きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2007.8.20 神奈川県真鶴半島・三ッ石 |
2007.9.2(日)
誘われて茨城県結城市と栃木県宇都宮市を巡ってきました。結城は「ゆうき図書館」に新川和江さんのコレクションがあるから見に行こうというもの。宇都宮は、どうせ結城に来るんだったら近いから呑みに来い、というものでした。
新川さんのコレクションは話には聞いていましたので、一度訪れてみたいと考えていました。実際に見てみると圧倒されますね。約50mに渡って詩書が並んでいます。1万冊ほどを寄贈したそうで、そのうちの7千冊ばかりが開陳されているとのこと。私も1万冊の蔵書を豪語していますけど、薄い詩誌も含めての話で、ほとんど単行本ばかりの7千冊の量は壮観です。全国の詩人から寄贈された詩書が主ですので、あなたの本もあるかもしれません。一度訪れてみてください。
午後からは図書館の会議室で開かれた、地元の詩の教室に参加させてもらいました。新川さんが講師をしている会で、新川さんも出席予定とのことで楽しみにしていたのですが、急用が入って欠席。残念な思いをしたんですけど、代わりの講師は旧知の詩人。私がいることに驚いて、嫌がっていました。冷やかされると思ったんでしょうね。もちろんそんなことはしません、、、しなかったと思います(^^; 立派に新川さんの代役を努めていました。
出席者は24名。正直なところ驚きました。昨日の日本詩人クラブ研究会は28名の出席。それに匹敵する人が結城では集まるのです。新川さんの影響力の大きさを感じました。提出された作品も佳品が多かったです。特に山中さんという女性の「機転丸鈍下し(きてんがんどんくだし)」は傑作。機転が利かず、ドンクサイ「私」に、母が架空の薬を与えるというもの。それを飲んで手強い伯母の家へ向かった≠ニいうオチに会場は爆笑の渦。日本にはまだまだ隠れた逸材がいるのだなと実感しました。
夕方からは宇都宮に出向いて、当地で開かれた詩の研究会の懇親会に合流。見知った人たちばかりですから、なごやかに旧交を温めました。そのあとはいつもの居酒屋でカラオケ三昧。したたかに呑んで、帰宅は午前1時に近かったのですが、心地よい疲れでした。栃木はいつ行っても和みます。それに新たに結城が加わって、親父の実家の福島県を取り巻く北関東は、やはり良いなと思います。おもしろい小旅行を計画してくれ、連れていってくれた皆さんに感謝します。ありがとうございました!
○詩誌『砕氷船』15号 |
2007.8.31 滋賀県栗東市 苗村吉昭氏発行 非売品 |
<目次>
詩 先古代のサイコ・ロケットは今も宇宙・無限の海に遊弋するか/森 哲弥…2
アッラ・トゥルバドル/苗村吉昭…36
小説 脳髄の彼方(9)/森 哲弥…48
随想 プレヴェールの詩をどうぞ(8)/苗村吉昭…54
エッセイ
六十四歳の入園児/森 哲弥…60
名付け親認定書/苗村吉昭…61
表紙・フロッタージュ 森 哲弥
この町には昔から井戸があった
多くの人が苦労して探り当て
堀り抜いた井戸だ
その井戸はラァに守られ
ワイ(水)はいつまでも減ることはなかった
町の様子が変わり
人の姿が変わっても
井戸はいつも同じだった
ワイ(水)を汲むために
人は井戸のまわりに集まっては去ったが
ワイ(水)はただそこにあった
しかしある日
ツルべが壊れた
ワイ(水)はあるのに
人が汲み上げることができない
飲めるワイ(水)なのに悲しいことだ
やがて井戸は忘れ去られ
町に埋もれた
ものを見る目を持つ人があれば
埋もれた井戸を見つけ
飲めるワイ(水)を見つけることができるだろう
そのとき皆は喜び
澄んだ冷たいワイ(水)で喉を潤す。
紹介した詩は苗村さんの「アッラ・トゥルバドル」の作中詩です。「アッラ・トゥルバドル」は人名で、竪琴を弾く詩人という想定。古代の架空の国の物語と謂ってよいと思います。作中詩の背景は、王が成すべきことは何かと問うたところ、その回答として吟じられた詩です。4行目の「ラァ」は太陽という意味で、高貴な人への尊称としても使われています。
そんな背景は背景として、この作中詩はこれだけでも独立した詩になっていると思います。「忘れ去られ」た「井戸」であっても、「ものを見る目を持つ人があれば/埋もれた井戸を見つけ」られるということは、いろいろな場面に当てはまると云えましょう。それをこの作中詩から感じ取りました。
○詩誌『あかぺら』12号 |
2007.8.1 滋賀県守山市 徳永遊氏発行 非売品 |
<目次>
詩
中川江津子/傾ぐ・招待状 3
徳永 遊/手・端・耳鳴り生活 9
山本英子/やわらかな日々・みっしょん・母とは誰か 17
エッセイ
中川江津子/美しい国 24
徳永 遊/不安 25
山本英子/スイートピーが咲いて 26
傾ぐ/中川江津子
背筋をしゃんと伸ばして
両足を揃えて立ってきた
つもりだったのに
いつの間にかほんの少し片方の足がずれている
揃わないままに歩いてきたのだろうか
意地はって
前を見ないで 下ばかり見て
だのに揃わない足に気がつかなかった
歩くのに力がいるようになってきた
左足が前に進まないのだ
どうすれば
前に進むことができるのだろうか
歩くことができるのだろうか と
考えなければ足が動かない
これから先 もっともっと
動かなくなるかもしれない
動かない足を引きずりながら
そうやって西日のあたる海に辿りつくのか
今日も海に沈む日が大きい
第3連の「そうやって西日のあたる海に辿りつくのか」というフレーズは西方浄土を指していると思ってよいでしょう。この表現もおもしろいのですが、この詩は最終連にたった1行置かれたフレーズが素晴らしいと思います。文字通り「今日も海に沈む日が大きい」と採れますけど、私には死者たちの数が思い浮かんできました。その日に亡くなった大勢の死者を連れて沈む太陽。極楽浄土への道を歩む穏やかな死者の群が見えてくる作品です。
○詩誌『橡の木』18号 |
2007.9.15 東京都羽村市 500円 内山氏方・詩の教室「橡の木」の会発行 |
<目次>
多摩川まで…内山登美子 4
雨が降ると…安藤初美 6 伊佐沼…高橋裕子 8
うさぎ…村尾イミ子 10 各駅停車…木村和子 12
白い蕾…岡ななみ 14 名前がつく…内田範子 16
にんぎょひめ…狩野貞子 18 拾う…池田君代 20
まなざし…宇津木愛子 22 私の誕生日…吉田雅子 24
わたしは走る…塩野とみ子 26 (掲載は題の五十音順)
詩集紹介
狩野貞子詩集『春の言ふれ』に寄せて…塩野とみ子 28
『春の言ふれ』狩野貞子さんの詩集を読んで…高橋裕子 29
課題エッセイ「花」…30〜37
編集後記
うさぎ/村尾イミ子
三日ばかり留守にするから
兎の世話をたのむと 息子は出かけて行った
兎は息子の部屋にいて
いつもは一緒にテレビを見ている
(あるいは 聴いている)
言葉は出ないけれど
すべてを噛み砕いて理解しているような
そんな兎だ
詩を読んであげるからさ
パサパサの餌より滋養があるよ
わたしは餌の代りに 詩を朗読する
きずだらけのこころはときどき
ひらがなのくさむらにかくします
しかくいもじはかどがあたっていたいのです*
深山の湖のような静けさで
ぴんと耳を立てたまま 兎は聴いている
兎は お腹がすくと ハーモニカを吹く
部屋から周波の高い音が かすかにして
かあさん 餌やってくれた?
息子はどこにいても この周波が聴こえるらしい
おいしい詩を食べさせたから
え?
電話の向こうの息子に言ってやるのだ
難解な詩は 消化不良をおこすからね
*きずだらけのこころは 新川和江
本当に「難解な」ところがなく、よく分かる詩です。特に最終連の「難解な詩は 消化不良をおこすからね」が効いています。その対極として新川さんの詩も効果的に使われています。同居している「息子」との関係も微笑ましく、好感の持てる作品だと思いました。
○詩誌『詩区 かつしか』96号 |
2007.8.26 東京都葛飾区 池澤秀和氏連絡 先非売品 |
<目次>
一票/しま・ようこ 五霞(十三)−赤ひげ先生−/みゆき杏子
面影(一)−八月十五日−/池沢京子 ぼくらの失敗/工藤憲治
蜘蛛女/工藤憲治 絵が届く/内藤セツコ
イラクの花/石川逸子 朝な夕なに・・・/池澤秀和
告白/青山晴江 人間87 スペルマとウイルスとガラス玉/まつだひでお
人間90 野犬狩り/まつだひでお 母恋し−母十三回忌法要に際して−/小川哲史
虫の好かない/小林徳明 朝刊を見て/小林徳明
母恋し−母十三回忌法要に際して−/小川哲史
独身のころは、大晦日に、母がひとり住まいをしている実家に
帰ること慣わしとしていた。
隣の従姉によると、 私が帰る日
には、母は、酢牡蠣をつくり、朝から風呂を沸かしていたとい
う。いつの時刻に帰ってくるのか分からない私を待って。
ノックをしないでトイレの扉を開けたところ、母が背を向けて
座っていた。ゴメンな、母さん。茅ぶき屋根の家で生まれ育っ
たあなたを、牢獄のような鉄筋コンクリート造りの部屋に閉じ
こめ、西洋式便器の使い方をも教えなかった。
朝、母の寝室を覗いたら、畳の上にトランジスタラジオが放り
出され、アンテナがグニャリと曲がっていた。どうしたんだと
聞くと、昨夜、カープが逆転負けしたので、ラジオを投げつけ
たのだという。母のコイキチには私も負けていた。
グァム島から帰還した横井庄一元陸軍伍長、ルパング島から帰
還した小野田寛郎元陸軍少尉のように、夫(マッキンタラオ島
で戦死したとされる私の父)もきっと帰ってくると信じて、母
は生涯を閉じた。
もういけない、という連絡を受けて、病院に駆けつけたときに
は、母の意識はない気配であった。耳元に口を寄せて名を告げ
たとき、閉じられていた唇が僅かに開いた。それが、母の私に
対する今生の別れの挨拶であった。
「母」という人間像がよく描かれていると思います。特に第3連の「コイキチ」が良いですね。すべての連で「母」が語られていますけれど、意外性があってここが一番よく伝わってきます。「母十三回忌法要に際して」という副題ですから、もう一昔以上も前のことになりますが、男にとっての母親とはいつまでも記憶に残るものだと、私自身の体験からも納得しています。こう書かれた母上も本望でしょう。供養の作品になったと思います。
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