きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2007.4.8 神奈川県真鶴岬




2007.5.15(火)


 午前中は実家の親父の通院につき合って、午後は読書。病院で親父が「今日は午後から雨だってなぁ」と言っていましたけど、空はそんな気配がありませんでした。しかし、帰宅してしばらく経つとすごい雷雨。昼の1時間ほどでしたが私の処では雹まで降りました。小さなものですぐに消えてしまいましたけど、この時期に雹なんて初めてです。
 雷雨が通り過ぎたあとは見事な快晴。書斎の窓から青空を見上げて、極端な差異に、やはり何処か狂っているのかなと思いました。自然との共存≠ネんて不遜かもしれません。自然の下で小さくなって、どうにか住まわせてもらう、それが本来の自然と人間の関係のように思います。



季刊詩誌『タルタ』創刊号
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2007.5.30 埼玉県坂戸市
千木貢氏方・タルタの会発行  非売品

<目次>

田中裕子…夢の先 2            峰岸了子…刺し傷 4
千木 貢…休日、上野にて 8        柳生じゅん子…牛蒡 10
現代詩のいま
柳生じゅん子…現実を引き受ける力 13    米川征…言葉/意識 15

伊藤眞理子…長い黙祷−丸山眞男について 18 柳生じゅん子…紙風船 21
千木 貢…石婆 24             米川 征…葬儀屋の男 28
詩論 千木 貢…修業としての詩的感性 30
あとがき・住所録 40



 休日、上野にて/千木 貢

群集が公園をじぐざぐにとり巻いている
先頭の外人たちは、なんだかはつらつな表情で
陽気におしゃべりをしている
それにつづく群集は、寡黙に背をまるめ
すこしでも冷たい風を避けようと
樹の陰ひとの陰に身をちぢめる

施しは西洋の神からのおくりもの
ボランティアの外人たちに
施しの感覚はないのだろうか
神とのかかわりが希薄な群集は
自分たちの一日のいのちは
施されていると感じるのだろうか

群集を避けて歩きながら
公園のなかの構図は
わたしたちのからだに奇妙に纏わりついてくるのだった
きょう、わたしたちは博物館に
千二百年前のほとけの像を観にきたのだった
無辺無限の
世界の隅々に光を放ち
ありとあるものの
一切の魂をその御手にお掬いなさる
ほほえみをたたえた半眼の
盧舎那佛に会いにきたのだった

肉の匂いのまったくしない
空気の薄いうすぐらい空間を
その日、施しとは無縁な多くのひとの流れにのって
わたしたちは
宇宙人のように
じぐざぐに歩き回っていたのだった

 新しい詩誌の発刊です。創刊おめでとうございます。今後のご発展を祈念しております。
 上野公園で「ボランティアの外人たち」から「施し」を受けるホームレスの「群集」は、私もよく見かける光景ですが、この作品は「千二百年前のほとけの像を観にきた」「わたしたち」との対比が大事だろうと思います。さらに「一切の魂をその御手にお掬いなさる/ほほえみをたたえた半眼の/盧舎那佛」は「西洋の神からのおくりもの」である「施し」とは違って「無辺無限の/世界の隅々に光を放」つだけという比較も考えなければなりません。その二つの神・仏の間で「施しとは無縁な多くのひと」と同じく「わたしたちは/宇宙人のように/じぐざぐに歩き回ってい」るしかない、そんな受け止め方をしました。ある面では仏を観るだけ、ホームレスを見るだけという無力な私たちを見据えた作品とも云えましょう。休日の何気ない風景の中に人間の歴史と業を提示した佳品だと思いました。



季刊詩誌『新怪魚』103号
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2007.4.1 和歌山県和歌山市
くりすたきじ氏方・新怪魚の会発行 500円

<目次>
  山田 博(2)夢のようだが
  前河正子(4)黄楊の櫛
  林 一晶(6)グルメ模様
佐々木佳容子(8)階段
 五十嵐節子(10)秋の積み木
    沙羅(11)夜の音
くりすたきじ(12)北の亡者U
  寺中ゆり(15)ランボーの詩
(うた)
  水間敦隆(16)誤算
  上田 清(18)水の歴史(二十五)
 中川たつ子(20)いくつめの夕ぐれ
 中川たつ子(22)夢の出口
 曽我部昭美(24)麻痺2
表紙イラスト/くりすたきじ



 麻痺2/曽我部昭美

数百人
数千人
数万人
しまいには十万人も
いっペんに焼かれてのおなった
そがいな話ちょこちょこ聞いて
大きなったせえか

数人
数十人
数百人
たまには数千人も
思いがけん災難におうてのおなった
そがいなニュース飛び込んできて
いたましいおもうけど
しんそこびっくらしとらんのや
そいでにどっかうしろめたい気いしてる

 毎日、悲惨な「ニュース」が茶の間に勝手に「飛び込んできて」、その度に「いたましいおもうけど」、本当は「しんそこびっくらしとらんの」ですね。まさに「麻痺」しています。人間の麻痺感覚というのは生きていく上で必要なもののようですけど、それでも「どっかうしろめたい気」がしていると作中人物は言います。この感覚だけは忘れないようにしたいものです。後ろめたさが無くなって、何を聞いても見ても無感動になる……、そんな怖ろしい人間にはなりたくないものだなと思いました。



詩と批評POETICA50号
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2007.4.30 東京都豊島区 中島登氏発行 500円

<目次>
馬/村山精二 586         第十一の書簡−マニュエルの便り/よしかわつねこ 588
野の宴/山中真知子 590      一日は葦のそよぎ/中島 登 593
あなたの夜は/中島 登 596    アダージオ/中島 登 598



 あなたの夜は/中島 登

あなたの夜は
いくらわたしが冷たい雪を降らしても
すぐに溶かしてしまうので
わたしは氷河までいって

氷を砕いて
氷のかけらを
あなたの夜の胴の上に
置くよりほかないと思っているのだが

あなたの夜はそんなに深く
そんなに熱く燃えたぎっていて
そんなに遠い思いをしのばせている

流星にまたがって何億光年かかってもとどかない
妖しく謎めいたあなたの夜に
わたしは燃えつきて灰になる

 「あなたの夜はそんなに深く/そんなに熱く燃えたぎっていて」「冷たい雪」も「氷のかけら」も「すぐに溶かしてしまう」という、なんとも情熱的な作品です。そんな「あなた」に「わたしは燃えつきて灰にな」ってしまうのですが、こんな感覚を素直に持っていた時期はいつ頃だったろうかと考えてしまいました。10年前? 20年前? いやいや、もっと遠い昔だったかもしれません。人間はいくつになっても恋をしなければいけないもの。そう思いながらも現実の生活にアクセクして「流星にまたがって何億光年かかってもとどかない/妖しく謎めいたあなたの夜」なんて、想像すらしていない自分に気付きます。トシを取ることは素晴らしい出会いのチャンスが増えること。そんなふうに思わないとダメなんだろうなと反省させられた作品です。
 なお、今号では拙作も載せていただきました。しかも巻頭の栄誉を与えられて感謝しています。ありがとうございました。



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