きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2007.4.8 神奈川県真鶴岬




2007.5.13(日)


 昨日の日本詩人クラブ総会が無事に終って、ホッとしています。今日はその模様を詩人クラブHPと拙HPにアップしました。よろしかったらご覧ください。両方を見てもらうと全体像に近づけると思います。
 詩人クラブHPの方は、ついでに永年会員も更新しました。この総会で顕彰を受けた会員を加えたのですが、仕事の遅れも発見しました。亡くなった永年会員は「物故永年会員」の項へ移動します。しかし何人かがそのままになっていました。それを訂正しました。
 しかし、その上新たな問題も発見。亡くなった日が判らない人がお二人いらっしゃったのです。私が管理している電子名簿でも不明でした。さあ大変。あわてて過去の機関誌をめくりましたけど、判りませんでしたね。時間のある時にもう少しあたってみます。今すぐどうこうという問題ではありませんが、HPの記事は正確にしておかなければ信頼を失います。詩人クラブHPの「永年会員」の項を見ていただいて、ご存知の方があったらお知らせください。たいへん助かります。



宗昇氏詩集『記憶のみなわ』
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2007.4.5 東京都板橋区 待望社刊 2000+税

<目次>
T部 影の町
路地 8       町 14
キネマ館 20     隙間 26
橋 30        淵 34
少女 38       出口 42
餅つき 46      原っぱ 50
薪の火 54      緋鯉 58
サーカス 62
U部 仄かな光
堂影 70       声 72
満開 74       ひと粒の 76
蕾 78        わびすけ 80
切り通し 82     蛍 84
V部 影のひと
バス 88       電車 92
背 96        手帳 100
風 104
.       あかり 108
茅場町 112
あとがき 118



 

町の北のはずれに長い木の橋がかかっていた。幾たびかの大雨の
ときとうに流失していても不思議はないほどの古い木造りの橋であ
る。いつ架けられたのかもうだれも知らない。みんなそれぞれに気
づいたときにはすでに古くからそこにあったという在り方でそこに
あった。

橋の途中で欄干によりかかって川をのぞきこんでいるひとがいた。
あの猫背ぎみの背はどこかで見た覚えがある。背に引き寄せられて
渡っていってみると 四十年も昔いっしょに同人誌をやっていた仲
間のひとりで 十数年も前に別の仲間の葬儀の日に顔を会わせたき
り会うことのなかった男だった。
「さかなが、ね。」
と男がいうので身を乗り出すようにしてのぞいてみると そこだけ
川霧がはれて澄明な流れのなかに いっぴきの魚が静止しているよ
うだったが 川面の波立ちのためにわたしにはかすかにそれと見え
るだけだった。いまのかれの目には鮮明に見えていたのだろう。
「子どものころ、捕まえそこねてね。ずっと気掛かりになってたん
 ですよ。」
「――」
「やっと見つけたけど、いまとなってはねえ。」

わたしにも目の色かえて追っていったそんな魚がいたような気がす
る。もっと小さい川だったけれど逃がした魚は大きかった。いい大
人になってからも ふとわれにかえると幻の魚を追っているのに気
づいたものだ。川面を見つめているとわたしを乗せて橋がいつのま
にか上流に向かって動いている。川底の魚影も川下を向いて静止し
たままいっしょに遡ってゆくようだ。錯覚なのだろうか なにもか
も。「おれもそうだったよ」と振りかえるとかれはもう向こう岸に
消えかけていた。その背が霧にかすんでさむざむと見えた。

「たかが魚じゃねえか。」
執着をふりきって引きかえす。橋の入り口ちかくで何人かのひとと
すれ違ったようだったが 土手道まで戻ってきてからふとそんな気
がしただけだったから 別にだれとも会わなかったのだろう。それ
ともみんなの影のなかを素通りしてきたのだろうか。欄干のひと影。
その背に引き寄せられてついうかうかと渡りはじめたが 橋にはか
れの背が消えていったそこへ帰る道しかなかったのかもしれない。
すべての行く道は帰る道であったようだ。引きかえしたつもりでい
ても いつもそんなつもりのままいまも帰る道を帰りつづけている
のだろう。長い木の橋である。古くて長い道のりである。いつ流失
しても不思議はないのに流失もせず崩壊もせず気づいたときにはす
でに古くからそこに橋の影を橋の形のままとどめている橋だった。

 1990年度第24回日本詩人クラブ賞受賞詩人の第4詩集です。詩集≠ニは銘打っていませんが、すべて散文詩と捉えて勝手に詩集と呼ばせていただきました。タイトルの「みなわ」は水泡≠ニ書き、文字通り水の泡、あぶくのことです。あとがきには「半世紀をこえる昔の、いわば記憶の古層から立ちのぼってきた水泡であって、掬いとらなければたちまちに消えてしまうはかないもの」を書き留めたとありました。
 そんな一例として「橋」を紹介してみました。「子どものころ、捕まえそこね」た「幻の魚」は、夢であり理想であったのかもしれません。「みんなそれぞれに気づいたときにはすでに古くからそこにあったという在り方でそこにあった」「古い木造りの橋」は、まさに私たちの記憶の古層≠フように思います。「わたしを乗せて」「いつのまにか上流に向かって動いている」橋も古層に向っている喩と考えました。「すべての行く道は帰る道であった」という詩語にも古層への回帰を感じさせられます。宗昇詩を堪能させていただいた作品であり、詩集です。



個人詩誌『魚信旗』35号
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2007.5.15 埼玉県入間市 平野敏氏発行
非売品

<目次>
詩想
宿縁の章 1     仮託の章 4
解悟の章 6     光と影の章 7
追善の章 8     幟旗の章 10
アルバム
4月の散歩道(1) 9  4月の散歩道(2) 11
後書きエッセー 12



 詩想

  仮託の章

千年はもつという平凡な紙漉き
千年後の変貌なにごともなく平穏か
そんなことはあるまいと
いますぐにでも破れそうな紙に詩魂の情をしたためる

約束事は破られどおし
覚書も忘れ去られて
紙上の出来事は千年も待たずに変色してしまった
歴史は紙で語られてきたけど
不都合は虫食いの餌になり
好事は誇大に綴られ
戦果は証人も無く語り継がれ
歳月は紙の上の朧な文字を照らし続けて
人を惑わせてきた
紙に綴り語られたはずの真実は
千年ももたずに
紙漉きの嘘を露呈してしまった

いま平和憲法が書き換えられようとしている
千年はおろか百年ももたないうちに
憲法の紙がすり替えられようとしている
平凡な紙漉きに
平凡な平和憲法が載っかっている光景が崩れようとしている
今際の理想憲法が
溶けかかる千年の紙からこぼれ落ちようとしている
ことばで世界を創るはずが
戦争ということばで世界を壊そうとしている
戦場に行ったこともないのに
死者の出ない戦争を想像している
戦争を知らない人が増えているのに
戦争を煽っている
西部劇や時代劇は過去の戦
(いくさ)だが
反省を込めた歴史ドラマで
人殺しはどんなに愚かなことかと語っている
悲しい結末は人の怨念が禍していることが多い
人にからみつく悪霊を祓い
人人を分かり合い
私たちも分かり合ってもらって
人類が丸くなって
与えられた平和でも
築き上げた平和でも
平和には遜色はないのだから
平和の大切さを大事に後世に伝えるために
千年はもつという平凡な紙漉きに事寄せる
千年後も変色しない平和の旗となって
たかが紙の上の憲法でも
親しく諳
(そら)んじられてきた平和憲法を
いまひとたび認
(したた)めあおう

千年も万年も常しえまでも
われらが仮託するものは
憲法は恒久平和希求のままでよいこと
金縷梅
(まんさく)が咲き香る早春の和紙の里から
千年はもつという保証を信じて
平凡な紙漉きののちに
重い重い文字と祈りを刷り込もう

 この文章は5月15日に書いています。昨日14日に「国民投票法案」が成立しました。まさに「いま平和憲法が書き換えられようとしている」状態です。「千年はおろか百年ももたないうちに/憲法の紙がすり替えられようとしてい」ます。「戦場に行ったこともないのに/死者の出ない戦争を想像している」政府が「不都合」を「虫食いの餌」にしようとしているのです。「与えられた平和でも/築き上げた平和でも/平和には遜色はないのだから/平和の大切さを大事に後世に伝える」ことが私たちの責務なのに、米兵の代わりに死ぬ日本兵を作らせてしまうことになるのでしょうか。
 「仮託」の本来の意味はかこつけること。ここでは仮に託したと読み取りましょう。政府は国民から仮に政治を託された機関にしか過ぎません。しかも国民の幸福を追求するのが仕事。それなのに、その仮の機関が国民を不幸に陥れようとしています。
 しかし、その政府を選んだのは他でもない私たち国民。「今際の理想憲法」を「溶けかかる千年の紙からこぼれ落」とそうとしているのも、実は私たちです。大いに考えさせられた作品です。



詩誌『カラ』4号
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2007.5.1 東京都国立市
松原牧子氏発行  400円

<目次>
短歌 
Blind Spots/鳴海 宥
渋滞マニア/鳴海 宥            うた/石関善治郎
対話篇エルディ//aflame//シスマン/外山功雄 LOOP/鷹山いずみ
睡眠の軌跡/佐伯多美子           島にて/松原牧子
えんの/支倉隆子



 睡眠の軌跡/佐伯多美子



 ホールではラジカセから鳴るボリュームいっぱいの演歌やユーミンの歌声に混
じって、細い透き通るような賛美歌がもれてくる。さっきから、色
(しき)という女が広
いホールを端から端へと往来しながら唄っているものだ。その姿と歌声は完全に
この場から浮いてみえた。いま、色は、マリアさまに召されている。抱かれて天
上をあるいている。おだやかな至福のときをあるいている。そこだけ、五色の光
の粒子が輝いているようにも見えた。
ホールの片隅から、
「また、マリアさまのところにいっちゃったよ」
と、いう、ささやきのようなくぐもった笑い声が起きたが、色にはとどかないよ
うだった。
 その、くぐもった笑いには諦めにも似た自嘲をふくんでいた。色までもあっち
側、狂気の領域にいってしまった。そうなると、もう、誰にもどうすることもで
きないことを知っていた。グリーン(保護室)に連れて行かれて、こっち側に帰
ってくるのをじっと待つしかなかった。

 色は、穏やかな性格で誰にも慕われていた。「お姉ちゃん」と、色より年上の人
からも呼ばれ信頼されていた。ここ、精神病院を、天性から与えられた住処と思
っているのではないかと思えるほど自然にふるまって静かであった。その、ノー
マルな姿はここでは異色であった。ここでは、鬱屈した棘を隠し持っているのが
大勢であった。棘があるとき鋭い刃物になって、他人や、自分自身に致命傷にな
る。破滅に至る。場合が多い。色には、そんな、破滅の影がみえなかった。
「何があって、ここに、来たの?」と、聞いたことがある。
「経理事務の仕事をしていて、百万円、銀行に預けに行くようにいわれて、途中、
落としちゃいけない、盗られちゃいけない。と、思っていたら、おかしくなっち
ゃったの」
と、言葉すくなに語った。極度の緊張に襲われたらしい。

 精神病院では、だれでも超人になれた。神様や仏様がいっぱいいた。その目は
恍惚として焦点が泳いでいた。ある男は拳でテーブルを何度も叩き、血のにじん
だ指を舐めながら、俺の破壊力はこんなものではない、と自負していた。テーブ
ルの下の床の下のコンクリートの下の地中奥深くマグマに鉄拳を打ち据えている
ようだった。しかし、どこかで知っていた。そんなはずはないと。そして、だれ
も本気には信じないだろうことを。だから、そこで起きたこと、成されたことは
体の奥深くしまいこむ。そして、時を経て、体内に沈んでいき吸収され呼吸とな
って息としてはじめて外界に吐き出される。それは、すでに、体内で密かに熟成
され迷宮として成る。



 連載の「睡眠の軌跡」です。「色という女」の性格、「狂気」の内容についてよく判りました。「極度の緊張」の度合いも人によって違うことも理解できます。「精神病院では、だれでも超人になれ」、「神様や仏様がいっぱい」なんでしょうね。20年も前に私自身が神経症になり、1年ほど通院していた頃を思い出します。今は通院していませんが、別の目的でたまに精神病院に行きます。「神様や仏様」を観察します。人間の脆さ、逆に勁さも教えられています。
 最終連の「そこで起きたこと、成されたことは体の奥深くしまいこむ。そして、時を経て、体内に沈んでいき吸収され呼吸となって息としてはじめて外界に吐き出される。それは、すでに、体内で密かに熟成され迷宮として成る」という言葉は、「狂気」に至る過程が端的に示されているように思います。教えられた作品です。



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