きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2006.11.09 表参道「Gallery Concept21」 |
2007.1.10(水)
西さがみ文芸愛好会の事務局次長・菅野正人さんのエッセイ集『こころの散歩道』出版祝いを兼ねた新年会が、小田原「ようげつ」で開かれました。集まったのは運営委員だけという限定でしたから12名ほどの小人数でしたけど、なごやかな良い会になりました。昼食を摂りながら、お酒はビールだけでちょっと物足りない感じでしたが、まぁ、昼間からグデングデンに酔っ払うのもナンだし、適正なところだったもしれません。
暮に出版した拙詩集は、今回のメンバーの何人かには贈呈していましたけど、全員ではないのでちょっと肩身の狭い思いをしました。集まるのは運営委員だけと判っているのですから事前に贈呈しておけば良かったんですけどね、、、なかなか。
昼間の会ですから帰宅したのは15時半頃。夕方までゆっくり昼寝してHP更新に取り掛かりました。ようやく実際の日に追いついています。このペースを守りたいですね。
○個人詩誌『PoToRi』4号 |
2007.1.5 和歌山県岩出市 ランニング社・武西良和氏発行 300円 |
<目次>
表紙の絵について…1
詩作品
鳩…2 小鳥…3
鳥たちの朝…4 鷺…5
鳥の眼…6 秋空の言語…7
ヒヨドリ…8 カラス…9
鳥の翼…10 すずめ…11
ポトリエッセイ(7)(8)…12
ポトリの本棚(7)(8)…13
4号特集「鳥」について 14
受贈詩集・詩誌等…15
鳥たちの朝
学校に着くと
鳥たちの
声が枝にひっかかっている
特に秋から
冬にかけて声は
引っかかりやすいのだ
葉が落ち
枝が見えやすいから
鳩の声やカラスの声
スズメの小さな声
キジの声までが
カタカナで引っかかっている
秋の終わりの頃
多くの声が木に引っかかっている朝
子どもたちが登校し
運動場に走り出て
サッカーや野球
一輪車や竹馬
ドッジボールで元気な声が走り回っている
木に掛かっている鳥たちの声は
びっくりしてハラハラと
落ちていく
落ちてなお子どもたちの声の勢いに
翻されていく
鳥たちの声は
ひらがなになろうとして
ぐにゃぐにゃにまがったのや
切れかかって
枝に引っかかっている
声は文字を意識したときすでに
崩れかかり
歪み始めている
子どもたちの声も
文字になろうとして飛び跳ねているが
その声はカタカナに近く
鳥たちの声に近く
古い文字はプスプスと音をたてて
切れていく
鳩の鳴く
半濁音
ヒヨドリの
濁音
スズメの破擦音
木に掛かるとすぐにポロポロと
落ちていく
枯れ葉の上に
今号は「鳥」の特集で、その中から「鳥たちの朝」を紹介してみました。「鳥たちの/声が枝にひっかかっている」という情景も佳いのですが、それが「カタカナで引っかかってい」たり、「ひらがなになろうとして/ぐにゃぐにゃにまがったのや/切れかかって」いたりするというのがさらに佳いですね。「子どもたちの声も/文字になろうとして飛び跳ねているが/その声はカタカナに近く」というのは、確かに子供の声で納得します。「声は文字を意識したときすでに/崩れかかり/歪み始めている」のは文字の限界を感じさせます。「古い文字」は消えていく言葉と採れますけど、我々大人のことを指しているとも採れましょう。鳥と子供、そして言葉が巧みに重層された佳品だと思いました。
○文芸誌『兆』132号 |
2006.10.28 高知県高知市 林嗣夫氏方・兆同人発行 非売品 |
<目次>
オサヒト覚え書・十一−官と賊…石川逸子 1
筏(ほか)…山本泰生 36
秋の日の帰り道…増田耕三 43
クモ…大ア千明 46
羽根蹴り(ほか)…清岳こう 49
たっすい…小松弘愛 52
日常の裂けめより−わたしの場合…林 嗣夫 56
詩とは何か−後記にかえて…林 嗣夫 65
<表紙題字>小野美和
秋の日の帰り道/増田耕三
――笑蓉よ覚えているかい桃色吐息
この俳句ともいえない句は
所属している同人誌『兆』の
夏の合宿で行われる句会・歌会で
何年か前に発表したものである
汽車から降りて
自転車で土手道を帰る途中
猛々しい秋の草の中に
幼木ともいえる芙蓉の木があり
若々しい桃色の花を
六つ七つほどつけているのを見つけたが
花を過ぎて間もなく
さきほどの
俳句ともいえない句が蘇った
魚屋までもどると向かいの山際には
萩の花
そしてもう少し行くと
古風な郵便ポストが
真新しく塗り変えられて
真っ赤な顔で立っているのを通り過ぎ
やがて
公会堂までもどると
そばの空き地には
たくさんの彼岸花が咲き乱れていて
空には秋の風が渡っている
頚の傷みを抱えた私は
ほうほうのていで我が家にたどりつき
ハナミズキの
赤い実にしばしみとれる
もう八年になるが
頚椎の椎間板がはみ出して
骨と骨とが近づき合った分だけ
神経が圧迫されて
悲鳴を上げたり
火の手が上がる
すると
感情が乱れ思考が混濁する
私は傷んだ身体とともに
秋や春や夏の道を帰ってくるが
交わるように
帰る者の無い道が
幾筋かつづいていることに気がつく
私の隣の席は
長いあいだ空席のままである
『兆』のよき読者でもあった彼は
この春に
帰り際
席を立つ私に
合わせるように
立ち上がる者の気配
秋の日の帰り道に
そのような人物が一人
紛れ込んでも
許される気がする
私が痛みで記憶しているのは30年ほど前に骨折したときで、そのときは「悲鳴を上げたり」しましたけど「火の手が上がる」という表現までには至りませんでした。当時も詩らしきものを書いていたなら、このくらいの表現は出来なくてはなぁと今更ながら思います。最終連も佳いですね。妖気とまで言うには気が引けますが、「秋の日」にはそんな不思議な気配があるものなのです。そこを捉えた作品に初めて出逢ったように思います。前半、中盤に比べての後半4連の展開、構成上も佳品だと思いました。
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