きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2007.5.20 栃木市 とちぎ蔵の街 |
2007.6.4(月)
拙HPの誤植にまたまた悩んでいます。先日、ある作品に3ヶ所ほどの誤植があるのを指摘され、すぐに直しました。ところが今日になって作者本人からメールが来て、さらに誤植を指摘されてしまったのです。2人の眼を通してもすり抜けてしまったわけです。もちろんすぐに訂正しました。これで3人の眼が通ったので、その作品についてはもう大丈夫だと思います。
文芸作品ですから念には念を入れているつもりなんですが、なかなか。私自身が皆さまの過去の作品を読み返した場合に発見することも多く、その都度訂正はしていますけど、まだあるだろうなぁというのが偽りのない気持です。紙の本の場合は出来上がりまで4〜5人の眼にさらされるのが普通です。HPの場合は基本的に1人ですから必然的に漏れが多くなる計算です。
そこで皆さんにお願い。誤字・脱字を発見なさったらご面倒でも教えてください。もうすでに何人かの方がお教えくださっていますが、もっと多くの人に参加していただけると助かります。もとの本をお持ちでなくても、常識で考えておかしいなあと思ったことで結構です。ちなみに、この常識で考えて≠ヘ、日本ペンクラブ電子文藝館の校正でも採用していて、常識校正と呼んでいます。これが思いのほか有効なのは文藝館開館から6年の実績で実感しています。
そうなると4〜5人の眼どころか10人、100人の眼になりますね。読者参加型のネット百科事典ウィキペディアはそれをやっているのでしょう。青空文庫もそうかもしれません。そんな有名なサイトではありませんが、拙HPも読者の皆さまがそういう形で参加してくれると嬉しいと思っています。でも、謝礼はありません(^^;
○詩と散文『RAVINE』162号 |
2007.6.1 京都市左京区 薬師川虹一氏方・RAVINE社発行 750円 |
<目次>
詩■
『天野大虹作品集 画と詩』より 写真 1
※
苗村和正/冬の動物園 2 堤 愛子/梅見峠 4
久代佐智子/春寒 6 谷村ヨネ子/かたち 他 8
ヤエ・チャクラワルティ/春一番 11 藤井雅人/石仏 14
木村彌一/好きなものを持ってきなさい 16 村田辰夫/鬼の寒念仏(大津絵図賛・その一) 18
並河文子/まばゆいこと 25 白川 淑/ああ 昭和レトロ[ 28
古家 晶/六甲山で 32 薬師川虹一/待つ 34
木村三千子/小咄 36 乾 宏/死について少しだけ 38
山本由美子/言葉には限界がある 40 成川ムツミ/その人 42
牧田久末/キレイになれるワザ 44 早川玲子/ふと 或ることば 46
荒賀憲雄/空白の彼方に 48 中井不二男/Dali展から 51
名古きよえ/都会の静かな場所 56 石内秀典/行進する木 59
同人語■
木村三千子/天野大虹「白い船」について 21 荒賀憲雄/蒙古斑 22
石内秀典/告発――湯立祭の日に 23 乾 宏/三枚の「白い船」 24
エッセイほか■
村田辰夫/T・Sエリオット詩句・賛(30) 62 荒賀意雄/路地の奥の小さな宇宙――天野忠襍記(十二) 64
<表紙>『天野大虹作品集 画と詩』より「白い船」(1933)
冬の動物園/苗村和正
よく晴れた空にいっとき
スットンキョウなアシカの声が
バケツをひっくり返したようにひびきわたりもするが
冬の動物園はもうひとつの水惑星のように
しずかだ
長い首を空につっこんで
二頭のキリンが颯爽と立っている
(キリンと同じ高さでカゲロウが立っている)
日差しがたっぷりととどくすこし濁った
水槽の底に
ゆったりと腰をかまえた河馬(かば)が
ひとかたまりの大きな水草をうまそうに
食べている
前日に降った雪のかたまりを
不機嫌づらしてけとばしている
ゴリラの夫婦のすぐ近くで
ペンギンたちは
水しぶきをあげてはしゃいでいる
人生の最後の時間を
しづかな冬の動物園のようなところで
ゆっくりとすごすのもわるくはない
あわてんぼうの鬼のように
みじかい冬の夕暮れが無遠慮に園内に入ってくるとしても
天野大虹(隆一)氏の扉詩を除けば、実質的な巻頭作品です。最終連の「人生の最後の時間を/しづかな冬の動物園のようなところで/ゆっくりとすごすのもわるくはない」というフレーズに惹かれます。まだ私には「人生の最後の時間」まで間があると思っていますが、いずれこういう心境になりたいものです。「あわてんぼうの鬼のように/みじかい冬の夕暮れが無遠慮に園内に入ってくる」という詩語も効いていると思います。諦念ではなく、自然に全てを受け入れている佳品と云えましょう。
○詩誌『帆翔』41号 |
2007.5.25 東京都小平市 《帆翔の会》岩井昭児氏発行 非売品 |
<目次>
森/茂里美絵 2 ある日一樹は/荒木忠男 4
銃身/小田垣晶子 6 薔薇/三橋美江 8
いつもの午後/渡辺静夫 10 春の日に/坂本絢世 12
愛すべき我がネコへ/大岳美帆 14 夢路の果て/長谷川吉雄 16
吉備路/吉木幸子 18 マグニチユウド10+α/岩井昭児 20
随筆
不思議な一日/坂本絢世 22 車椅子/小田垣晶子 24
橋の上で/大岳美帆 25 「三の力」/渡邊静夫 26
奴隷/茂里美絵27 まれに魚煮て=^三橋美江 28
◎荒木忠男詩集『夕日は沈んだ』に寄せられた感想について 29
※受贈詩誌・詩集・書籍等紹介 2〜
※あとがき/同人連絡先 19/32
銃身/小田垣晶子
あなたは戦列を離れた
いつものように政治の悪口
老人医療費の高いことなどの
悪口を云おうと思って電話したら
入院しているとご主人が言った
しばらくしてお見舞いに行った
あなたは戦列を離れた
左半身がマヒしていた
でも意識はあった
マッサージをし水を飲ませてあげた
あなたは喜こんで
束の間の私の看護を受け入れた
あなたは戦列を離れた
わたしは残され泣くこともできない
おしゃれな人だった 宝石が趣味
でも指には一つのリングもなかった
首すじが細かった
友よ 逝くな! 死ぬな!
戦列を離れた友を背後に
銃身を支えにわたしはかろうじて
戦列の端に残る
タクシーで帰宅したら寒かった
梅の花が夜道に白かった
「戦列を離れた友」を労わり、「残され泣くこともできない」自身を労わる作品だと思います。「友よ 逝くな! 死ぬな!」は強烈だ直接的すぎる言葉かもしれませんが、これは本音なのでしょう。そう書かざるを得ない作者の気持がよく伝わってきます。「銃身」は杖なのかもしれません。「戦列」という言葉と対になって効果的と云えましょう。最終連の「タクシーで帰宅したら寒かった/梅の花が夜道に白かった」はこの作品の締めとして、これも効果的だと思いました。
なお第3連の「首すじ」は、原本では首すぎ≠ニなっていました。誤植と思い訂正してあります。ご了承ください。拙HP読者のご指摘に拠ります。ご指摘ありがとうございました。
○詩とエッセイ『樹音』55号 |
2007.4.30 奈良県奈良市 樹音詩社・森ちふく氏発行 400円 |
<目次>
特集 め
目/かりたれいこ 2 見える/汀さらら 3
目を見つめる眼/結崎めい 4 寒さに震えて/中谷あつ子 5
芽/寺西宏之 6 燈火会の芽/森ちふく 7
邁(め)/大西利文 8 芽吹き/板垣史朗 9
ノスタルジー/かりたれいこ 10 忍辱山 他1編/汀さらら 11
赤い実をつけた一本の木/結崎めい 13 今日も一生 明日も一生/中谷あつ子 14
空虚/寺西宏之 15 カウラで/森ちふく 16
般若寺界隈/かりたれいこ 17
樹のこえ 19
編集後記 20
樹音・会員名簿 21
表紙題字・大西利丈
目を見つめる眼/結崎めい
久しぶりに小アジ
十数匹をさばいた
小アジたちの生きた歴史
でふくらんだハラワタを
つまみ出す
次・次・と
私をにらみつける
ハラワタのなくなった
アジたちの目は
容赦なく 私の
からだ
心身の奥の
思惑をさぐりだす
黒くはないか
汚れてはいないか
と
「特集 め」の中の1編です。それこそ目の付け所がおもしろい作品です。タイトルに拘れば、「アジたちの目」ですから目≠ヘアジ、眼≠ヘ「私」ということになりましょうか。アジの目を見つめる私の眼、で良いと思いますが、内容からするとアジの目に見つめられ私の眼でも構わないでしょう。
最終連が良く効いています。「ハラワタのなくなった/アジたち」から、「私の/からだ/心身の奥」は「黒くはないか/汚れてはいないか/と」問われます。もちろん人間のハラなんか誰もが真っ黒。言外にそれを感じさせて、うまくまとまったと思います。
○詩誌『詩区 かつしか』93号 |
2007.5.27 東京都葛飾区 池澤秀和氏連絡先 非売品 |
<目次>
人間83 広島/まつだひでお 人間85 老境に入る地球/まつだひでお
奥へ/小川哲史 加賀の夕暮れ/小川哲史
鷺山/小林徳明 真善美/小林徳明
遺作−世界遺産 ワルシャワ−/池沢京子 代掻(しろか)き/みゆき杏子
虫/しま・ようこ 鉄腕アトム/工藤憲治
出稼ぎウルトラマン/工藤憲治 箱根で/内藤セツコ
店先の会話/池澤秀和 電報/石川逸子
猫が耳をそばだてるとき/青山晴江
人間八十五 老境に入る地球/まつだ ひでお
喜びや哀しみがみんな私の前から消えはててしまい
欠乏に苦しみつつ私が盲目になって立ちつくす
長い時間の重さに耐えかねて私のからだが曲がり
私の魂が冷たく青ざめ
死者達の住むもの言わない国と
蟻地獄の中へ崩れ落ちようとしている
盲目のまま放浪を続けるこの身に
ケロイドとなってこびりついた死者達
この世に何を訴えようとするのか
いくつもの国々街々をさすらいゆく
人は誰でも故郷をもつ
帰郷とは「根源への近さ」へと帰り行くことだ
根源そのものではないのだ
地球という故郷は根源そのものではなく
「根源への近さ」をゆうのである
地球は何処へ回帰するのだろう
人間は地球を責めぬいたうえ
あなたをごうごうと燃えさかる太陽に近づける
宇宙の炎と化し塵になって回帰するのか
人間の前頭葉を撃ちぬき野蛮人の燃えがらを
地球から遠く故郷から出来る限り遠くへ捨て去るのだ
太陽の美しさ絶対の力を人間は知らなかったのだ
死んでいった人達を受け入れてくれた自然を忘れてはならない
人間の数々の悪業を地球が昔からずっと受け入れてくれている
ことを忘れてはならない
地球はやがて老境に入るのだから
「地球はやがて老境に入る」ということを頭では判っているつもりでも、なかなか実感は持てませんでした。しかし「人間の数々の悪業を地球が昔からずっと受け入れてくれている」を見ると、人間のせいで地球は老いているのだなと思うようになりました。「死んでいった人達を受け入れてくれ」て、それも老いへ繋がっているのかもしれません。
「帰郷とは『根源への近さ』へと帰り行くことだ/根源そのものではないのだ」というフレーズにも考えさせられます。ふるさとは根源ではない、あくまでも根源に近いところにすぎない、という意味だろうと思います。だから帰郷は決着ではない、決着をするために近いところへ帰るにすぎない、と読み取りました。深い哲学的な作品だと思います。
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