きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2006.9.16 群馬県榛東村「現代詩資料館・榛名まほろば」にて



2006.10.27(金)

 午前中はホームセンターを3軒まわって本箱を探しましたが、見つかりませんでした。書斎の本が片付かなくて、あと一棹分増やそうと思っています。12畳の書斎は3面が本箱で囲まれています。それでも足りなくて中央にも90cm高の本箱があります。中央にもう一組90cm高の本箱を増やそうと思って探したのですが、なかなか気に入ったものが見つかりません。やっぱりネットで探そうかな? 前回、ネットで良いものが見つかったので、その方が早いかもしれません。書斎に入れる本箱はそれが限度で、そのあとはいよいよ書庫の設置ということになりそうです。ダンボールに入れた本、実家に置いてある本を、早く見えるところ、身近なところに置きたいものです。

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 夕方、中学時代の恩師から電話があって、「いろいろあげたい詩集があるけど、来るか?」。クルマで片道40分ほどの所にお住まいですから、もちろんすぐにとんで行きました。いやぁ、大変なものでした。

草野心平詩集『蛙の全体』1974.11.30落合書店刊初版5000円
三好達治詩集『百たびののち』1975.7.30筑摩書房刊初版7800円限定680部の内第103番
『金子光晴全集』全15巻1975.10.20〜1977.1.30中央公論刊初版1800〜2200円月報付
『万葉集』一〜四(日本古典文学全集全51巻の内)1979.5.1〜7.1小学館第6〜9版各2200円月報付
岩波講座『文学』全12巻1975.12.1〜1976.12.10岩波書店初版各1700円
その他川端康成評論6冊

 何と全部で39冊! 前回、『日本現代詩大系』全10巻をいただいていますから、この2カ月ほどで49冊をいただいたことになります。やっぱり早く書庫を作らなくちゃ。
 73歳になるという恩師は、そろそろ身辺整理に入っているとのこと。本の貰い手がなくて困っていたそうですから、全部私が引き受けると大口を叩いて来ました。私の身辺整理は、たぶんあと20年後でしょうから、それまでは大事に遣わせていただきます。その後はどうしよう? 文学好きの若い人が現れることを信じています。



林立人氏詩集『<モリ>』
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2004.10.20 東京都千代田区
花神社刊 2300円+税

<目次>
序詩 7       杙(くい) 8
呼ぶ 12       舟 18
帆柱(マスト) 24   結び目 28
列 34        水族館 38
木ノ実 40      三月 46
櫂 50        列車 54
巻き尺 58      運河 62
回転 66       朝 70
石と饅頭 76     蛾 78
偽令法
(にせりようぶ) 82 モリヘ 86
指 90        サカナの類(たぐい) 94
手袋 100
.      掴む 104
パウダ 108
.     日月球(じつげつボール) 112
数える 116
<モリ>とは何だろう  拍谷栄市 121
後記 128



 数える

モリの木を数える癖は何時からのことか
癖と言うより誰ぞから科せられた気もするが
重荷に思っているわけではない

朝 目覚めると顔を洗うのもそこそこに
庭先から拡がるモリに脚を踏み入れ
一本 二本 四本 七本 と数える

高く伸びすぎた赤松 櫟 はしばみ はしごの木
タラ サッキ 去るひと 猿すべり
十三、十五 と 口に出しては
そろそろとモリの奥に踏み込む

脚もとの蔓や根っこにも気遣いながら
数えている時間が平常なのか
数える行為を平静と呼ぶべきか判らぬが

およそ十七、八キロも行くと
目は霞んで 同じものを三度もかぞえたり
折れた小枝の影も数の内に入れてしまう
声にだすことばも 呂律が回らなくなる
傍に誰かがいたとしても
四桁もの数字は聴きとれまい

この辺りになると
頭のなかで 数えてきたモリのすべてが
目のなかで揺らぎ滲んでいる樹々が
確乎としたモリの風景として認識できる
錯覚ともいえる一瞬がある

それがモリのどの辺りなのかよく判らないが
これがねらいだった気がして
今日はこれまでにしようと口にして引き返す

その位置は少しずつ違うが
周囲の光の具合などからして
おおよそ似たようなところだ

そこで これまでにしよう と
回らない呂律で呟いてから引き返す

毎朝のことで変わった健康法ですね とか
森林組合員らしいひとから何を思ったか
ごくろう様です
などと見当はずれのことを言われる

それだけのことだ
繰り返すが 重荷になっているわけでもない

 詩集タイトルの「<モリ>」には森という意味の他に、「序詩」には「
mement Mori <死を想え>」という言葉が出てきますから、その Mori の意味もあるのかもしれません。詩集にはその断りがありませんから、そこは読者が勝手にどうぞ、ということなのかもしれませんが…。
 紹介した作品は詩集の最後に置かれていました。第6連、7連がポイントのように思います。無意識の行動や当てのない旅で「これがねらいだった気が」することがありますけど、それと近い感覚を私は感じました。この作品の「モリの木」を、例えばヒトなどに譬えられるかもしれませんが、そこまで具体化する必要はないように思われます。この不思議な世界をそのまま鑑賞するのがベストでしょう。「重荷になっているわけでもない」という詩語も、読み手の姿勢として受け止めています。
 かなり難しい詩集ですが、構えないで林立人詩の世界をイメージしながら読むことが肝要だと感じました。なお、目次の「掴む」は原文では本字になっていましたが、表現できませんので略字にしています。ご了承ください。



CD『林立人・詩<モリ>を読む』
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2004.12 千葉県浦安市 Group VELA 発行 2000円

<目次>
1.Prologue (01:13)             2.Dialogue-1 Cello/Piano (01:04)
3.舟 (04:22)               4.手袋 (02:14)
5.Monologue-1 Cello (02:27)        6.結び目 (04:04)
7.三月 (02:44)              8.Dialogue-2 Cello/Piano (01:50)
9.指 (02:29)               10.Monologue-2 Cello (01:23)
11.水族館 (02:05)             12.Dialogue-3 Cello/Piano (01:53)
13.巻き尺 (02:04)             14.呼ぶ (04:45)
15.Monologue-3 Cello (02:05)        16.数える (03:06)
17.日月球 (03:50)             18.Dialogue-3 Cello/Piano (01:00)
19.モリヘ (03:32)
解説 モリの世界へ 岡野絵里子       告解(コンフェッション)としての詩と音楽 山本 護
Profile
音楽:詩集<モリ>に寄せるモノローグとダイアローグ
作曲/チェロ:山本 護           ピアノ:竹内亜紀



 
Prologue

背表紙に〈詩〉と記された薄い本を書棚から抜いた
intrare Mori〈モリヘ〉とあるからモリヘ向かう
車の中で開いたページは初めから終わりまで白いだけ
やがて電車が停まり皆につられるように歩きはじめる
人波に切れ目はないが誰もが押し黙ったまま同じ方に進む
肉置
(ししお)きの豊かな見知らぬおばさんが 火掻き棒を手にしたまま
「真っ直ぐだよ」心やすだてに声をかけるその合いの手のように
mement(メメント) Mori(モリ)〈死を想え〉羅甸まがいの念仏が聞こえたような

 上述の詩集『<モリ>』から著者が自選した作品を朗読し、今年3月の日本詩人クラブ例会においでいただいた山本護氏が作曲、チェロ演奏をするというCDです。CDにも自選詩は載せられていますが、私は詩集を手に何度も拝聴しました。著者の声、チェロ、ピアノが重層した素晴らしいCDです。
 紹介した詩作品は、詩集では「序詩」となっているものです。詩集、CDの「
Prologue」として申し分のない作品だと思います。「背表紙に〈詩〉と記された薄い本を書棚から抜い」て「モリヘ向かう」。文学の森、詩歌の森へと向かう詩人の姿を彷彿とさせます。もちろん避けては通れない「mement Mori」へも。著者の低音を聴きながらこの詩を読むと、背筋が伸びる思いをしました。機会があればぜひ聴いていただきたいCDです。



詩誌『六分儀』26号
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2006.5.11 東京都大田区・小柳氏方
グループ<六分儀>発行 800円

<目次>
樋口伸子 やり残した喧嘩は 1
鶴岡善久 谷津筆記*1 木下杢太郎の日記、植物画 4
古谷鏡子 鳥たちの食卓 10
小柳玲子 ポスター/キオスク 13
島 朝夫 Charles Peguy の作品と思想Y「シャルトル巡礼の詩」 16
夏目典子 モーリス・ラヴェルの家“ベルヴェデール” 25
林 立人 気配 28
小柳玲子/古谷鏡子 ゲーテ Goethe 32
表紙/林 立人



 やり残した喧嘩は/樋口伸子

やり残した喧嘩は
スペインでいたしましょう

延々と続く赤茶けた乾いた道の
ひまわり オリーブ コルク樫
うなだれては動かず根を張り
炎々とした空の下
絵葉書を出したわたしより
よく知っているひとがいた
なぜと問えば
「いつも夢のなかで行っている」

あの時やり残した喧嘩は
スペインでいたしましょう
いまといわれるなら少し待って
やかんのお湯がたぎるまで
湯気の向こうへ
抜け出していきますから
いまなら軽くなって
どこまでも

もうすぐ湯沸かしのふたが
カチッと鳴ったとき
わたしはもう乾いた白い道に

遙かな道を老いたロバに乗って
揺られてくるひとの影を
わたしが踏んだとき
それが始まりの合図です
でも お湯が沸くまでのあいだ
急いで行って帰らなくては
そうして入りくんだ日々の出口を
見つけなくては

「現実はあまりにも過ぎ去るものだよ
 夢は過ぎるが消えはしないよ」
夢の出口を閉ざしたままに
喧嘩をし残したままに
逝った国にも相手はいますか
そちらこそ ですって?
はい 最近はめっきり減って
むかしの自分と勝手にやっています

 「やり残した喧嘩は/スペインで」やる。しかも「やかんのお湯がたぎるまで」待たせ、「遙かな道を老いたロバに乗って/揺られてくるひとの影を/わたしが踏んだとき/それが始まりの合図」だと言うのですから、おもしろい作品です。でも、喧嘩相手は「喧嘩をし残したままに/逝っ」てしまっているんですね。だから「最近はめっきり」喧嘩も「減って/むかしの自分と勝手にやってい」るわけです。おもしろいけどちょっとシリアスで、そこが魅力の作品だと思いました。



詩誌『六分儀』27号
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2006.8.28 東京都大田区・小柳氏方
グループ<六分儀>発行 800円

<目次>
小柳玲子 夜明け 1
林 立人 こうもり 4
古谷鏡子 ものがたり 8
鶴岡善久 谷津筆記*2 ルオー、そして岸田劉生(1) 10
樋口伸子 ペコちゃんと親友 14
島 朝夫 供物−後日澤− 18
夏目典子 ル・マンのサン・ジュリアン大聖堂、そしてキリスト昇天のヴィトロー  22
表紙/林 立人



 こうもり/林 立人

(くぬぎ)も令法(りょうぶ)も 山うるしや ねじ木だって
地中の根っこが木らしく立たせている
と思うのは勘違い
育ちはじめの頃こそ 根は立つことに役立つが
少し伸びたところで出合う 見えはしないが
宙に浮かぶ無数の出っぱりに
身を寄せ 己を立てかけているのだ

森のみちをここまでやってきて
切符に行き先がないことに気付いた
たった今 発券磯から取り出したように
大仰な仕草で渡されたものだが
よく見ると段ボールをカード大に切っただけ
(寄り道無効)と小さな活字が読み取れる
よしんば行く先が表記されていたところで
それは地名ではないはず

とりあえずまた歩きはじめる
目の前をさえぎるように立つ櫟を避けて
身をのけぞらせた時 その先の木の根方に
黒いこうもり傘が立てかけられてあるのを見てしまった
ばね仕掛けで閉じたり開いたりする新式のものではない
ありふれた 日常のものだ
黒い布の大部が骨からはずれてしどけなく垂れ
半分ほどは寄り掛かった幹にペたりとへばりつき
すでに木の皮の一部になりかけている
骨と布をまとめるはずの紐状の帯は硬直して
小枝のつもりになっている

目の前の木を避けた瞬間見ただけだから
即断はできないがあれは
得体の知れない鳥の亡骸だと思うことにする

あれをこうもり傘と認めてしまうほど素直になれない

いま この 場を 歩いているということ
だれかがそこに 置いた ということ
置き去られた こうもり傘の愚直さや
無論 立てかけられた木の存念にも想いをいたさずにおけない

さやさやと遠くで聞こえていた小さな川の流れ
らしい音が聞こえなくなったと思ったら
遠かった流れが なぜか立ち止まった足許を濡らし始めている
と いぶかる暇もなく激しい流れのただ中に立っている
仰向いたまま大きな足をばたつかせ
おおい と叫んだかぶとむしもどきが
たちまち見えなくなった
膝あたりまできた流れから 思い切って片足を抜き
目の前の低い土手にのせて重心をかければ良いのだ
どっこい とかけ声を掛けるほどでも無いはずだが
足は 根でもはえたのか
動かない

何時のことだったか思い出せないが
こうもりは 私が そこに置き忘れたことを
チラと思う

 人間の意志、あるいは意思について具象化した作品のように思います。「得体の知れない鳥の亡骸だと思うことにする//あれをこうもり傘と認めてしまうほど素直になれない」という意志、「置き去られた こうもり傘の愚直さや/無論 立てかけられた木の存念にも想いをいたさずにおけない」という意思。しかも、その「立てかけられてある」「こうもりは 私が そこに置き忘れたことを/チラと思う」と言うのですから、作者内部での完結と見ることもできるでしょう。しかも「森のみちをここまでやって」来ること自体が「地名ではないはず」の場所へ向かう意志を感じます。これは小説やエッセイでは描けないなと思います。詩の立脚点を改めて教えていただいたように思った作品です。



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