きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2006.11.09 表参道「Gallery Concept21」




2007.1.2(火)


 昨日は酔いつぶれて寝てしまいましたので、今日は気合を入れて年賀状を書きました。一気に200枚ほどをプリントアウトして、宛名とコメントは手書きにしましたから、相当疲れましたね。でも、今年最初の、最大の仕事が終わって気分は爽やかです。本当は暮のうちにちゃんと準備をすれば良いのでしょうが、なかなかそこまで手が回りません。皆様のお手元に汚い字で届くのは数日あとと思いますが、どうぞご海容ください。



大家正志氏詩集『空虚な空間』
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2006.3.25 高知県高知市 ふたば工房刊 2000円+税

<目次>
火星で孤独を克服する方法 4        引力 10
境界 14                  こんな宇宙にぼくらはひっそりと暮らしている 18
うまく説明できない 26           死んだ猫 30
サマータイム 34              その死体の責任はぼくにある 42
暑い夏 46                 秋になると 50
かるい心臓 56               飛蚊症 60
家へ帰れない 66              ジョン・コルトレーンを聴きながら 74
オオデくんの店で 82            ぼくの脳髄に浮かんでいる島は 90
板の上 94                 腕 98
樹木に耳をあてれば 100

On ne voit bien qu'avec le coeur.L'essentiel est invisible pour les yeux. 102
エヴェレット解釈(文化系のための量子力学的世界像) 110
百万分の二・六八秒 116           物質は原子でできている 124
宇宙が爆発する 130
絵*国吉晶子



 物質は原子でできている

原子の直径は一メートルの一〇億分の三
なんていわれても
想像できる人が何人いるだろう
おまけに
その原子のなかには原子核というものがあって
原子核の直径は原子の一万分の一でしかない
なんていわれると
ああそうですか
と笑いながらも受けいれるしかないが
ここから先がまた大変で
原子の重さは一万分の一でしかない原子核の重さだ
といわれると
一万分の一の原子核が
原子の重さのすべてを引き受けていることになる
原子の中の一万分の九九九九の空間は重さすらない
そう
原子は一万分の九九九九の空虚に充たされている
(だれがそんなものを量ったのだろう?)

だとしたら
その原子の集合体であるぼくのからだは
無用な重さを耐えているとばかりおもっていたが
ほんとうは
空虚な原子の集合体でしかなく
ぼくの肉体の一万分の九九九九は空虚な空間に充たされている

なんてことはない
ぼくの存在なんて見かけ倒しで
からっぽ
あくびもでない午後である

自分に失望する
ということがある
それほど自分を過大評価しているとはおもわないが
なにかの瞬間に
自分にすっぽり失望してしまって
あくびもでない午後を過ごすことがある
その
失望の量が
もしかしたら
一万分の九九九九というのだろうか

それを知ったあとでは
納得できることのおおいことだが
型通りの自分を生きているという錯誤は
一万分の九九九九という観念的な量
を食いつないでここまで生きてこられたような気がするが
それを知ったいま
皮膚の細胞筋肉の細胞骨の細胞で消化しきれない
一万分の九九九九の空虚が
脳の中の電気信号や磁力にちょっかいを出しはじめている図を
想像するだけで
あくびもでない午後から逃れられなくなってしまうが
極力
悪いことは考えないで
一万分の九九九九の空虚を
原子に感づかれられないうちに
初恋の思い出のように海に流せないだろうか

こころの空虚は人間の世界では
ほろ苦く甘酸っぱいものだが
原子の空虚も
おなじ匂いがするだろうか
宇宙の歴史のほろ苦く甘酸っぱい記憶とともに
一万分の九九九九は
ぼくのからだのなかで
ぼくらは常に充たされているというささやかなよりどころを
初恋の思い出なみに笑いとばして
勤勉な思春期を用意しようとしているような気がするが
ぼくは
もう
老年期を迎えつつあって
思春期の空虚さを耐えられそうもない

それに
一万分の九九九九の空虚なんて
この年になって信じるわけにはいかない
気もすこしはあるが
ぼくのからだは原子でできている罠から
解き放たれそうもない

あくびもでない午後である

 詩集タイトルの「空虚な空間」という作品はなく、紹介した詩の「ぼくの肉体の一万分の九九九九は空虚な空間に充たされている」というフレーズから採っていると思われます。そこから「ぼくの存在なんて見かけ倒しで/からっぽ」と繋がっていくわけですが、この発想はおもしろいですね。この作品に限らず他の作品もそうなんですが、宇宙論を含めた物理の世界から「なにかの瞬間に/自分にすっぽり失望してしまって/あくびもでない午後を過ごすことがある/その/失望の量が/もしかしたら/一万分の九九九九というのだろうか」と人間の世界へと飛んでいきます。そこが魅力の詩集です。乾いた抒情と謂うのでしょうか、現代を感じさせる作品であり、詩集だと思います。著者はおそらく私と同年代。共感する作品が多い詩集でした。

 なお本詩集の目次は縦書きの行末揃えとなっていましたが、携帯電話でHPを見ることも考慮して横書き左詰めとしてあります。ご了承ください。



詩誌『不羈』32号
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2007.1.15 北海道帯広市
堀内氏方・不羈の会発行 800円

<目次>
詩作品
ありや なしや/堀内靖夫 3        売買/植田理佳 4
そのとき緋牡丹博徒は傘をさして/小杉元一 14 一瞬のコスモス/斉藤征義 18
いなくなった/及川 博 21         艶歌/堀内靖夫 26
黄色の一部/城 和彦 30          の、欠けた部分/城 和彦 32
エッセー クサボケ/及川 博 34
(寄稿)俳句 だぶだぶの背広/山陰 進 36
(寄稿)短歌 ゆき ふるる/小柴節子 40
詩論 シャーマンの言葉 植田理佳詩集「0」について/武内 哲 42
漫画 信号/植田理佳 47
(寄稿)評論 <翠>断想−見果てぬ、その涯へ−/田中厚一 48
小説 ハンカチ 「日傘」その2/武内 哲 57
評論 ルールの内と外−行為そして詩について−/辻村純生 66
同人住所録 74  編集後記 74



 一瞬のコスモス/斉藤征義

けれども母はふりむかなかった
掌のなかで牛乳がさめていく
ぼくは叫ぶのをやめた

プラットホームの暗がりに消えた母が
その場所に見えるはずはない
炭山行きの汽車の窓から
もうきっと帰ることのない家への道をのぞく
もうまもなく
倉庫と倉庫の間の道の そのむこうの坂の下の
材木置場のかげの 二階建の家のその下の

汽車は傾き 装置は沈み
レールの軋みに聞こえる幻もない
炙り出しの紙は透明にちぎれ
なつかしい勾配にく蜘蛛
その一瞬が過ぎるなら

もらわれていく星は別の名まえになるのだろうか
いま 斜光は雪虫につつまれ
薄眼のなかに踏切りにかかり

もらわれていく星に連なる光はないのだろうか
連なるものはすべて素速く駆けていき
ぼくは息が苦しく

もしあともどりをすれば切符に行く末はなく
窓に眼をつむれば生まれた血のひびきも消える
腕の縁から 重い頭のなかを走る汽車
汽車は みんなをおなじところへ運ぶというのに
ひとりだけ違う方向へつれていこうとする

そういえば母には顔がなく
金切声の影が化粧臭く
金切声をあげて斜光は大きく曲がり
ふいに信号が倒れかかる
その一瞬が過ぎるなら

けれどもぼくは眼を閉じ
いっそうきつく閉じ
ぼくの粒子がうづくまって 煤だらけになり
冷たくふるえる波動のなかに
車窓いっぱいにゆれる
コスモスの光彩をみる
母の耳を誰かが嘗めている

 「母」との離別を描いていると思います。「もらわれていく星」は「ぼく」と読み取りました。「あともどり」できない状態を「切符に行く末はなく」としているところは見事です。「汽車は みんなをおなじところへ運ぶというのに」「ぼく」「ひとりだけ違う方向へつれていこうとする」焦燥感を「一瞬」の「コスモスの光彩」と表出させているのでしょうか。詩作品ですから事実かどうかは関係ありませんけど、「もらわれていく星」を体験した私にはよく理解できる作品です。同じようなことを書いてきましたが、この作品のように芸術性高く仕上げることはできませんでした。今後も何度か読み返して勉強させていただきます。



詩誌『弦』37号
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2007.1.1 札幌市白石区
渡辺宗子氏発行 非売品

<目次>
論理と情緒3 「祖国とは国語」/畑野信太郎
水琴の邑V/渡辺宗子
鍵老人のマザーグース(十二)/渡辺宗子
童話のほとり1 源泉を尋ねて/渡辺宗子



 水琴の邑V/渡辺宗子

水の琴韻を尋ねて
どこまで行けるだろう
風埃にまみれた耳の
節のない盲目
くねくね 曲りながら
溶けた輪郭の
暗い闇の回廊
樹木の根にすがる虫の
生ぐさい息か
永劫の血のしたたりか
人稱のない影たちの
琴弦のさわり
知りつくした里の気配がする
姿を闇にして
手を延してくるもの

獣に 神に 人に変じる
奇異な響きの伝達
地獄の呻き声だ
悔恨の木霊なのか
水晶の鈴音か と欹てた耳を削いで
真昼の一隅を翳らせる

手の届きそうな幻想の距離
不条理な幾多の苦悶
地に遺した言質の
最期の肉声
人の重なり累がる時間の亡霊
確かな耳であるなら
涸れ井戸の迪の未に
敗亡と残骸を物語る
死を生きる者の叙事詩
麗しくあろうものか
振り返り見てはならぬ死者の
怨念の転身

時代 時代を折れ曲がりした平穏
電子音のデジタル表示の
肉声を絶たれた非情な亡骸
幽い声のしずくになる
洞窟の迷路に到達のないまま
「水琴の邑」を尋ねる
獣性の耳
巫女の語りを啜るだろう

 連作「水琴の邑」もVまで来ました。今回は「水琴」を「地獄の呻き声」と考えてよさそうです。刻は「真昼」であるが「翳」りのある状態。何やら現代の喩かと思いましたら、やはり「電子音のデジタル表示の/肉声を絶たれた非情な亡骸」とありました。「水の琴韻」と、この「電子音」対比が現代を象徴していると思います。「涸れ井戸の迪の未に」ある「水琴の邑」は、私の街でありあなたの街なのかもしれません。これからどう展開していくか楽しみな作品です。



詩とエッセイ『想像』115号
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2007.1.1 神奈川県鎌倉市
羽生氏方・想像発行所 100円

<目次>
ごくらくとんぼ 1
特集『日本海流』と転向−大江満雄論(2)…羽生康二 2
ゲストスピーカー…羽生槙子 8
通信教育…羽生槙子 11
詩「夕立ち」ほか…羽生槙子 14
花・野菜日記06年11月…16
あとがき 17



 夕立ち/羽生槙子

今年の夏の 庭のクモの多いこと
庭に出ると クモの巣に引っかかる
まず顔が クモの糸に引っかかる

雨になる と思って
クモの巣に引っかかりながら ブルーベリーを摘み
部屋に入って
何だかまだクモの糸がざわざわする感じ と思ったら
たぶん頭から袖へ たぶん袖から腕へ
そして腕から
三十センチほど糸を垂らして クモがぶら下がった
わたしのまわりに巣を張る気? って思うけど
そうっと糸のままぶら下げて
ゆらゆら 少しダダをこねているらしいクモを
外へほうり出した
夕方 沛然と降る夕立

で 次の日
相変わらず クモの糸に引っかかり 引っかかり
ゆらゆら庭を歩いて部屋に入った夕方
突然 わたしのほっペたを何本もの足で走り降りて
あごから糸でぶら下がったかなり大きいクモ
わたし? 驚きましたよ

  ちょっとつけ加えると 今年は向かいの家の庭にも
  クモがたくさんいるそうです

 たしかに昨年の夏は蜘蛛が多かったかもしれませんね。私も何度か庭で「クモの糸に引っか」ったことがあります。家の中にも2〜3匹いたようですが、いつも通り住み着いてもらいました。蜘蛛が居ると虫の寄りが少ないようです。
 「わたしのまわりに巣を張る気?」というフレーズがおもしろいと思います。人間も蜘蛛も同じ地球の生物。必要がなければ殺生するに及びません。「そうっと糸のままぶら下げて」「外へほうり出」すだけでよいのです。作者のやさしい心根が表出した作品だと思いました。



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