きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2006.11.04 仙台市内 |
2006.12.10(日)
何も予定のない日曜日。昨日の「国際交流の集い」の疲れが残っているのか、昼間ウトウトとしましたが、終日いただいた本を読んで過ごしました。
○三田洋氏詩集『デジタルの少年』 |
2006.11.30 東京都新宿区 思潮社刊 2200円+税 |
<目次>
校門の眼
疾走 8 校門の眼 10
Jくんの季節 13 デジタルの少年 16
Jくんのサイン 18 化粧 20
さらばアインシュタイン――現代申命記 22 否認 24
爆弾を落としているのは私だ 26
脚
いたみ 30 シュート 32
脚 34 水滴 37
路地 40 鳥――日記抄から 42
かなしみ 44 掬う 46
洗面台 48 さすらい――夢の地層 1 50
肩をならべて――夢の地層 2 52 前方――夢の地層 3 54
位置 56 管の伝説 58
馬事公苑
馬事公苑―― must by Ayu 62 野をよこに 65
指の海 68 階段の海 71
風のかんむり――K・Fさんへ 73 美しき次元 76
不幸 79
作詞集 わたしはだぁれ
紙飛行機 82 片恋 83
戦場のこどもたち 85 わたしはだぁれ 87
鳥 89 おかあさんでいっぱい 90
あとがき 94 装幀=思潮社装幀室
デジタルの少年
0か1で育てられる
それが時代の要請だから
みんなみごとに美形だ
汗や臭いなど発しない
登校か拒否か
キレるか日常か
過程や猶予など存在しない
殺か生か
それがぼくたちの美学だ
外界はいま春に向かっている
繊細な季節感が育てる豊かな感性
寒さに耐える蕾たちは
匂いたつ花弁を約束される
この歳月のことわりを
くりかえし伝える風土のぬくもり
そんな場所からはるかに遠く
今朝もぼくらは0か1のうえに立つ
その洗練された指で
素早くキイを押せ
単独の詩集としては10年ぶりの刊行だそうです。しかし、その間にエッセイ集や選詩集、英文詩集をコンスタントに出していますから、やることはちゃんとやっていたと云えましょうね。
紹介した作品はタイトルポエムです。世はまさに「デジタル」時代。1970年代の最初期の1チップボードコンピュータから関わってきた私にはちょっと耳が痛い作品ですが、デジタル世代にも使う人種と使われる人種があるんだと、ある意味、開き直って受け止めました。
開き直ったついでに書かせていただくと、一般的に言われているようにデジタルは決して「0か1」ではありません。電圧の1Vが0で、5Vが1になります。この差をスイッチングすることで0、1を作り出すわけです。しかも、必ずしも1Vではなく0.9Vであったり1.1Vであったりします。5Vも同様で、4.9Vや5.1Vであったりします。この微妙ないいかげさが私には魅力です。
ただ、それは技術屋には必要な知識であっても、一般的には無関係でしょうね。この作品のように「みんなみごとに美形」で「汗や臭いなど発しない」ことの問題点も大きくなっていますから、詩人はそこを突く必要があるだろうと思います。「殺か生か」まで行ってしまったことは「0か1」の派生と著者は捉えているようで、それを完全に否定できないもどかしさを感じます。退職したとはいえ、技術屋の端くれとしては考えさせられた詩集です。
○詩誌『左庭』7号 |
2006.11.20
京都市右京区 山口賀代子氏発行 500円 |
<目次>
詩
吾亦紅(ワレモコウ)/山口賀代子…2 不思議の国/山口賀代子…4
硝子の支柱/堀江沙オリ…6 閉鎖病棟の少年たち・皮膚寄生虫妄想/堀江紗オリ…8
俳句
ある若き刑務官の転勤/江里昭彦…10
散文
帰郷の準備/江里昭彦…12
【さていのうと】
・近況報告のようなもの/堀江紗オリ…15 ・強いられた闇の中の考察/江里昭彦…16
・車いすの女(ひと)/山口賀代子…17
つれづれ…18 表紙画…森田道子「花束」
吾亦紅(ワレモコウ)/山口賀代子
われもこふ
「吾亦恋」というタイトルの漫画を読んだことがある
あらすじも作者も掲載されていた雑誌も忘れているのに
「吾亦恋」という言葉だけが記憶にのこっている
「われも恋ふ われも恋ふ」とつぶやきながら
まだみたことのない花に想いをたくしていたころのこと
花やの店内ではじめてみたその花は
がまの穂をちいさくしたようなかたちして
赤紫の粒状のものがしっかりとかたまりその濃いかたまりが
吾もまた紅い花であると主張している
花弁にもみえる濃い紫のかたまりが萼であること
ちいさな花穂が夏のころから咲き始めること
バラ科の多年草であること
吾木香とも書くこと
この花に惹かれるたくさんのひとがいること
わたしもそのひとりであること
ひさしぶりにみた吾亦紅
テレビの画面のなかでその花はまわりに芒をしたがえて
生き生きとちいさな赤紫のすがたを咲かせていた
箱根仙石原の湿生花園 この夏たずねた道なのに
蕾にきがつかないほど「恋ふ」ことから遠ざかっているそのことに
吾亦紅とつぶやいてみる
最終連の「蕾にきがつかないほど『恋ふ』ことから遠ざかっているそのことに」というフレーズに惹かれました。作者とはお会いしたことはありませんけど、いただいたお手紙などで私と同年代であることが判っていますから、余計にこのフレーズの重みを感じます。「恋ふ」という感覚から年々「遠ざかっている」ことを気付かされました。「恋ふ」ことが人生の目的ではありませんし、遠ざかることで得たものも多いと思いますので一概には言えませんが、それでも一種の寂しさを感じます。おそらくもっと若くても、もっと年配になっても駄目、今の私たちの年代だから感じることなのかもしれません。それはそれで大事にしようと思った作品です。
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