きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
061022.JPG
2006.10.22 山梨県立美術館




2006.11.11(土)


 神楽坂エミールで日本詩人クラブの11月理事会・例会が開かれました。理事会からお伝えしなければならないことは、12月9日に池袋サンシャインで開催される国際交流の件です。返信用の葉書が他の書面と一緒だったので、気付かない人が多いようで、申込みがとても少ないです。ぜひご参加の葉書をお出しください。会員・会友外の方はもちろん葉書が無くてもOKです。当日、受付でお申込みください。私は当然参加していますので、この機会に村山と会ってやるかというお気持の方(^^; 大歓迎です。
 詳しくは
日本詩人クラブHPをご覧ください。

 例会の方は3人の会員による朗読と小スピーチのあと、上田周二会員による「日本詩人クラブ創設期の詩人たち・野田宇太郎」、ゲストの鼓直氏による「ロルカ詩集『ニューヨークの詩人』をめぐって」の講演がありました。野田宇太郎は愛知県の明治村の建設にも関わって常任理事となり、のちに明治村賞受けているんですね、知りませんでした。鼓先生は法政大学の名誉教授で、もちろんロルカの翻訳でも知られていますが、私たちにはガルシア・マルケスの詩集『百年の孤独』翻訳で有名かもしれません。百年の孤独≠ノするか孤独の百年≠ノするかで悩んだことなど面白くお話ししてくださいました。焼酎の「百年の孤独」も有名ですが、どうも先生の翻訳から盗ったようです。何も挨拶がないと憤慨しているところなど、可笑しかったです。

061111.JPG

 写真は会場風景。強い雨も降ったので入場者は少ないだろうなと踏んでいたのですが、70人ほどにお集まりいただいた驚いています。なかには8月の詩書画展においで下さった作家も見えて感激しました。私は写真を撮るのが忙しくて気つかずに、大変失礼なことをしたと思っています。今度は受付に頼んでおいて、私の知り合いが見えたら連絡してもらうようにしましょう。
 懇親会はいつもの「白木屋」へ。珍しく二次会、三次会と流れずに帰ってきました。ここのところ連日出歩いていて、さすがに疲れています。昨夜もだいぶ呑んだしなぁ。少しはトシを考えないといけませんね。



秋山公哉氏詩集『河西回廊』
hoshi kairo.JPG
2006.11.30 埼玉県桶川市 私家版 非売品

<目次>
 T 河西回廊
砂の音 8      大雁塔 10
兵馬俑 14      夜店 18
蘭州の火 22     河西回廊 26
烽火台 30      匈奴 34
風の街 安西 36   鳴沙山 40
 U 蒙古高原
ここでは 44     空と草原の間で 48
長い影 52      走らない 56
地平線 60
 V 玉門関
鳴沙山 66      洪水 68
烽火台 70      玉門関 72
陽関 76       楼蘭 78
 W 天山南道
長いお昼寝 84    風の道 88
故城の夏休み 92   交河故城  96
オアシスの灯り100
.  カシュガルのロバ 104
ウイグル人の村
 106
 あとがき 110    表紙写真:陽関跡にある烽火台



 烽火台

待ち続けていたものは
味方だったのか
敵だったのか

砂煙渺渺
地平線が空と砂を分かつあたりまで
点点と烽火台が続いている

砂の色に溶け込み
青も立てず
ただじっと待っている
傾いた陽の光を受け
長く伸びた影さえひっそりと
自らの存在を消そうとしている

いつもと同じ太陽と空の下で待って待って
いつかきっと
沈みかけた太陽を背に
金色に輝く地平に砂塵を巻き上げ
陽炎のように揺らめきながら
近付いて来るものがある

漢の部隊ならよし
もし匈奴だったら
十人くらいには一握りほどの短い束
五百人を超えるようなら
人の背を超える長い束を一抱え
干したウマゴヤシを燃やした烽火が
一条また一条と上がって行く

太く濃い烽火が上がった時
それは烽火台の任務達成
と同時に
自らの死の知らせ
息を殺して待ち続けることが
生きている証し
待ちつづけたものが現れた時
それは死の証し

 驚いたことに全て手製だそうです。カバーも帯もあって、添えられた紙でそのことを知りましたが、無線綴じもしっかりとしています。ところどころに自分で撮ったカラー写真もある立派な詩集です。私も20年ほど前に当時の16ビットのパソコンで手製詩集を造りましたが、それと比べると雲泥の差ですね。
 作品は過去に4回訪れた中国、モンゴルの紀行詩集です。「T 河西回廊」は1992年6月、「U 蒙古高原」は1999年8月、「V 玉門関」2002年7月、「W 天山南道」は2004年7月のアジア詩人会議でと年代順になっていました。紹介した作品は「T 河西回廊」の方の「烽火台」です。この最終連で「それは烽火台の任務達成/と同時に/自らの死の知らせ」というフレーズを見て初めて気付きました。死を賭しての「任務達成」だったのですね。作者はそれを現地で知ったのかどうか判りませんが、もし現地で考え至ったのだとしたら、この一言だけでも行った価値があると思います。私の旅行は国内専門ということもあって紀行詩は書かないのですが、こういう発見のある旅なら紀行詩も悪くはないなと思った作品です。



万里小路譲氏著
『詩というテキスト
【山形県詩人詩集論】
shi toiu text.JPG
2003.2.16 山形県上山市 書肆犀刊 2000円

<目次>
 夢綴り論あるいは目覚める権利●―伊藤啓子詩集『夢のひと』5
   まぼろし論あるいは虹談義●―佐藤登起夫詩集『虹ふたたび』23
   花芯論あるいは時との対峙●―近江真理詩集『日々の扉』39
  出発論あるいは疾走の不条理●―高橋英司詩集『出発』55
秋の日論あるいは天使たちの休日●―久野雅幸詩集『旋回』71
 落日論あるいはメルヘンと祈り●―日塔聰詩集『鶴の舞』93
夕焼け論あるいは眼球震盪の祈り●―菊地隆三詩集『転』『鴉のいる風景』『待つ姿のエスキス』『夕焼け 小焼け』113
    黄昏論あるいは秋の記憶●―川田信夫詩集『駅』135
     喪失論あるいは笛の音●―いとう柚子詩集『まよなかの笛』149
  憂国論あるいは愛国の不条理●―比暮蓼詩集『日本憂歌』163
   日常論あるいは不在の証明●―高橋英司詩集『日課』『青空』『カップラーメン/ほか』『一日の終わり』183
   宇宙論あるいは空との対峙●―近江正人詩集『羽化について』197
   形象論あるいは現存在の夢●―大滝安吉詩篇詩論集『純白の意志』215
    実存論あるいは風の記憶●―いとう柚子詩集『樹の声』229
あとがき 244
初出一覧 246



 今夜 車に積んでおくもの
 テント、親子三人のシュラフ、燃料、懐中電灯、食料は現地調達
 そして
 就寝前の母の薬に
 数滴………
 液体を落とすことも忘れない

 無味無臭
 透明の下剤

 一人で排便する力もなくなった母のために
 静まりかえった台所
 茶碗に液体を落とす
 毒を盛るかのように
 ひそやかに
 息をつめて

 留守の間の二日間
 介護する父の負担が
 少しでも軽くてすむように
 明日の朝になれば
 大量のものが排泄されているはず
 出発前に
 汚れた体を流してあげて
 下着やシーツを洗っていこう

 茶碗を差し出す私に
 無言で頭を下げる母
 娘のもくろみが
 数滴 混じっていることも知らずに
 素直に飲みほす
 甘えるようにもたれかかる母の重さが
 後ろめたく胸を刺す

 どうか
 頭なんか下げないで
 あなたの娘は
 こんな液体で
 あなたの体をコントロールしているのに

 波打ち際
 すんなり伸びた娘の肢体が眩しい
 砂の上に投げ出した手足が
 ゆっくりとほどけていく
 きらめく太陽も
 心地良い潮風も
 まっすぐには心に染みわたらなくて
 ただ
 頭を下げた母の姿が
 ゆらゆら と
 波の上で揺れている
             (「数滴の重み」全行)

 伊藤啓子(鶴岡市生まれ、一九五六〜)の第一詩集『夢のひと』(一九九三年八月/視点社)の冒頭を飾るこの「数滴の重み」には、著者が詩を書かねばならなかった動機が見て取れる。それは、繰り広げられるであろう作品群を予知してもいる。
 深層にある[母――自分(母の娘)――娘]という女系図が、詩の世界を満たしていることに注目しなければならない。母は寝たきりで介護を必要としている。そして彼女は、娘(著者)の意志にほぼ全的にコントロールされている。〈毒を盛る〉ほど息をつめるひそやかな営為の裏では、言うまでもなく介護の労苦が著者を日々、襲っているのだが、ここで重要なのはむしろ、母方の血統が推し進めている家族のありように対峠している著者の視線である。それは生という主題、あるいは生殖を継いでゆく女性(にょしょう)という主題と結びついている。
 閉ざされた部屋に寝ている母と、広がりゆく海の波打ち際で肢体を伸ばす娘。自己を軸として、母と娘はその存在を互いに際立たせている。作品の構成が前半と後半が対照となっているように、母と著者の娘は何と対照的なことか。母がいて己れがあったように、自分ゆえに娘がいる。生の連関を断ち切ることはできないというふうに[母――自分(母の娘)――娘]はこの世の空間に息づいている。著者に書くように仕向け、生きるように駆り立てたのは、他ならぬ己れの生へ返答を迫った何がしかの状況であろうことは容易に推察できる。
 介護のために仕事をやめ、夜中には二度も起きねばならぬような生活が十年にもわたって続くことの大変さは、想像してみるしかない。口のきけない痴呆症の母のそばにいて、ひとりの者ができることはそう多くはないだろう。たとえば、詩作である。題材は? 生活詩であるならば、選択肢はそう多くはないだろう。主題は、母と己れであり、ひいてはその血統を継いでゆく娘を巡るものとなるだろう。

----------------------

 拙HPは、日本の詩界には詩を書く人は多いけど詩を読む人は少ないのではないか、ならば私は送られてくる詩誌・詩集の読者になろう、というある意味傲慢な発想から始めたわけですが、世の中には同じようなことを考えている人もいるものだと感心したのが本著です。添えられた紙片には次のように書かれていました。

 「詩誌の同人として詩に関わって以来、逆説的なことですが、詩を、書く人はいても、読む人がいないのではないか、という思いにかちれてからずいぶん年月が経ちます。もちろん合評会などで書かれた作品は取り上げられます。しかし、形ある言葉として、つまり読んだことの結実として言葉で記されたものは、新聞紙上にときたま現れる依頼原稿を徐けば、数えるほどしかありません。詩に関わるそのような状況に唖然としたこと。それが、山形県内の詩人たちの詩集に向き合う執筆に向かわせたように記憶していよす。
 この評論集は、年間四本のペースで山形詩人(発行‥木村迪夫。編集‥高橋英司)に連載させていただいたものを、加筆訂正しながらまとめたものです。取り上げさせていただいた詩集は、山形県で発行された詩集のほんの一部です。一個人がカバーしうる能力には限界
があるゆえ、詩を読む営為が形ある言葉として定着し、いろいろな人によるさまざまな読みに触れる機会が増えることを、これを機に期待いたします。」

 紹介したのは最初に採り上げられた「伊藤啓子詩集『夢のひと』」の作品「数滴の重み」についての評論の一部分です。この前にほぼ2頁に渡って装丁の感想が書かれており、この後には更に「数滴の重み」論が続きます。他の詩集についてもそうですが、非常に丁寧に読み込んでいて、その誠実さには敬服しました。著名な詩人についての詩人論・詩集論は数多く存在しますけど、失礼ながら無名の、しかも山形県に限った詩集論は初めてではないかと思います。この詩集論に刺激されて、各都道府県別の本格的な詩集論が出てきたら、これは一大事件でしょうね。大事な仕事をなさっていたのだなと感心しています。著者のような人がもっと増えることが今の詩界には必要なことなのかもしれません



詩誌『展』68号
ten 68.JPG
2006.11 東京都杉並区
菊池敏子氏発行 非売品

<目次>
●河野明子:森の小鬼
●大家正志:河野明子詩集『鬼さん』を読む
●土井のりか:くじけないで幼いものたちよ
●山田隆昭:迷・惑/優しく透明な抒情
●菊池敏子:なかったことに…
●佐野千穂子:糸を抜く
●五十嵐順子:四阿山に登る
●名木田恵子:月灯り



 なかったことに…/菊池敏子

魚をおろす
背が青光りする秋鯖一匹 俎板に横たえ
砥石にかけた出刃を握り
わたしの手は高揚する

独りになって 胃は我儘になってしまった
うすっペらな一切れではなく
たまにはまるごと一匹を
自分自身に振舞えという
ならば と求めた秋鯖一匹
そのとき もう脳の食卓に
脂ののった塩焼き一皿
ほどよく温
(ぬく)めた「一の蔵」も載っていて

鰓蓋から腹までを切りひらき
刃先で内臓をとり除く
頭を落とし身をおろし
骨の固さ身の弾力を出刃にも食わせ
たちまちにして一匹解体

それにしても 俎板の上を修羅場にして
洗ってもしばらくは魚が匂う
この手 われながらけっこう怖い

で 夜遅い風呂上り
そんな手に きれいにマニキュアしたりして
あのような光景は
なかったことにしてやるのだ

 何度か書いていることですが、拙HPでは基本的に主宰者の作品は紹介しないようにしています。詩誌への返信は主宰者の作品への言及が多く、わざわざそれに輪をかけることもなかろうという思い、モノの判っている主宰者なら同人の作品に言及してもらった方が嬉しいはずだ、という独りよがりに起因します。
 そんな禁を破って紹介したい作品が「なかったことに…」です。女性の心理が見事に描かれていますが、実はこれ、女性に限らず誰もがやっている口ぬぐい≠ヨの批判なのではないでしょうか。あぁー、女ってしょうがねぇなあ、と思ったら大間違いなのです。作者は一見、しょうもない女の性癖を書いているように見せて、そう言うあんたはどうなの? と問いかけているのだと思います。笑った後にフッと己を振り返させられる、そいういう怖い詩だと私は思いました。



   back(11月の部屋へ戻る)

   
home