きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
百日紅(さるすべり) |
2007.4.8(日)
午後1時半から開かれた朗読会に行ってきました。西さがみ文芸愛好会でご一緒している櫻井さんの朗読で、場所は神奈川県湯河原町の「グリーンステージ」。作品は桐野夏生の10章ほどのもので、冒頭の1章が朗読されました。定年退職した夫に愛人がいたことが発覚、平穏な日常の中で飼いならされていた魂が目覚めていく…。というものらしいのですが、朗読は死亡した夫の携帯に愛人から電話が掛かってきたところで終わり。あとに本をお求めになって、というところですね。1章だけとはいえ、それでも45分ほど掛かっていますから、濃密さはお判りいただけると思います。
写真は朗読中の櫻井さん。観客は一部しか写っていませんが30人近く居たでしょうか、皆さん、櫻井さんのファンのようです。
なお、女性の写真を出す場合、フルネームと組み合わせないようにしています。最近の検索エンジンはフルネームで検索すると顔写真まで公開されてしまいます。ささやかな配慮ではありますがご了承ください。
○詩集『丹の山』8集 |
2007.3.吉日 神奈川県伊勢原市 丹沢大山詩の会編集 1000円 |
<目次>
瀬戸恵津子/歌って歩こう 10 吉田涼子/やさしい傷み 他 11
麻生任子/筈なのに 他 12〜13 ゆき/そんな一日 他 14〜15
上村邦子/構図 他 16〜17 松田勇樹/早く来い大雪さん 18
松田しのぶ/失敗は成功の元 19 まつだたいち/月 19
小倉克允/求婚者 他 20〜23 神谷禧子/田圃の風 他 24〜27
中平土天/荒田に座る 他 28〜33 早川綾香/空へ 他 34〜36
松本せつ/現実逃避 37 今井公絵/スケッチの旅 他 38〜42
小林教子/私へ 43 川堺としあき/ひもとじ詩帖 44〜47
土百/砂漠の子午線 48〜49 鈴木定雄/還暦 50〜51
大橋ヒメ/心の化粧 他 52〜57 福原夏海/思い出の夏 他 58〜60
山形尚美/すべてに感謝! 61 沙謝幸音/きらめく決意 62〜63
照山秀雄/月蝕1973 他 64〜67 高林智恵子/清しき目覚め 他 68〜72
きなこ/ある晴れた日の事 他 73 松田政子/大地 他 74
こころ/思い 75 川口征廣/一瞬の美 他 76〜77
古郡陽一/無言館 他 78〜81 岡本湧水/ほんとうの夢 他 82〜84
芝山ISAO/民話「棚田作ろうでねえけ」 85〜92
為我丼千代子 遺稿 93〜96
為我井千代子さんを偲んで 97〜101
あとがき 102〜103
私へ/小林教子
水色の小さな便箋
私のよく知っている幼い子へ
八歳の私
元気ですか
コトリ
微かな音たて小さな紙切れ
胸の底に落ちてきた
お父さんはきびしいです
お母さんはいそがしいです
わたしはまいにち本をよむだけで
うちでも学校でもひとりぽっちです
それで ききたいことがあります
おとなになってたのしいことはありますか
ほんとうは優しいひとだった父
けんめいに育ててくれた母
楽しいのは今でも本を読むこと
一人きりの時間が私をつくった
安心を届けてやりたい
五十歳の私から八歳の私へ
創立10周年を迎えた「丹沢大山詩の会」の8冊目のアンソロジーです。今号は96歳で亡くなった為我丼千代子さんの追悼号ともなっていました。
紹介した詩は「五十歳の私から八歳の私へ」向けられた視線が新鮮な作品です。なかでも「おとなになってたのしいことはありますか」という問に軽い衝撃を覚えました。思い返すと私の子供の頃は大人になると楽しいことがいっぱい出来る!≠ニ思っていたようです。今の子供たちにその思いはあるのだろうかと考え込んでしまいました。作者は「一人きりの時間が私をつくった」と納得していて、それはそれでまた貴重な時間だったと思います。「たのしいこと」は大人から子供に与える≠烽フではありませんけど、少なくとも早く大人になりたいという希望だけは削ぎたくありませんね。考えさせられた作品です。
○詩誌『鰐組』221号 |
2007.4.1 茨城県龍ヶ崎市 ワニ・プロダクション発行 非売品 |
<目次>
連載エッセイ 村嶋正浩/姉の死の行方 19
連載時評 愛敬浩一/直喩力がきらきらと輝く 07
詩篇
松尾静明/キャベツの癖 02 根本明/光へと 04
坂多瑩子/台所 08 山佐木進/藍染川 10
村嶋正浩/ダンシング・ヒーロー 06 弓田弓子/観察・しかたがないことだ 16
白井恵子/雑木棟で三日月が 20 佐藤真里子/ヒマラヤの塩 26
平田好輝/捨てたあとで 14 福原恒雄/冬眠術師 12
利岡正人/全焼 22 加瀬 昭/水の女 24
武田 健/俺は冬だ 28 小林尹夫/棲息29 03
仲山 清/設計士の帰郷30
読者から 34
執筆者住所録/原稿募集 36
冬眠術師/福原恒雄
いまも風の向きは真正面から土いろのにんげん臭を
こりこり剥ぎ取る
にんげんの畑で (屈伸はさむいぞ)
寒気暖気が刺し違える痛い痛い膝はすすまないが
見上げてぐらついてもこの満天の星だけは食べておこうか
手を延ばし手がにぎりしめた瞬きも
闇のなかの夢 と苦笑いされてもしかめ面に隠して
星を見ない来し方は悔やむよりうすい辛抱をかさねた厚着で
(つぶされまいぞ)
時間を押しやってひたすら待っていろよ
待って
待って もし いや 眠ろうにも眠れなかったとしても
冬眠は祈祷師ふうの術だからよしとしてくれ
いいかね やっと潜った穴蔵住まいに日差しがさわったら
そっと
そっと立ち
庭に畑が残っていればついでに座骨も腓骨も遊ばせよう
そのときくりかえしくりかえし膝が鳴るのは
満天に還っている星をながめる姉さんにいさんの
声
そのときも
夢のようにでも
にんげんの畑を踏みしだかれ
壊れて絶えたものの庭も穴蔵もない蠕動をおもえるか
乾いていく膝には遠くの酔いにまかせた万歳三唱も
冬景色
冬眠術も完了
な 単純だろ
表情がないくらいに
(つくってどうする! 痛みは痛みだけでうさん臭いほどしんけんに
地を這う表情だ)
はぁ あぁ
ちょっとこれから眠るからな 自前の瞼で
起きるまで 起こさないでくれ
「冬眠術」という面白い言葉に惑わされそうですが、内容はシリアスなものだと思います。「にんげんの畑を踏みしだかれ/壊れて絶えたもの」で溢れる「冬景色」の現実に、「ちょっとこれから眠る」しかない作中人物の姿は、実は「悔やむよりうすい辛抱をかさねた」私たちそのものではないかと感じます。冬の時代には冬眠するしかない、と言ってしまえば単純すぎますけど、「時間を押しやってひたすら待」つしかない私たちの、私の無念を代弁してくれているように思うのです。しかし最終連の「自前の瞼で/起きるまで」という詩語には救われています。自分の意思で起きるつもりはあるのです。いつまでも眠ったままではないぞ、起きる時期は考えているぞ、という意志が感じられる問題作と云えましょう。
なお、今号では「連載時評」で愛敬浩一氏が拙詩集についての論評を加えてくれています。好意的な評で、御礼申し上げます。ありがとうございました。
○月刊・詩と批評『ミて』95号 |
2007.3.26 新井高子氏編集 「ミて」の会発行 非売品 |
<目次>
ラストシーン/愛敬浩一
色硝子/新井高子
【トルコ語詩の翻訳53(書き下ろし連載27)】
嫁に求める! 他/スィナン・オネル 訳イナン・オネル
絵を縫え!――唐十郎戯曲『紙芝居の絵の町で』を読む/新井高子
ラストシーン/愛敬浩一
もちろん事故の朝もあり
二台前のトラックが
信号のところで
ちょっと不自然なかたちに出っ張っていて
どうしたのかな
事故かもしれないと思って
(ここでの判断が難しい)
車線を変更すると
(後ろには車が続いている)
やはり事故で
(今回の判断は正しかった訳だ)
ドライバーと思しき人が一人ケイタイを掛けている
映画のラストシーンのような場面だ
余り見てはいけないとは思うものの
見るべきものは見て
通過する
いつもとは違う風景が
後ろへと流れて行く
いつもの風景の中へ
逃げ込むように
私の車は走る
「いつもの風景」とはちょっと「違う風景」。この場合は「事故の朝」だったわけですが、「ドライバーと思しき人が一人ケイタイを掛けている」光景が「映画のラストシーンのような場面だ」と感じるところにこの作者の特異さがあるように思います。それは「事故かもしれないと思って」「車線を変更する」というごく当り前の行為を書きとどめる姿勢とも共通していましょう。日常の何気ない風景や行為にこそ詩がある、と言ってもよいかもしれません。その意味でも最後の「逃げ込むように」はもちろん逃げではありません。書くことで遺しています。愛敬詩はそうやって日常を切り取って、作品として見せてくれているのだと思います。
○詩誌『侃侃』10号 |
2006.12.31 福岡市中央区 書肆侃侃房発行 非売品 |
<目次>
通勤抄/愛敬浩一…2 流離/渡辺めぐみ…4
幸福論/石川敬大…8 遠いサバンナ/田島安江…12
殺人者/田島安江…16
わたしの、写真論2 小林紀晴のアクチユアリティ/石川敬大…20
詩を読む10 詩の情景 −野呂邦暢が言葉で措いた風景画−/田島安江…24
尖鋭なる天主堂の光景3 教会棟梁としての与助−鉄川与助をめぐる旅/石川敬大…34
装幀 ディーゼロ 藤永沙織
通勤抄/愛敬浩一
すれちがったり
追い抜かれたりして
一週間に一回か、二回ぐらい
その人を見かける
たぶん何年か前から
通りの道を
その五十代らしき男性は
ちょっと身体を斜めにして
両手をぶらりと下げたまま
転びそうになりながら
走っている
朝からもうくたびれている私とは対照的に
汗びっしょりになって
赤信号の横断歩道でも足踏みをしながら
走っている
四、五年前、勤め先の駐車場が遠くなり
仕方なく歩いている私はゆっくりと歩いて
たぶん病気をされた、その人は走り
パジャマ姿でゴミ出しに出る人もいたりして
高崎のN町に朝が来る
前出「ラストシーン」は通勤とは断っていませんが、たぶん通勤時のことでしょう。こちらははっきり通勤時だと判ります。そして、人間観察が詩になるのだなと思います。「その人」は「たぶん病気をされた」のでしょう。違うかもしれませんが、たぶんそうなのでしょう。「私」は「四、五年前」から舞台となった「通りの道」を「仕方なく歩いている」のですが、その人は「たぶん何年か前から」「走っている」のでしょう。聞いたわけではありません。全部推定です。推定だから詩になっているのだと思います。「高崎のN町」という空間をひょいと切り取って、ただ見せるだけ。それで詩になるのです。どこかでこんな詩を書いてみたいものです。
(4月の部屋へ戻る)