きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2007.4.8 神奈川県真鶴岬 |
2007.5.2(水)
昨日と一変して今日は暖かい日。夏日まではいかなかったようですが、それでもTシャツ1枚で充分でした。午前中はクルマで所要を済ませていまして、運転席も助手席も窓は全開。心地好い風が入ってきました。午後は回覧板が回ってきましたので、原チャリで次の家へ。原チャリで行くほど遠いのです(^^; 組は昔から変わっていないのですが、引っ越しても同じ地域内なら昔の組内で組織されますので、そういうことになったというだけのことですが…。でも原チャリも気持ちよかったです。こういう日はなるべく外へ出て、陽射しを楽しみたいと思っています。
○詩誌『ぶらんこのり』3号 |
2007.4.30 横浜市金沢区 坂多瑩子氏、中井ひさ子氏編集発行 300円 |
<目次>
Poem
坂多瑩子/再会−2 廃屋−5
坂田Y子/子犬のきのちゃん−8 その後のくノ一とかあちゃん−11
中井ひさ子/欠けたまま−14 影踏み−17
Essay〈泣く〉
坂多瑩子/悲しみもネンキが入ると−19
坂田Y子/泣く女たち−20
中井ひさ子/おろおろ−22
再会/坂多瑩子
とある日
犬と犬が出会った
吠えなかったけど
しっぽも
ふらなかった
昔
同じ母親の乳ぶさに
ぶらさがっていたことなど
とうに忘れて
犬になんてなりさがって
と
一匹の犬は思い
やはり犬になっていたか
と
もう一匹の犬は思い
お互い
はじめから存在していなかったように
横を向いた
今日
わたしは犬である
わたしにえさをくれた
子どもたちが
赤や青のクレヨンで
わたしの
目や耳の傷ぐちを
ひろげていく
ゆがんだ顔にしあげていく
ごらんよ
この犬
だれかが叫ぶ
茶色の巻き毛に
日が
とっぷりと暮れた
「昔/同じ母親の乳ぶさに/ぶらさがっていた」犬が2匹。「犬である」「わたし」が1匹。計3匹の犬の喩は何かと考えて、作者の意図とは違うかもしれませんが、私は朝鮮半島の2国と日本として読んでみました。特に政治的な意思は感じられませんけど、それぞれの国の置かれた現状を考えさせられました。「わたしにえさをくれた」米国は日本を「ゆがんだ顔にしあげてい」ってしまっています。そして「日が/とっぷりと暮れ」てしまいました。
たぶん外した鑑賞でしょう。外したついでに日が暮れたあとのことに思いを馳せています。日暮れて夜、そして朝を迎えます。
○坂本くにを氏詩論集 『中世その詩的側面』 |
2007.5.10 横浜市西区 私家版 非売品 |
<目次>
大木実試論 1 山田今次小論 18
実・今次併論 24 中世その詩的側面 29
藤村・冬二時代とその断面 48 明治新体詩の断層 64
大正近代詩への郷愁 72 詩劇推論 82
祈り・その詩的考察 91 あとがき 110
山田今次は、昭和二十二年(一、九四七年)新日本文学第二回創作コンクールの詩の部で「あめ」が一位に入選、三十五才であった。
その当時、敗戦を契機として、うねりのような広がりをし始めていた労働運動の波に伴って、労働組合の文化運動の文化活動も活発になり、労働者による文化運動の一環として、詩や小説を載せた組合の機関紙が発行され、そこから職場誌が生まれていた。
山田今次も、組合運動に携わりながら、詩を書いていたひとりであった。
あ め
あめ あめ あめ あめ
あめ あめ あめ あめ
あめはぼくらを ざんざか たたく
ざんざか ざんざか
ざんざん ざかざか
あめは ざんざん ざかざか ざかざか
ほったてごやを ねらって たたく
ぼくらの くらしを びしびし たたく
さびが ざりざり はげてる やねを
やすむことなく しきりに たたく
ふる ふる ふる ふる
ふる ふる ふる ふる
あめは ざんざん ざかざん ざかざん
ざかざん ざかざん
ざんざん ざかざか
つぎから つぎへと ざかざか ざかざか
みみにも むねにも しみこむ ほどに
ぼくらの くらしを かこんで たたく
オノマトペの名手としての山田今次の「あめ」は、それを駆使した見事な作品で、当時の労働者の暮らしを伝え世相も現し、自然発生的で粗削りな詩が多く、文学的には粗雑であった職場詩の中では群を抜いていて注目されたのである。
山田今次の詩に於けるあまり翳りや、湿気性を持たずナチュラル体で屈託の無い平面性を帯びた思考感覚、社会の底辺で、地面というよりは=じべた==じびた=という所謂、ハマ弁とでもいうような表現を身に付け、下町風な生活感を根源としている詩人で、そのひらべったく、じびたに両脚を踏ん張って、社会というよりも、地球の上に立って宇宙と向き合っているような姿なのだが、庶民性に満ちてはいても、べたついてはいず、垢抜けていて、明るい下町の寡囲気の詩風になっている。
労働運動にも携わり、労働者の生活に密着して詩を書いているが、図式的、類型的な形式主義には陥らず、自己の本質性に基づいた地点からの詩風を確立し、そこから発想されたオノマトペを完成させている詩人といえよう。
山田今次の寿が、話法やその特性の一面に、労働詩に多くありがちな、政治性、又は、イデオロギーなどの露出性が少なく、労働者の暮らしに向けられている眼差しに、人間への暖かさがこめられているのは、大木実の詩の構造の基層に位置している庶民への視線と、同一感性上にあるものと思われるが、両者共通の視座に通底しているものが、日本的、短歌的な抒情性という地点から無縁であるところに、近代へ向けての、詩的感性の内在性が看てとれる。
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「中世」「明治新体詩」「大正近代詩」、そして「詩劇」と幅広い評論集で大変勉強になりました。ここでは生前、私も親しくお付き合いさせていただいた山田今次さんを評した「山田今次小論」の一部を紹介してみました。「あめ」は教科書にも載せられたことがありますからご存知の方も多いかもしれません。私は一度、今次さんご自身によるこの詩の朗読を聴いていますから、非常に懐かしく思い出しました。評は「庶民性に満ちてはいても、べたついてはいず、垢抜けていて、明るい下町の寡囲気の詩風」という点が今次さんを見事に捉えていると思います。続く「労働運動にも携わり、労働者の生活に密着して詩を書いているが、図式的、類型的な形式主義には陥らず、自己の本質性に基づいた地点からの詩風」という文も今次詩の重要な観点だと云えましょう。
さらにこの評の中で特筆すべきことは、次の「実・今次併論」に出てくるのですが、オノマトペの難点を今次詩「すずめ」を例に評していることです。平板化に陥りやすい問題点を指摘しています。批評家の態度としては当然なのかもしれませんが、是は是、非は非とするところに著者の誠実さを見た思いがします。批評とはそうあらねばならないものなのでしょう。その面でも勉強させていだきました。
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