きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
百日紅(さるすべり) |
2007.4.17(火)
久しぶりに山中湖まで足を延ばしてみたら「山中湖文学の森公園」というのが出来ていて、そこに「徳富蘇峰館」と「三島由紀夫文学館」がありました。もう10年近く前に出来ていたようです。当然、両方とも入ってみましたけど、両館共通で500円という安さ。でも、安かろう悪かろうではありません。充実していました。
両館は山中湖の旭日丘という場所に建っていますが、その旭日丘という地名は蘇峰が付けたそうです。蘇峰は明治の文学者で、蘆花の兄。民友社、国民新聞社の創設者としても日本史に名を遺しています。
三島由紀夫はあまりにも有名ですが、やはり「潮騒」や「金閣寺」の生原稿を目の当たりにすると感激します。小学校時代の作文から揃っていて、おそらくここだけにあるのではないかと思います。
何かのイベントが山中湖で開催されるとしたら、ぜひ訪れてほしい場所です。公園全体が文学≠意識した造りになっていて、散策しながら詩碑、歌碑、俳碑を楽しむことができます。私の家からはクルマで1時間ほど。また行ってみようと思っています。
○詩とエッセイ『解纜』134号 |
2007.4.5 鹿児島県日置市 西田義篤氏方・解纜社発行 非売品 |
<目次>
詩 収蔵できない過去…中村繁實…1
「魯迅文学論」 その現代的意義を問う…中村繁實…5
詩 陽…村永美和子…6
組…村永美和子…7
抜…村永美和子…8
起…村永美和子…9
小径連作 赤…池田順子…12
エッセイ「小さな窓から」中国の文化行政…中村繁實…16
詩 小滝…石峰意佐雄…17
蛇小目男…石峰意佐雄…19
鯨のいる風景…西田義篤…23
編集後記
表紙絵…西田義篤
小径 連作/池田順子
赤
前方からやってくる ・
次第に拡大されて
赤 に
やがて服 になって
赤い服を着た人が
自転車に乗り
わたしに向かって来る
左手を大きくふり
ふる度に自転車が大きく傾く
左へ右へと
(わあ 危ない)
なんて その人はおかまいなしに
「おーい おーい」
声がきれぎれ
風に乗り
風を受けた赤い服の人も
自転車も
瞬くように輝いている
(あ Mさん)
ようやく気づいたときには
するりと通り過ぎ
ふり返ると
赤の風が
茶畑のみどりのなかを
走り抜けて行く
ねぇ 世界の端っこで
シーソーしましょう
自分を軸にして
自分に向かって走ってくる人と
自分を背後から追い抜いていく人と
重さくらべ
それぞれの拒離が伸び
さらに ぐうんと伸びて
たとえば駅前あたり
人ごみをくぐりぬけた地下街
乳母車を押す若い母親を追い越し
表通りをミニスカートで走る原付を抜き
ちょっと 信号無視
え? ええっーで 暴走
つばめを追い越し
さらにJALを抜き
ひとりは地平線へ
もうひとりは水平線へ
沈む夕日
浮かぶ月
両方の端が重たい
かろうじて支えられている
この地点が
わたしの立つ位置
自転車の荷台には
息子も
娘も
孫
そのまた孫
孫の友達の○○ちゃん
飼い犬の○○
近所の○○○ちゃん
その近所のおじちゃんおばちゃん
まとめて○○を積み
あるいは国
と
国を乗っけて
通り過ぎていく
人も
自転車も
風景も
真っ赤に染まり
わたしは
ただ一個の
・
あっ
消えた
ちょっと見落としがちですが「前方からやってくる ・」と「わたしは/ただ一個の/・」のように「・」があります。その「・」の色が「赤」なのです。おもしろいイメージで、特に「ねぇ 世界の端っこで/シーソーしましょう」という発想が佳いですね。おもしろいだけでなく、シーソーの最後は「あるいは国/と/国を乗っけて」ですから、社会的な視点で鑑賞することもできます。最終連の「あっ/消えた」は、そんな視点が消えたとも採れますけど、ここは最初の「次第に拡大されて」の対になっていると採った方がよいでしょう。楽しませてもらいました。
○秦恒平氏著『湖の本 エッセイ40』 愛、はるかに照せ 愛の、詞華集 |
2007.4.15 東京都西東京市 「湖(うみ)の本」版元刊 2300円 |
<目次>
愛の歌・日本の抒情 編むにあたって…5
*
男女の愛…8 夫婦の愛…26
子への愛…76 親への愛…106
血縁の愛…141. 友の愛…154
師弟の愛…175. さまざまな愛…181
*
あとがき…206. 詩歌索引…207
私語の刻…217. 湖の本の事…222
<表紙> 装画・城景都/印刻・井口哲郎/装幀・堤ケ子
★ 初めてのわが口紅に気づきしか口あけしまま見入る弟 中島 輝子
この歌も、言葉に表れているかぎりでは説明も解釈もない、簡明な作だ。ただの写生的な歌だ。だが「姉」が「初めて」「口紅」をひくという事は、そんな姉を呆然と見る「弟」とは、それが即ちもう人生の劇である。かりにこの弟がもういくつか年若ければ「口あけしまま見入」ったどころか、姉の「口紅」になど気もつかずじまいだったろう。もう少し年が行っていても、こうは驚くまい、ひやかす位が関の山だったろう。この歌で「姉」と「弟」とは、微妙に出会いしかも離れ始めたのである。「口紅」をひいた「姉」は、もはや「弟」だけの姉ではなくなっている。そう弟も姉も気づき始めた歌。この歌が只事歌(タタゴトうた)と見えながら心を惹くのは、その微妙なドラマのためだ。作者の意識より「歌」の方が先へ行って大きくなっているのかも知れぬ。「ぬはり」昭和二六年八月号から採った。
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今集の原本は書下し『愛と友情の歌 詩歌日本の抒情』(1985年9月講談社刊)だそうです。今から20年余前の著作の再版ですが、愛についてはまったく変化していないことを改めて感じます。もっとも、千年前の愛の詩が生き続けているのですから、たかだか20年、ということなのかもしれません。
目次で判りますように「男女の愛」から「さまざまな愛」まで、人間を取り巻く様々な愛を秀歌、秀句、佳詩を紹介しながら解説したもので、秦文学の根底を成す思想が語られていると言ってもよいでしょう。膨大な解説の中から、ここでは中島暉子の歌を解説した部分のみ紹介してみました。歌も優れていますが、私は秦さんの解説に魅せられています。確かに「説明も解釈もない、簡明な作」ですけど、そこから少年の年齢へ筆を進めることは勉強しなければならないと思っています。私に姉はなく、妹も口紅を引く頃には私が実家を出ていましたから、この作のような体験はありません。しかし、それでも少年の年齢が重要なのは判ります。そこまで考えて読まないと本当の鑑賞にはなり得ないと教わりました。
拙HPでは皆さまの作品を紹介していますが、どうやって読んで、どう紹介すべきなのか、そこのところを上の短歌も含めて本著で教えてもらったように思います。秦さんのように深く読むことは出来ないかもしれませんけど、今後も精進していきたいと思っています。
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