きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2007.1.26 小田原「アオキ画廊」 |
2007.2.15(木)
日本ペンクラブの2月例会があり、その前に東京都現代美術館に行ってみました。「中村宏|図画事件1953-2007」の招待券が入ったので、お前も連れて行ってやろうと誘われたものです。写真は美術館のエントランス部分ですが、さすが現代美術≠ニ銘打つだけあって斬新なデザインでした。ちょうど私が行ったときは近所に火事があったらしく、消防車がワンワンと美術館の前の道路を走っていました。写真中ほどの上部に白いものが見えると思いますけど、これは東京消防庁のヘリです。ホバリングして消火の指示でも出していたのでしょう。これも現代≠ニ、妙に感心しました。
もうひとつ感心したのは、走り去る消防自動車の中にウニモグがあったことです。ベンツの四輪駆動車で、日本では数台しかないと思います。さすがは東京消防庁、、、でも、都内で必要かぁ(^^;
中村宏という作家は知りませんでしたから、あまり期待していなかったのですが、これが大当たり。1950年代、60年代の砂川闘争、安保闘争などを描いており、その後の赤の時代、少女を描いた時代も圧巻でした。1969年には「現代詩手帖」の表紙を1年間飾っていましたからご存知の方も多いかもしれませんね。観る時間が1時間ほどしか無かったのは大失敗。2時間も3時間もかけて観たい作品ばかりでした。
日本ペンクラブの例会講演は辻井喬さんの「老いと文学、老いの文学」でした。男も女も異性をたくさん知らなければいけないという趣旨で、会場は大爆笑。数多ければいいというわけではないでしょうが、まあ、理解できますね(^^;; 続く会長挨拶で井上ひさしさんは「私はあまり知らなくて…」とやって、こちらも爆笑の渦。いつになく笑いの多い講演で、辻井さんをちょっと見直しましたね。
二次会は最近行きつけになった銀座のクラブ。20人も入ればいっぱいという小さな店に、定員近く入ったでしょうか。全員例会の流れですから、ここでも辻井さんの話で盛り上がりました。珍しくカラオケも始まって、銀座の夜はにぎやかに深まっていったのでありました。
○安達徹氏著『雪に燃える花』 −詩人・日塔貞子の生涯− |
2006.5.20
第2刷 山形県寒河江市 桜桃花会刊 1429+税 |
<目次>
詩 私の墓は
序 −神保光太郎−
†
プロローグ‥13. 斜陽‥32
文学修業‥58. 逸見廣と竹石‥83
幻の母‥98. 幼い雛‥118
アリサの恋‥135 片割れの月‥163
喪失‥184 岩根沢の春‥213
青い花かげ‥246 酸っぱい季節‥274
ながれ雲‥305 光風園‥335
もう一つの故里‥359 逝く花‥381
†
あとがき‥407 (再版)あとがき‥410
風立ちぬ、いざ生きめやも。
貞子の脆弱さを愛することは「いわば人生に先立った、人生そのものよりかもっと生き生きと、もっと切ないまで愉しい日々」(風立ちぬ)を送り得るとも言えるのだ。
それは健康という自信に甘えている人々よ月も生≠リリーフし得ることは論をまつまでもない。
いざ生きめやも、である。
しかし貞子は「風立ちぬ」の節子になぞらえることを極度に嫌った。聰が奏でる愛の原点は堀辰雄の思想にあったのだけれど。
あるいは戦中派の、渇仰に似た愛に対する純粋さの追求とも言えた。
堀と節子(実名綾子)とのサナトリウム生活は半歳にもみたぬまま、高原の花火のように清らかに消滅したが、聰と貞子との愛の生活は、これからまる三年間の永い歳月に耐えなければならなかった。それは純粋さの持続という忍耐の中で、堀とはもっと異質に、北国の風土の上に、美しい愛を咲かせなければならない。雪の中で白く燃える花のように。
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四季派の詩人・日塔聰の妻・日塔貞子の評伝が安達徹氏によって出版されたのが34年前。山形県河北町出身で1949年に28歳という若さで亡くなった美貌の詩人・日塔貞子に寄せる地元の思いは強いようで、山形新聞に1970年から71年まで135回に渡って連載され、1972年に単行本となった『雪に燃える花』の再販が望まれていました。しかし、なかなか実現しなかったようで、それならばと女性4人が安達徹氏を説得して再販したというのが本著です。
私は不勉強で、日塔聰は名のみ知っていましたが、日塔貞子については名前さえ知りませんでした。貞子の日記、書簡を基に執筆された本著は、結核性関節炎に冒されながら聰との愛、詩へのひたむきな姿勢が見えてきます。再販して貞子の生き方を多くの人に知ってもらいたいという4人の女性の熱意も理解できました。
紹介したのは400頁を越える本著の後半にあった文章で、タイトルの由来を感じさせました。堀辰雄と日塔聰の関係、聰が貞子と結婚しようとした原点が判る部分だと思います。日塔貞子という詩人を知るためにも必要な本著ですが、それとともに四季派の全体像を研究する上でも欠かせない本と云えましょう。現職の頃は、年に何度か山形まで出張していましたが、そのときの山形の人々の優しい応対を思い出しながら拝読しました。ぜひ多くの人に読んでいただきたい本です。
○日塔貞子氏詩集『私の墓は』 |
2006.12.14 山形県寒河江市 桜桃花会刊 1714円+税 |
<目次>
T
私の墓は 8 美しい春の来る村 10
春が来たなら 12 古城址にて 14
日暮れのよしきり 16 夜明け 18
乾いた季節 20 もう一つの故里の歌 22
花蔭 24 季節風 26
冬が来る 28 春過ぎる 30
記憶 32 青い芒の丘 34
夢 36 秋の口笛 38
晩秋 40 草原の種族 42
夏逝く日 44 秋風 46
初冬 48 老いた山羊 50
小さな冒険 52 幸福なとき 54
放心のあと 56 冬の朝 58
終りへの一つの願い60 山のサナトリウム 62
青い木の実 64 絶望の夕に 66
悪魔の手に 68 もうじき春だ 70
予告 T 72 予告 U 74
春のながれ 76 秋のおわり 78
昼の月 80
U
小さな貝 84 囮の小鳥 86
初冬 88 山の湖 90
青い木の実 92 村の晩春 94
帰って下さい 96 ひとりの時 98
蜩の夕ベ 100. 流れ星 102
たった一つの言葉.104 夕映と野分 106
灯りをともすと 108. はつ秋 110
童話のような光源.112 希いのまえに 114
古い絵本 116. 生れた家 118
焦慮 120. 山すその荒蓼に 122
美しい冬 124. 私のうたは…… 126
焔に祷る 128
V
阿古耶物語 130. 鏡物語 134
私の墓は
私の墓は
なに気ない一つの石であるように
昼の陽ざしのぬくもりが
夕ベもほのかに残っているような
なつかしい小さな石くれであるように
私の墓は
うつくしい四季にめぐまれるように
どこよりも先に雪の消える山のなぞえの
多感な雑木林のほとりにあって
あけくれを雲のながれに耳かたむけているように
私の墓は
つつましい野生の花に色彩られるように
そして夏もすぎ秋もすぎ
小さな墓には訪う人もたえ
やがてきびしい風化もはじまるように
私の墓は
なに気ない一つの思出であるように
恋人の記憶に愛の証しをするだけの
ささやかな場所をあたえられたなら
しずかな悲哀のなかに古びてゆくように
私の墓は
雪さえやわらかく積るように
うすら明るい冬の光に照らされて
眠りもつめたくひっそりと雪に埋れて
しずかな忘却のなかに古びてゆくように……
この詩集は日塔貞子没後8年の1957年に夫・日塔聰によって出版されたものの再版です。前出の4人の女性たち(桜桃花会と称するそうです)によって、安達徹氏の『雪に燃える花』を再版した半年後に出版されました。日塔貞子を知るには『雪に燃える花』は必要、それと同時に貞子唯一の詩集の再版も必要と考えたのは当然の成り行きかもしれません。それにしても貞子の誕生日に合わせての再版、桜桃花会の皆さまの熱に入れようには敬服します。
紹介した詩はタイトルポエムであり巻頭作品です。病に侵されて、死後の自分の墓についてうたった作品ですが、そこには陰湿な暗さは感じられず、むしろおだやかな明るささえ見えています。この仄かな明るさが日塔貞子詩の魅力なのだと思います。
本著には監修した安達徹氏による栞が添えられていました。日塔貞子を語る栞の後半部分を転載してこの稿を終えます。
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その貞子の生涯は二十八年間のドラマであった。生後十カ月で母と生き別れ、間もなくして名門を誇る生家(通称カモン様)は没落し、祖母をカアチャンと呼んでの二人暮らしとなった。高等女学校(旧制)を卒業して翌々年に結核性関節炎で左足と右手を冒され、歩行困難となり、文字も書けなくなった。折りしも戦争が熾烈化し、弱者が生きゆくには多難な世相となっていた。しかし悲鳴をあげながらも、精神的な屈折や屈服する様子は貞子には見えない。左手を鍛練し字体が整うと、日記や詩や手紙を書き出す。特に細字でびっしり埋めつくされた大学ノート大の日記二十一冊はすごい迫力で私にせまってきた。書かれた膨大な量の文字の群れが貞子を支えてくれたのだ。彼女の文学などはこの群れのあとに付いてきたに過ぎない。という実感である。また貞子は心の枠組(わくぐ)みを崩すまいと「カモン家最後の人という矜持(きょうじ)」を生涯貫き通したことは、作品の質にも大きな影響を及ぼしていると言えよう。
美人であった貞子の印象を丸山薫は次のように記している。「冷たい珠(たま)のような容姿。その内部に犯しがたい気品と、はげしい気魄が燃えていた。ときに、そこから不気味なものが人を圧してくるのは、東北地方の亡んでゆく豪家の血統に、不遇感を撥(は)ねのけようとする詩人の、才能の戦いがあったせいかと思われる」。けだし慧眼といわねばなるまい。
本詩集を前にして批評がましい愚はひかえねばならない、と思うのだが、小文の棹尾を飾りたく、真壁仁が貞子の詩を批評した一節を引用する。
「貞子さんの精神の内部が、意外なほど健康で、生理を超えた生命の持続的なひかりと、その照りかえしの強さに僕らは驚くのではないだろうか。
貞子さんの短かった生涯をとおして、詩を不幸な崖にだけ咲く花だと思うのは誤りである。現実の妄執に生きている僕ら(註・現代詩人)こそ病める魂であろう。詩は本来健康で生命そのものなのだ」
死亡一年前から唯一の頼りである左手も使えないようになり、また全身に病魔がはびこって若い命は露のように消えてゆく。
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