きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
百日紅(さるすべり) |
2007.4.25(水)
ここのところHPの更新が遅れていて、最大で10日分の遅れでしたが、今日ようやく取り戻しました。せいぜい2〜3日の遅れでとどめておきたいものですが、なかなか。呑み歩くのをやめれば遅れはなくなるんでしょうけどね、そうはいきません。今朝のラジオで誰かが「読む、書く、呑むが生きがい」と言っていましたけど、私も同じ心境です。
ところで今日は新車の3回目の給油をしました。燃費は12.1km/L。前2回とも11km台でしたから、まあ伸びているかなと思います。フルタイム4駆ですから難しいかもしれませんが、13km台にはなってほしいものです。
○個人誌『気圧配置』21号 |
2007.4.25 熊本県熊本市 古賀博文氏発行 300円 |
<目次>
■詩 親待塚 2
■掌篇 ウナギ 6
■エッセイ 白川 8
■エッセイ めまい 10
■評論 マイノリティーの彼方へ−中沢新一著『芸術人類学』を足がかりにして 12
■あとがき 20
めまい
台風17号は未曾有の被害を九州地方に残して、なお近畿地方を北上中だった。送電線の断線や送電鉄塔・電柱の倒壊などの報告が九州各県にある支店から届けられていたが、特に長崎・佐賀・福岡・大分の被害が甚大であった。
台風の接近にあわせて対策本部を立ち上げ、臨戦体制で臨んだものの、各県の対策部から次々にとどけられる報告はいかに人間の力が自然の猛威のまえでは無力であるかということを思いしらされるものばかりであった。
夕刻から各地で復旧作業がはじまっていた。掲示板に表示される「復旧動員状況」も一〇〇〇人、二〇〇〇人、三〇〇〇人……とウナギのぼりに増えていった。いまから彼らは夜を徹して損壊した現場設備の復旧にあたるのだ。復旧には早くて六、七日はかかるだろうと思われた。掲示板を確認しながら、対策本部につめるまえに自宅で妻が言っていた「あなたって、いつもいちばんいて欲しいときにいないんだから……」という苦笑まじりのグチがあらためて思い出された。
インスタントやレトルト主体の非常食も、もう食べる気がしなかった。午前四時。つけっぱなしにしたテレビが台風情報を放送しはじめた。アナウンサーは土砂崩れで孤立無援となった山間地区の話や、台風襲来と満潮とがタイミング的にかさなったために床上浸水した地区の状況などをしらせたが、九州にはもう関係のない情報ばかりだった。
台風情報が終了し、テレビはふたたび「台風の現在位置」の固定画面へ変わり、クラシックのBGMが流れはじめた。モーツァルトの「嬉遊曲K136」第一楽章。モーツァルトが十六歳のときに作曲したこの作品は、二長調のドの音を中心に十六分音符がクルクルと動きまわり、弾むような主旋律が有名である。なんという天国性! 天真爛漫さ! その旋律はいつも私の脳裏に澄みきった青空の下、季節の花々を満載した荷馬車が、ひずめの音も軽やかに一本道を町へといそぐ光景を想起させてくれる。荷馬車からはフリージアやチューリップ、パンジー、マーガレットなどの花々がまき散らす芳香が薫ってくるようだ。そんな青春の息吹が充溢した佳曲である。
それはたしかに人間が内蔵している本能的感情の一つであるにちがいない。しかしそれは台風被害の早期復旧という難題に直面している、いまの私の拘束された苦況とはずいぶんかけはなれた時空を指し示しているように感じられた。
このときばかりはこの曲が私に現実とロマン性との間でめまい≠起こさせ、現実からの逃避願望をかきたてさせた。
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紹介したのは「エッセイ めまい」ですが、私は詩として読んでも違和感はないと思いました。そう思いながら最後の「あとがき」まで来ると同じことが作者自身によって書かれていました。最近、自分の内部でどんどんエッセイと散文詩の区別があいまいになってきている。本号に収録した「ウナギ」「白川」「めまい」なども「詩として読んでいいんじゃないのか?」といった感覚からなかなか抜け出すことができなかった≠ニ。
改めて書く必要もありませんけど、詩とは形ではなくポエジーがあるかどうかだと思っています。その意味からすれば「めまい」にはポエジーがあります。特に最後の1行は秀逸です。私も台風情報のBGMには違和感を感じていましたが「現実とロマン性との間でめまい≠起こさせ」るほどではありませんでした。それは曲をよく知らなかったからですが、作者は曲の内容をきちんと押さえていて、知的な「めまい」を感じているわけです。ここにはポエジーがあると云えましょう。
なお、本文は45字改行となっていますが、携帯電話で見る場合などを考慮しベタとしてあります。ご了承ください。
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