きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2007.2.8 自宅庭の白梅 |
2007.3.10(土)
日本詩人クラブの3月理事会・例会がありました。理事会の詳細報告は6月末発行の機関誌『詩界通信』35号に譲りますが、ここでは私の身の振り方について報告しておきます。結論として理事を受けることになりました。先日の日記でも書いた通り、理事諾否の問い合わせには辞退と回答してあります。しかしその後説得されて、受ける旨を本日の理事会で報告されました。最終的には5月の総会で承認されなければなりませんから、そこで否決されることもあり得ますけどね。
説得の内容は新理事会の構成にあります。理事会は2年毎の選挙で、16人のうち約半数が入れ替わります。今回も通常なら9人が残ることになり、私が抜けても影響がないはずでしたが辞退が相次ぎました。そのほとんどが70歳以上の高齢者です。50代の後進に道を譲りたいという意図があったのかもしれません。その結果、現理事会で残る人は2人という事態になりました。さらに新理事会を構成するだろうメンバーのうち、理事未経験者が3分の2になることが予想され、現理事がどうしても必要ということになった次第です。それが判ったからには辞退に固執するわけにはいかないという判断をしました。私に票を入れないでくれと書いたり、辞退しましたと書いたりして一部の方にはご迷惑をお掛けしましたが、そういう事情ですのでどうぞご容赦ください。受けたからには微力ながら全力を尽くします。
例会の講演は二つありました。日本詩人クラブ創設期の詩人と題して「中西悟堂」。もうひとつは「アルス・ポエティカ」。前者は「日本野鳥の会」創設者としても有名で、講演内容も判りやすいものでした。しかし後者はよく判りませんでした。配布されたレジメの半分も行かないうちに時間が来てしまい、それまでの内容も何が言いたいのか結局判らず仕舞い。某国立大学の名誉教授とのことでしたけど、あれじゃあ学生も大変だったろうなと思います。終わったあとの懇親会で何人かの人が講演内容が掴めず「私の頭が悪いのかと思った」と言っていましたけど、もちろん私も判らなかったと伝えました。理事の一員としては不穏当な発言になりますが、今後のためにもダメなものはダメと書き添えておきます。
で、次はこの写真。
会場の神楽坂エミール玄関前で、理事各位と職員代表の記念写真です。都立の神楽坂エミールは石原東京都政の指示でこの3月末で閉鎖されます。従って日本詩人クラブとして利用させてもらうのは今日で最後。10年以上に渡ってお世話になった職員と記念撮影をしようということになりました。エンジのカーディガンを着た女性がいつも面倒を見てくれていました。ありがとうございました。お元気でお過ごしください。
そんなわけで、心から喜べたという理事会・例会ではありませんでしたけど、二次会のあとのいつも通りの韓国料理店は良かったです。いつもの男3人というわけにはいかず、一人は欠席。でも替わりに女性2人が来てくれて、4人でマッコリを呑みました。講演の話やこれからの詩人クラブのこと、意外と内容は真面目でしたね。22時00分新宿発の小田急特急をキャンセルして22時40分に変えましたけど、それでも話し足りなかったほどです。宇都宮の悪友、都内の佳人お二人、最後の神楽坂の夜を楽しませてくれてありがとうございました!
○貞松瑩子氏詩集『風紋』 |
1967.9.9 東京都世田谷区 木犀書房刊 700円 |
<目次>
憧れ…3 風紋…4
ある喪失…6 郷愁…8
砂時計…9 花火…10
月夜…11 野の墓…12
秋…13 失くした秋…14
モチーフ…16 夜の通り雨…18
立春…20 夕ぐれ…22
三月…24 暗い鏡…26
抒情…28 四月の詩…30
雲…32 驟雨…34
夏の終りの…36 挽歌…38
秋の雨…40 鉛の壁…42
鎮魂歌…44 雨の夜の幻想…47
秋を過ぎて…50 歩み…53
見知らぬ島…56 五月…59
そのまま貝になったとしても…62 さよならが出逢った…66
あとがき…田中章恵…72
表紙面 片野不空蔵
風紋
暗い防風林をぬけると
筆草の間から
冷たい風が吹き上げてくる
あれは誰
砂丘の果ての
はるかな水平線に向かって立っているちいさな影は
谺(こだま)のようにわたしの胸には霧があふれ
足裏にひびく貝殻のにぶい音
確かめようもなく
心の奥でひそかにひとり
その影をつなぎ合わせてみるのだが
見えない汐風に侵されて
くずれて消えた足跡のように
もうさがし出すことは出来ない
貴重な詩集をいただきました。40年前の第一詩集です。1967年というと私はまだ高校生で、その1年後に著者と初めて出逢っています。著者の詩集・著作は95%ぐらいいただいていますが、第一詩集は持っていませんでした。その旨をお話ししたところ、後述のエッセイ集とともに送ってくれたものです。これで全部揃ったことになります。ありがとうございました。
紹介したのはタイトルポエムで、私は10代のころから詩集名とともに知っていましたが、おそらく拝見するのは初めてだろうと思います。抒情の本流を行く作品です。「心の奥でひそかにひとり/その影をつなぎ合わせてみるのだが」「確かめようもな」い「はるかな水平線に向かって立っているちいさな影」。それは「見えない汐風に侵されて/くずれて消えた足跡のように/もうさがし出すことは出来ない」。常に形を変えていく「風紋」。しかもそれは己の意思とは無関係に風に翻弄されるのみ。若くして人間の本質を見据えた作品と云えましょう。
詩集の装幀にも驚いています。表紙に文字はなく著者の顔と思われるモノクロの絵のみで、背表紙に詩集名・著者名がありました。40年後の現在でも通用する斬新なアイディアだと思いました。ちなみに発行元の木犀書房は日本詩人クラブ創設会員の故・安部宙之介が社主。当時の詩壇からも大事にされた詩集であったことが分かります。
○貞松瑩子氏随筆集『夢のはざまで』 |
1985.6.30 東京都足立区 漉林書房刊 1200円 |
<目次>
花とフルート 6 言葉・出会い 11
脳波検査 そのほか 16 北の絵本 20
時の流れの女たち 24 夢の話 28
あるお葬い 31 文学志願 34
白い狂気 37 詩人 英 美子の足跡 44
解説・入江香代子 61
表紙書字構成・有賀完次 本文カット及び表4カット・豊崎旺子
文学志願
永遠に女性なるもの
われらを率(ひ)きてゆかしむ ――ゲーテ
昭和二十三年といえば、終戦間もない六・三制への切り替えの時期で、まだ戦前派の感傷が残っていた時代。女学校から高校に変った母校では、年が明けて、校舎に梅の香が漂いはじめる頃になると、卒業を前にした乙女心の哀借が次第に興奮の坩堝(るつぼ)と化す。
巷には未だ敗戦の色が濃く、駐留軍相手のけばけばしい化粧の女や、闇市、ジャズ、鐘の鳴る丘など、殺風景なモンペ姿から解放された女たち、人々はむさぼるように美しいものへの憧れを募らせていた。
そんな頃、粗末なノトに千代紙を貼ったり、色鉛筆で彩色を施したり、せめてロマンチックな卒業の夢をと、親しい同級生、下級生は勿論のこと、恩師の間へもサイン帳をまわす慣わしがあって、国語担任の教師から贈られたのがこの箴言である。
仮にM先生としておこう。長い闘病生活の後教職に就かれ、ほじめて受け持たれたのが私たち。いつとはなしに知ったところでは、早大卒、窪田空穂氏の門下で、別にどこといって発表されることもないようだが、かなりの数の短歌を作られていた。その影響はしばしば先生の授業にもあらわれる。
淋しさは拗ねていし子がしみじみと
夕日の窓に読書する声
こんな短歌がぽつんと一つ試験に出されたりする。それについての解釈、感想等、自分なりに自由に時間内に文章に綴るのである。それが私の文学熱に拍車をかけたようだ。明星、あららぎ、海潮音とこうして一つ一つ私の中で吸収されていったのである。
十六歳の秋、軽度の肺浸潤のため、医師から休学を申しわたされた時にも、この文学への傾倒があったお蔭で少しまぎれた。そして病中、絶えず文学指導によって、力づけ、励ましつづけて下さったのがこの師である。昼も夜も夢中になって短歌を作った。それだけを生き甲斐として、多い日には四十首にも上ることがあった。
新宿の一角、焼野原にポツンとうす汚れた建物が残っていた。鉄道病院、物療科の一室、別に身動き出来ない病人ではないので、屋上へ上っては富士を見た。いつまでも微熱が引かなかった。はじめて父母と離れた淋しさに泣いた。
ふるさとと君や偲べる夕かげに
なぞえの道のみかん色づく
枝ぶりのみかんを籠に、先生はそんな歌を添え、私を見舞われたのに、眠っているので帰られたとか。会えない思いがあったせいか、いつまでも記憶に残り、今もみかん時になると、甘い感傷を伴って胸底をよぎるものがある。
師の望まれた永遠に女性なるものといえるかどうか、二人の子供の母となり、その娘も大学進学、かつての私と同じ年頃になった。女盛りを過ぎた感じがしないでもない。
そして、とうに時効を過ぎたサイン帳の最後の頁には、先生の次の歌を載いている。
君がゆく明日の長路に詠む歌の
調べきく日はいつにかあるべき ――遒明
その師の言葉のせいかあらぬか、爾来二十数年、未だ歌ならぬ未熟な詩作に喘ぐ私である。
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こちらは初の随筆集で、1975年から10年に渡り『山紫水明』『電波新聞』『詩苑』『詩界』などに発表した作品を纏めたものです。紹介したのは最も短い作品で全文です。1975年3月14日の『電波新聞』とありました。今から30年以上前の作品ですが古さを感じさせません。書かれた素材に普遍性があり、文章にも格調があるからでしょう。随筆には意外と賞味期限があるものですが、この作品は20年、30年経っても色褪せない文章の見本と云えましょう。
○貞松瑩子氏随筆集『風のなかを風がふく』 |
1994.11.3東京都国分寺市武蔵野書房刊1456円+税 |
<目次>
影男 5 四十三年目のクラス会 10
冬至より 15 やさしい輪 20
後ろ姿 25 旅・俳句事始め 30
生きがたち 40 こころの霧 45
ある一日 50 揺り椅子と月光 55
信濃追分日記 60 短い旅 65
言葉あれこれ 70 陽のない家 75
詩集『すながの』のこと 80 生きる 82
豊崎旺子詩集『薔薇星雲』に寄せて 85 失礼しました 87
出合い 大野一雄氏のこと 90 芦屋にて 95
素材からことばへ 100
おたあ・ジュリアへの旅 104
終焉の地神津島をたずねて 104
おたあ・ジュリア異聞 108
神津島の殉教者 ジュリア祭に参加して 112
あとがきに代えて 116
題字・有賀完次
詩集『すながの』のこと
長岡弘芳さんが亡くなられ、早くも初七日が過ぎた。多くの新聞が写真入りで、原爆文学研究者としての彼を取り上げているのに、詩人としての評価の一行もないのが淋しい。
彼には、一九八七年刊行の詩集『すながの』というのがある。この表題は、同題の作品から表出したもので、掛けて長脇差(ながどす)永の旅≠ェその原形だが、詩集の相談を受けた時、全篇を読み通して、即座に、
「『すながの』がいいわ、永遠の永にも通じるし、永訣の永にも通じる」と言ってしまったのだ。(そして一年、彼は自らの手で永訣の道を選んだ)その時彼の脳裡には、自死の願望がひらめいていたのかもしれない。とりかえしのつかない一事のために、わたしは今もかれの死を疑問符のまま追いつづけている。彼は、「そうだ、そうだ、それがいい」と、その時は大変気に入って、この新書版一五〇頁、奇妙な題名の詩集が出来上がることになった。
よほど印象が強かったらしく、『すながの』を辞書でひいた人があり、彼のことを「すながのさん」と呼ぶ人がいる。遺書はなかったが、『すながの』を読み返すと、作品の殆どが、純粋すぎて少し危く、死へと向かっているようだ。予感というべきか。
またある日/違う屋台の別の男が/いちじく にんじん さんしょに しじん…/いずれになさる? と訊ねたので/「しじん」と答えたものだ/こうして○○町×の×番地に住む/「ひとかど」の「しじん」と相成った次第。(「転居通知」部分)
男は詩人だから/今日もこわれた詩をつくる/生煮えの一行を/焦げたこっちの一行に結び/穴ぼこだらけの一行には/むこうの一行を裏張りする/詩は兎に角から五、六角/七、八角にも歪んだりふくらんだりし/とどバラバラになる (「しごと」部分)
長岡さん 少し斜(はすかい)に照れながらも、純粋に詩人としてしか生きられなかった貴方に、この世の矛盾は辛かったにちがいありません。でもそれゆえにこそ貴方の詩は、これからも多くの読者を惹きつけることでしょう。短い間でしたけれど、詩集造りを手伝わせて頂いたことを、いまは懐しく思います。 (『方向感覚』54号・89年)
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こちらは1982年から94年の間に『山紫水明』『方向感覚』『青い花』『産経新聞』『詩と創造』などに書かれたものを纏めてありました。最も短いエッセイの全文を紹介してみましたが、長岡弘芳さんとは私も何度かお会いしたことがあり、詩集『すながの』も頂戴しています。詩集タイトルの由来はすっかり忘れていましたけど掛けて長脇差永の旅≠ナ思い出しました。著者が名付け親だったことは当時知っていたのかどうか…。20年も経つと記憶の衰えは隠しようもありません。
この文章は詩集評として書かれたものではありませんが、詩集評・人物評としても一級のものでしょう。「少し斜に照れ」ていた長岡さんを思い出します。この書き方も参考にさせていただきました。
○詩誌『倭寇』34号 |
2007.2.28
埼玉県和光市 わこう出版社・鈴木敏幸氏発行 1000円 |
<目次>
詩
悔恨/伊勢山峻 4 消される/神崎 崇 8
曠野/木津川昭夫 10 記憶/小山和郎 13
どんどん電車/鈴木敏幸 18 夕焼けて/冨長覚梁 21
砂場/西岡光秋 24 破船/原子 修 27
書評 「青息吐息の僕の詩集」鈴木敏幸著を読んで/比留間一成 29
短歌 にっぽんの冷え/沖 ななも 32
随筆 チェルリー公園で観覧車にのりましょうよ/増田朱躬 34
(シャガールのように花束もって)
続続 泣き虫人生1 兄の死/内木文英 37
あとがき/鈴木敏幸 43
装幀・増田朱躬
どんどん電車/鈴木敏幸
僕は病いにおちいりました
まずは胃癌です
これが僕の病いの旅の始発駅でした
これはイカンと思いましたので
すぐさま そのデータは
他の人と間違えているのではとしました
暑い夏の日でした
医者は夏吹く風のような涼しい薪をして
あなたの生年月日を確認しろとしました
それが総べての事の始まりです
別の病院へ行くと
あなたは胃癌どころではない
心臓が先決とされました
心臓の手術は派手です
何としても手術の準備だけでも
二十四時間かかるそうです
針鼠のようにチューブや針が体中にささっている姿を見て
女房子供は腰を抜かさんばかり
せっかく見舞に来てくれた友人にも
面会を断り帰ってもらう有様
次いで肺炎
これが一番難解
右が治ったと思えば左へ
その逆に左から右へ
眼の手術にも手を焼きました
何せ都内も自由に動けないありさま
眼は見えず切符は買えず
駅員に切符を買ってもらい
下車の折りは隣客に駅名を教えてもらうしまつ
私は乗っても意味のない
電車に乗り込んでいます
肋骨が倒れも転びもしないのに折れていたり
倒れて顔面血だらけ何針も縫ったり
これも薬の副作用らしく
合計七つの病におかされたことになります
そのうち二つは治療法がないとのこと
私は乗っても意味のない電車に乗ってしまった思いです
私はどこに行くのでしょう
どんどん分からないまま
終点地という名の治療法も目的もない
電車にどんどんと揺られています
「合計七つの病におかされ」いるにも関わらず、この作品には暗さがありません。むしろ明るささえ感じます。本当は想像も出来ないぐらいに大変な思いをしているでしょうに、この達観はどこから来るのかなと思います。おそらく詩人としての矜持でしょう。私自身が同じ立場に置かれたらこんなに悠然とはしていられないのは確実です。ここまで超然としていなければ本当の詩人とは言えないのかもしれません。敬服した作品です。
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