っている
やどかりが
波打ちぎわで

わたしの席に
ほかのだれかが
座っている時
ほかのだれかが
わたしのやどかりを
みつめることも
あるのだろう

ある朝
起立、礼、
で座ったら
やどかりのそばに
かにが一匹
話しにきていた

 「落書き」するのは悪いことだけど、創作だからちょっと措いて、佳い詩だなぁと思います。「やどかりのそばに」誰かが「かに」を落書きしたんでしょうね。それを「話しにきていた」とするところが山本純子詩らしくて、つい微笑んでしまいます。
 この作品は私の勘繰りでは「落書き」の善悪も問題提起しているのではないかと思います。本当に悪いんだろうか。昔の小学校や中学校の机は木で、先輩が書いた落書きがいっぱい。それでもというか、それだからこそというか、愛着がありましたね。今はみんな見かけは良い子になって、もっと大事なものを忘れていませんか、と問いかけられているようにも感じます。落書きを認めることはできないけど、ささいなストレスの発散さえ私たちは奪っているのかもしれません。考えさせられた作品です。



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