きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2006.10.22 山梨県立美術館 |
2006.11.12(日)
夜は四谷でライヴがあったのですが、行きませんでした。先週から連日のように出歩いていて、さすがに疲れました。奥野さん、ごめんなさい!
午前中はDIYセンターに行って電動丸ノコを買ってきました。電動の糸ノコは持っていますが使える範囲は限られてしまうし、もう30年近く前の物ですから、音は大きいけど切れない(^^; これからDIYが多くなるはずなので思い切って買いました。マキタの165mm、2万2000円。他に3200円の丸ノコ用定規。これで手動ノコギリからは解放です。
午後から早速使ってみましたけど、やはり速いし切れ味もバツグンです。ノコギリだと真っ直ぐ切るのは意外に難しいんですが、これは定規さえきちんと当てれば真っ直ぐに切ってくれます。ただし定規を固定するのが難しいかもしれませんね。私は先日買った作業台の固定治具を使って、定規と板の両方を押さえるようにしました。設定に時間が掛かるのが難点ですけど、仕上がりを考えたら無駄な時間ではないと思っています。
今日は材料のカットだけにして、組み立ては明日にしました。嫁さんから要求の強かったキャスター付きTV台を作ります。仕上がったら公開しましょう(^^;
○詩誌『あそ・ま』16集(終刊号) |
2006.11.19 埼玉県坂戸市 千木貢氏方 詩と思想・埼玉の会発行 非売品 |
<目次>
北畑光男/夜明け前 秩父困民党に…2 青木ミドリ/フセギ…6
大羽 節/玉ねぎ…10 沢村俊輔/片思い…13
志野原一也/リンゴの花のように…16 竹内輝彦/浮、足…19
千木 貢/足跡…22 二瓶 徹/幸福? それとも 不幸?…26
堀井裕子/塾帰り…29 昼間初美/いつかまた…32
向井 和/「アリ」…34 間中春枝/花壇の中で…36
*
さよならのMESSAGE…39 「詩と思想・埼玉の会」のあゆみ 45
会員住所録 38
受贈誌書 46
表紙・青木ミドリ
夜明け前 秩父村民党に/北畑光男
石ころ畑の傾斜地には
腕を切り落とされた桑の木たちが
寒そうに立っている
ところどころ刃のような霜柱が
土をもちあげているのが丸見えになっている
その霜柱を踏んで私はやってきた
空の狭い
石ころ畑の耕地である
平成の今でも江戸時代の辻札がそのまま立てられた山道を
私はやってきた
明治十七年十一月朔日
埼玉県秩父郡下吉田村椋神社境内に集まった農民は三千人以上ともいわれる
暗い土のなかをはしり集う水のように
日野沢 風布 石間 上影森と
寒い時代の山襞から人々は集まったのである
畏れおおくも
天朝さまに敵対する
畏れおおくも
天朝さまに敵対する
暗い時代のなかに生きなければならなかった農民は
土をもちあげる霜柱のようなコミューンを
夢みたのであるか
自由自治元年を夢みたのであるか
第一条 私ニ金円ヲ掠奪スル者ハ斬
第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
第四条 私ノ意恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
第五条 指揮官ノ命令ニ違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬 *
閉ざされた時代であればなおのこと
自らを厳しく律した彼らであったが
警官隊 軍隊に踏みつけられ
泥のように崩れていったのであったか
狭い空 勾配のきつい石ころの畑
腕を切り落とされた桑の木たち
霜柱のように美しい理想を思い
ひとり私はつぶやいてみる
オソレオオクモ
天朝サマニ………
このまま立ち去ろうとする
私の足うらには
どろどろになって崩れていった霜柱が
ぴたぴたとくっついてくる
死んだ農民たちが私を引きとめるかのように
ぴたぴたと足うらに重くくっついてくる
*困民党の軍律(原文のまま)
14年間続いてきた「詩と思想・埼玉の会」は、この『あそ・ま』16号をもって解散するとあとがきに書かれていました。ユニークな会で、この会で育って詩集を出し日本詩人クラブに入会してきた方もいらっしゃるように、実力のある会だけに残念です。しかし「さよならのMESSAGE」では卒業≠ニいう言葉も多く見られますから、巣立ち≠ニいう認識をすれば良いのかもしれません。皆様の今後のご活躍を祈念しております。
終刊号で紹介した詩は、会の創設者・北畑光男さんの作品です。指導的な立場にある詩人だけに、さすがに言葉の選び方には学ぶべきものがあります。「狭い空」には山塊を思い、「腕を切り落とされた桑の木たち」は腕を切り落とされた≠セろう「農民たち」を想像させます。最終連の「死んだ農民たちが私を引きとめるかのように/ぴたぴたと足うらに重くくっついてくる」というフレーズも佳いですね。歴史を歴史として追いやるのではなく、「平成の今」の「私」にぴったりと「くっつ」けていると思います。こういう視線で歴史を自分のものとする必要があるんだなと感じさせた作品です。
○評論集『現代詩事情』3号 |
2006.9.30 埼玉県坂戸市 千木貢氏方 詩と思想・埼玉の会発行 非売品 |
<掲載作品一覧>
井崎外枝子「風生」(鮫104号05年12月発行) 2
大西美千代「腐乱キリン」(詩集『てのひらをあてる』06年11月発行) 5
山本聖子「終り」(詩集『三年微笑』05年11月発行) 7
原田克子「青のこ」(詩集『シュールダンスをあなたと』05年12月発行) 10
関口将夫「みどり色の鹿」(東国131号05年11月発行) 12
吉田重子「インドの少女」(黄薔薇176号06年2月発行) 14
寺門仁「横たわる村」(詩集『玉すだれ』06年3月発行) 16
芳賀章内「ずれる(鮫105号06年3月発行) 18
米川征「下郷へ」(へにあすま31号06年3月発行) 21
岡崎葉「六月のシュプレヒコールが」(コールサック54号06年4月発行) 24
島村圭一「母語・方言による詩らしきもの2」(山形詩人53号06年5月発行) 26
西出新三郎「うさぎ」(詩集『家族の風景』06年6月発行) 28
坂東寿子「高橋」(花36号06牛5月発行) 32
川島洋「父のチョコレート」(光芒67号06年6月発行) 34
野澤睦子「歩道橋」(木偶06年6月発行) 36
野澤睦子「歩道橋」(木偶65号06年6月発行)
「雨の降りしきる夜、長い歩道橋の階段を一人で駆けあがつている。歩いても歩いても向こうの通りまで
行きつけない。果てしなく長いのだ。」こんな出だしで始まる拙い小説を書いたのはずいぶん前のことだ。
しばらく沈黙の後の食事会は、話に華も咲いたが寂しさを抱えたまま時間切れとなり、あっけない解散だ
った。二十年近く続いた綴り方教室の帰り、小さな画廊の個展を見た。風景の点描画の大小の作品に、さ
さくれぎみの心が少しなごんだ気にもなっていた
人気のない画廊を出ると霧雨になっていた。駅の北口へ続く歩道橋の階段を上り始めた。その時、中央の
あたりで横顔をこちらに見せ、遠くを眺めている男の姿が目に入った。こんな所を彼はいつも通っている
のだろうか。顔を歪めた小走りの若い女。勤務を終えたらしい老齢の男。広がって嬌声をあげる女子高校
生の間に見え隠れしている。
男はしばらくてすりにあった両手を離すと、ゆっくりとこちらに向かって歩いて来た。雨に湿って身体の
線が揺れている男に見覚えがある。わたしは思わず傘を深く前に倒し、すぐ横を通り過ぎて行く男の後ろ
姿を見送っていた。確かに彼の背中に違いなかった。歩道橋を渡りきって消えて行く背中。その背中の熱
さとわたしのなかの一部が触れて大きく高鳴っていた。
今、男が遠くを見ようとしていたものを、なぞるように同じ方向を見ていた。しかし、すっかり雨が濃く
なり、あたりは霞んでしまっていた。何故、わたしは平然と歩道橋を渡りきれなかったのか。あの小説の
結論を急いだのはわたしのせいであり、たったいましがたあのなかの男が本当の結論を教えてくれたよう
なものだ。
この詩は、詩としてよい作品なのか、といえば首を捻らざるを得ない。私が目をとめた理由はただひとつ、まかりまちがえば通俗小説になってしまうところで、あやうく踏みとどまっている、その際どさに惹かれたからだ。小説の一文と雨の中の男との結びつけ方は、作品として強引だろう。短絡的といえるかもしれない。そうして「本当の結論」のゆくえだって、謎に満ちているという訳でもないだろう。だから、単純に辻褄合わせをすれば、たちまち通俗的になってしまう。だが、作者は辻褄を合わせるふりをして、実際にはちっとも辻褄合わせなどしていないというふうに私には見える。「果てしなく長い」と「男の背」、「霧雨」と「歩道橋」、作者は舞台を設定したにすぎない。通俗映画のような舞台を。そうしてどちらかといえば、物語を読む人の通俗性にまかせて、作者自身は物語を展開しようなどとはしないで、そのなりゆきを愉しんでいる気配すらある。私が惹かれるのは、多分作者のその位置どりなのだ。
作者が作品と向かい合うその位置、その距離、表現の魅力の一端はそのバランスのとりかたにもある。
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この評論集が出たのが9月。その後11月に出た『あそ・ま』16集で「詩と思想・埼玉の会」の解散が決定されていますから、「詩と思想・埼玉の会」のためのこの評論集も今号が終刊だろうと思います。教わることの多い評論集だっただけに残念です。
紹介したのは私も拝読した『木偶』65号の作品についての評論ですが、さすがです。「作者が作品と向かい合うその位置、その距離、表現の魅力の一端はそのバランスのとりかたにもある」という言葉は名言で、作品論を書く上では貴重です。こういう「バランスのと」れた視点がないと書けないものでしょうし、独りよがりになってしまうと思います。拙HPは評論ではなく、単なる読書感想文の域を出ていませんが、それでもこの視点は大事だと気付かされました。今後も心していただいた本を読むようにしていきます。
○館報『詩歌の森』48号 |
2006.11.11 岩手県北上市 日本現代詩歌文学館発行 非売品 |
<目次>
思い出すことども/後藤昌次郎 1
文学館活動時評14 近藤芳美展の成果/櫻井登世子 2
詩との出会い15 詩歌との出会い?/田野倉康一 2
連載 現代のこどもの俳句4いいものみっけ=^小島千架子 3
連載 現代短歌展望3 宮沢賢治歌集、その他/佐藤通雅 4
資料情報 詩歌関係の文学賞 5
詩歌文学館賞選考委員決定 各種講座開講 6
日本現代詩歌文学館振興会評議員動向 日録 後記 7
私の短歌展望は、今回でおわる。そこでさいごに、総体にかかわる問題点についてふれておきたい。音楽家を比喩にすれば、現代はモーツァルトの時代だ。ベートーベンの重さ、暗さがうっとうしい時代だ。自分も、モーツァルトを聴くことが多い。耳にやさしく、舌ざわりもよく、ベートーベンのような暗鬱な表情もしていない。つまり聴覚・味覚・視覚とも、時代感覚にあっている。短歌の世界もまた、モーツァルト的な作風に人気が集中している。そんななかにいて、ときとしてわれにかえる。時代感覚に身をゆだねているうちに、内部に空洞がひろがり、ある日ドスンと地盤沈下してしまうのではないか――。
そんな怖れを自覚しはじめていたときに、岡野弘彦『バグダッド燃ゆ』をよんだ。頬をひっぱたかれた思いがした。岡野は一九二四年生まれ。若くして戦争にまともに遭遇した世代だ。八十歳をこえたいま、死者たちへの思いは、淡白になるどころか、天へそそりたつ炎のようであり、身を切り裂く刃のようである。
・かかる世に替へし われらの命かと 老いざる死者の声 怨みいふ
私は、息をのむ。戦後を生きのび、「あのことはなかった」ことにして平穏をむさぼる人間の多いなかで、岡野は死者たちの声をまともに聴く。「旋頭歌 若葉の霊」からも一首ひく。
・一途なる 思ひのこして 果てゆきにけり いつの世も 若きいのちは あざむかれ死す
まさに、過去も現在もあざむかれて死ぬのは、若い命ではないか。
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短歌は門外漢ですが、あえて佐藤通雅氏「連載 現代短歌展望3 宮沢賢治歌集、その他」の一部を紹介してみました。私もまさに「頬をひっぱたかれた思いがし」ています。「『あのことはなかった』ことにして平穏をむさぼる」私たち。これは短歌に限らず詩の世界でも同じではないでしょうか。「過去も現在もあざむかれて死ぬのは、若い命で」あることが判っていながら、何もできない、何もしない私たちへ「八十歳をこえた」歌人の「怨み」を見る思いです。そこには短歌・俳句・詩というジャンル分けはありません。考えさせられた論考です。
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