きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2006.7.7 クリスタルボウル(「アリキアの街」にて)



2006.9.22(金)

 貞松瑩子さんの誘いで代々木上原の「古賀政男音楽博物館JASRACけやきホール」に行ってきました。(社)日本歌曲振興会第6回「新作歌曲をあなたに・・・」コンサートです。貞松瑩子作詩が含まれる第1部しか観ませんでしたが、ピアノとソプラノというシンプルな歌曲を楽しんできました。

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 写真は作曲家・小林秀雄さんと貞松さんのご家族。開演前の一齣です。貞松さんの曲は「愛するものへ」と名付けられ、詩集『貞松瑩子最後詩集』から「立春」「哀歌」「解けて」、詩集『風のかたち』から「ひとへ」の4編が披露されました。ピアノ、ソプラノによく合っている詩でした。詩も曲がつくとずいぶん変わるものだなと改めて感じた次第です。初秋の一夜、今年はじめての芸術の秋≠堪能させていただきました。



二人詩紙『青金新聞』5号
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2006.9.15 群馬県高崎市
金井裕美子氏発行 非売品

<目次>
今月のお題「言わなくてもいいのだけれど言いたいこと」
 ホンネとタテマエと考え方/青木幹枝 1
 ペイネの絵本『Elefanteneinmaleins』のこと/金井裕美子 1
文書をめぐる顛末(2)/青木幹枝 2
詩 目覚めたら八月のプールの底にいた/金井裕美子 2



 寺を調べると漠然と言ってもどこから手をつけたらいいのか分らない。何かを調べる時はまず図書館へ行ってその資料となるものを探す訳だ。廃寺は無くなっている訳だから明治の始め辺りで資料などない。ではどこでどう探すのかから始まる。
 こんな経験は初めてで、しかも自分は文科系ではないし、などと思ってはみたが、そういえば理科系の私も同じような経験をしたことがある。要するに答えが出ていない実験と同じだ。この物質は何なのか水に溶けるのか有機溶媒じゃないと溶けないのか、PHはどのくらいになるのかなどとその物質の同定を初めてする研究者と同じだ。学生の時は答えはいつもあってその近づき方を練習していた訳である。結局研究とは新境地程ワクワクするものは無い、だからおもしろいが難しい。特に古文書というものは大数生産に印刷されたものではない。誰も踏んでいない雪に足跡を残すのは研究者の醍醐味なはずである。

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 前号から始まった青木幹枝さんの「文書をめぐる顛末」は、実家が旧家だったこともあり、古文書解読にのめり込んでいく好エッセイです。今号の冒頭を紹介してみました。「文科系ではない」「理科系の私」の「要するに答えが出ていない実験と同じだ」と気付くところがおもしろいと思います。視点を変えることができるのは、柔軟な思考力の現れでしょう。今後どう展開していくのか楽しみなエッセイです。



詩誌『饗宴』47号
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2006.9.1 札幌市中央区
林檎屋・瀬戸正昭氏発行 500円+税

<目次>
詩論
挽歌、悲悼、哀傷歌 小笠原洽嘉…4
作品
転身譚 3 塩田涼子…6
秋の歌 瀬戸正昭…8
白いテニス/パピヨン/夏の川赤き鐡鎖の端浸る/鬪志 新妻 博…10
かあさんおかあさん、詐欺師 村田 譲…12
空のうわさ 谷内田ゆかり…14
その魂の安らかな眠りのため私がしなければならないこと 千葉志生…16
古い海 尾形俊雄…18
ラミウム 木村淳子…20
かみすながわ−不思議ふしぎの二条通り20 嘉藤師穂子…22
knotgrass/ミチヤナギ 吉村侑久代…24
特集 芸術随想集
梗梏の時代をむかえうつ 尾形俊雄…26
ヴェルディがオペラで言いたかったこと 工藤知子…28
生け垣のそばで 塩田涼子…30
個展を終えて 朝田千住子…31
デ・キリコ 嘉藤師穂子…32
連載エッセイ
林檎屋主人日録(抄)(8)(2006.3〜2006.7) 瀬戸正昭…34
受贈詩集・詩誌…9
秋の詩話会のご案内…23
饗宴ギャラリー 朝田千住子「豆の木」…2



7月16日(日)曇り一時雷雨のち晴れ
 5時起床。眠りが浅く閉口する。
 一人で朝食。冷麦。家族は皆眠っている。
 ノリントン指揮のモーツァルト「レクイエム」を全曲通してきくが、感銘なし。オケが薄っペらでどうしようもない。91年録音。
 続いてヨッフム盤。55年録音。
 夜の眠りが浅いせいか、眠気甚し。
 午後からまゆこのピアノにつきあう。ベートーヴェン「バガテル」。かなり弾けるようになったが、もう少し…。
 14時ころ驟雨。雷鳴。
 ハイドンのカルテット聴きつつ、小林秀雄「モーツァルト」再読。あゝ tristesse allante! 読み飛ばすとまずいので、丁寧に読む。久々の読書らしい読書。
 就寝前TVでダイアン・レイン主演「運命の女」を観賞。マルティネスの下品さがいい。

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 今回は詩作品でなく、瀬戸正昭さんの連載エッセイ「林檎屋主人日録(抄)」を紹介してみました。拙HPでは初めての紹介になると思いますが密かに愛読していて、贈られてくると真っ先に読む頁です。文学、音楽、芸術一般に加えて仕事のこと、ご家族のことがさり気なく書かれた好エッセイで、おそらく他の読者も真っ先に読んでいるのではないかと思います。
 紹介した部分に「小林秀雄」さんのお名前が出ていて驚きました。たぶん上の写真の小林秀雄さんと同一人物だと思います。上の小林さんはエライ人のようで、ピアニストや声楽家がこぞって挨拶に出向いていましたから間違いないでしょう。私はこの分野も門外漢なので、勧められて気楽に名刺交換やって、写真を撮って、と呑気なものでしたけど、瀬戸さんのエッセイで赤恥ものだったのだなと思いました。小林さんの名刺は顔写真入りで「私がパソコンで作ったんですよ」と無邪気に教えてくれました。気さくなとても良い人です。



文芸誌『扣之帳』13号
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2006.9.10 神奈川県小田原市
石井啓文氏方・扣之帳刊行会発行 500円

<目次> ◇カット 木下泰徳/F・みやもと
足柄学講座・民俗編
 生と死の民俗(2)五百羅漢のことなど/木村 博 2
二人の僧侶の俳句/佐宗欣二 14
庄内・丸岡城と献球院/今川徳子 20
小田原城下筋違橋・欄干橋界隈=三好達治来住のころ/田代道彌 24
戦争が始まった日・終わった日/中野文子 36
みたびの邂逅/井上敬雄 38
足柄を散策する(4) 文学遺跡を尋ねて 十文字橋から吉田島辺りまで/杉山博久 44
カルメン日記/桃山おふく 64
茂年さんのことば/岡田花子 61
女ヤモメにゃ花が咲く/木村 博 62
寄の「出自」とその地名考/平賀康雄 64
青春回帰のきまま旅/谷口 融 69
安叟宗楞(12) 土中に生まれた人/青木良一 73



 寄の「出自」とその地名考/平賀康雄

一、その地名についての積年の思い
 おおまかでも寄の事を語るについては、まずその読み方の事について少し触れておかなくてはならない。わずか三十年ほど前までは地元の誰もがヤドリギ(又はヤドロギ)と言っていたものを、町の行政、教育機関方面から急激にヤドリキと読むように指導され、またたくまにその読み方に固定化されてしまった。その根拠は『皇国地誌』他の明治期編纂の地誌・歴史書中に変体仮名でヤトリキとあったことからが主であるが、旧時代のしばしば濁音を嫌う記述法をよく知らぬ人達の早合点からそうなってしまった。
 しばらくの間物議が醸され、その時若年の筆者も当時の町長に一文をよせたりもしたが、「よく検討しておきましょう」で済まされてしまった事である。地名というものは時の経過とともに変化するもので、抗議しきれぬ内に時を失い、数十年間もそうと呼び慣らわされれば今はもう、それを正当とするしかない事だ(私はいまだにヤドリギと呼んでいるが)。
 続いて寄という地名の年齢についても前置きしておかなければならない。この風変わりでまれな読み方からして、いかにも古い時代からの地名であるように思われるとしたら、それは楽しい空想がもたらしたともいうべき誤解である。
 丁度五十年前のいわゆる昭和の大合併で旧寄村は旧松田町と合併して、松田町寄となったのであるが、そもそも寄村がその名と共に新しく誕生したのは明治八年五月の事である。それ以前の旧寄地区は東山家入(ひがしやまがいり)七ケ村(後述)と呼ばれた丹沢鍋割山麓の寒村の地区であり、それら七つの村が寄り合わさって出来たのが寄村である。つまり寄というのは明治以降に出来た新参の地名である。
 この村名の名付け親とされるのは実質的な初代村長安藤安賀氏である。氏は旧萱沼村の名主家に生まれて経済的に恵まれ、学識とともになかなかの政治力もあったらしい。つまり、奥まった山村の出にして足柄上都の初代及び第三代の郡会議長を務めたり、後年寄村村長を退いた後も、時の文部大臣井上毅(こわし)が安藤家を休み所として来村したこともあったのは特記に値することだ。
 井上大臣の随想集「梧陰存稿」には安藤氏を縷々(るる)讃歎する文章が出てくる。この文章が戦前の国民学校の教科書にも転載され、広範囲のひとびとの目にも触れたことから、寒村たる寄の村人にとって、この出来事は大いな誇りとなった。
 井上大臣は寄村の事を、「我もまた住まばやとしも思うかなみ山の奥の寄の里」と詠みあらわしてもいるが、この歌は村おこし気運の高まった昭和末年頃か、この近隣出身の某文部大臣の揮毫をいただいて(観光的な)歌碑にも刻まれることとなった。
 閑話休題。旧来から協力し合い、寄り合って生きてきた七ケ村を寄せ集めて出来た村であるからといって、寄り村とか寄せ村では全く芸がないことで、それよりは寄一字をもって村名とした事で妥当だったのだと思う。命名のいきさつはなんら伝えられていないが、上記の如くの教養人である安藤氏が付けた村名であるから、植物のヤドリギ(寄り木)か源氏物語の巻名であるヤドリギ(宿り木)あたりからの連想をもって付けられたのではないかとも、推測出来ないこともない。

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 この論考は六まで続いていますが、一のみを紹介してみました。筆者は神奈川県足柄上郡松田町寄にあるお寺の住職さんのようです。
 私は幼少の頃、全国を転々としてしまいましたが、小学校5年生から静岡県御殿場地区・神奈川県足柄地区に落ち着いて現在に至っています。ですから「寄」の地名に魅せられたのはこの40年ほどということになりますけど、この論考を読むまではまったく意味が判らないでいました。「いかにも古い時代からの地名であるように思われ」「楽しい空想がもたらしたともいうべき誤解」をしていた一人です。「寄一字をもって村名とした」「教養人である安藤氏が付けた村名」とは知りませんでしたね。
 寄地区はおもしろい処で、絵描きさんや陶芸家などの芸術家が多く移住しています。確かに「丹沢鍋割山麓」という風光明媚な地でありますから、それに惹かれたのだろうと思います。小田急線新松田駅、JR松田駅からクルマで15分ほど。知る人ぞ知る隠れた名所です。機会があったら訪れてみると良いでしょう。
 行政の違いからかもしれませんが「町の行政、教育機関方面から急激にヤドリキと読むように指導され」たことも知りませんでした。ちなみに私は今でも「ヤドリギ」派です。



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