きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
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2007.9.9 東京・浅草




2007.10.10(水)


 山陰の旅・3日目は島根県安来市の「足立美術館」に行ってみました。横山大観が充実していました。川合玉堂、上村松園、鏑木清方などもありましたが、1〜2点しかないというのは個人の収集では限界があるのことで、止むを得ないところでしょう。それに比べて庭園は迫力がありました。ただし、眺めるだけの庭で、一歩も足を踏み入れられないというのは残念でありましたが。

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 写真は庭園の一部。全体はこの10倍ほどになりましょうか。この、見るだけ、人の立ち入りを拒否するという広大な庭園にこの美術館の姿勢がよく現われていると思います。どうだ、いいだろう!と見せるだけで満足しているようです。その風景に人が立ち入って、同化した絵を見せる、という発想ではないと思います。絵も大作家のものは熱心に集めているようですが、新人を発掘するという気概は無いでしょう。
 茶室でお茶を所望しましたが、ここでもがっかりさせられました。1970年の開館記念として製作したという、純金製の茶釜で沸かしたお湯が使われて、ご丁寧な説明とともに出てきましたけど、それがなぁーに?と思ってしまいました。それも窓越しに茶釜を見せてくれるという念の入れようで、思わず失笑してしまいました。

 ま、それぞれの人のそれぞれの立場、それぞれの価値観で活動しているわけですから、私がとやかく言う筋合いではありませんけど、硬直した姿勢にはちょっと馴染めなかったというだけの話です。集められた大観、玉堂、松園、清方の絵にも、集められた石や樹木にも責任はありません。それをどういう思想で生かすかがコーディネーターの仕事だろうなと思った次第です。



坂田洋美氏著『ウグイスが鳴いている』
――私の介護日記――
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2001.11.17 東京都国分寺市 武蔵野書房刊  1800円+税

<目次>
はじめに…4     一九九四年…5    一九九六年…11
一九九七年…70    一九九八年…207
.   ふり返って…234



 ごっつんこ

足湯を終えて
「はい」と言って父の顔を見る
目と目が合って
満足の父は頭を寄せてくる
私は父のおでこに私のおでこを合わせて
「ごっつんこ」
「ごっつんこ」
「ごっつんこ」
だけど
手はそうはいかない
にぎりしめた左手をそおっと開くのだが
開くと痛いらしい
左手を洗面器中でこじあけて洗っていると
右手でほっペたをピシャリとたたく
でも全然痛くない
右手で水をかける時もある
そんな時は水をかけ返す

 痴呆の実父を自宅で介護した記録です。「介護日記」として知人に配布していたものを武蔵野書房さんが本にしてくれた、と「ふり返って」にありました。紹介した詩は父上が亡くなる2ヵ月ほど前の日記に挿入されていた作品です。父と娘の行為に、人生最期の幸せとは何かを考えさせられました。
 次に紹介するのは、亡くなったあとでのことです。

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 「淋しくない」
 父が亡くなって「淋しくなられたでしょう」といって慰めて下さる。けれどもそんなに淋しくない。
 亡くなった次の日から、父のことを話しては笑い合った。何かこう、空間にいつもいてくれているという感じ。
「充分な介護をされたから、そうなのでしょう」とも言って下さる。
 そうなのかなあと思ってみるが、よく考えてみたらそうではない。言葉にしにくいが、一言で言えば再び父に育ててもらったということなのかもしれない。介護しなければ、決して得ることのできない宝の数々を私はいっぱいもらったのだ。
 そしてその宝は外に出かけていってさがすものではなくて、自らの井戸を掘ることによって湧き出てくる泉のようなものだ。
 そういう大切なことを教えてくれた、その感謝に満たされているということだろうか。
 友人の五十嵐さんが、ご父母を亡くされ何年か経って私が父母を看ているのを見て、「今やったら、ただ生きているだけでいい。いてほしいと思うわ」としみじみ語られていた。俳句の師が、しばらくたつと本当に悲しく淋しくなってくるのですよ、と言われていた。
 深い悲しみを味わうのは、これからなのかもしれないが……。

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 「空間にいつもいてくれている」、「介護しなければ、決して得ることのできない宝の数々」などの言葉の裏には、実は言い表せない苦労の数々があったことが介護日記で判ります。それを越えて、この言葉に至ったことに感動しました。人生の最後の時期を病院で看取られるのが当たり前になった現在、自宅で介護するとはどういうことか、教えてくれ、考えさせてくれる一冊です。お薦めします。



上坂高生氏著『賞の通知』
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2004.9.30 東京都国分寺市 武蔵野書房刊
2000円+税

<目次>
清書…5
選評…65
夏の取材…103
発掘…149
三朝
(みささ)温泉――城崎から三佛寺投入堂まで――…189
あとがき――文学賞との関わり…229



 十一月十三日の夕方、流し場で大根を洗っていると、わきのガラス戸を叩く者がいた。勝手口だが、この戸を開けたことはない。何者か、と外を見ると、淡い電燈にすかして、郵便局員の姿があった。
「電報です」
「電報?」
 不審さに首をひねりながら、ガラス戸を両手で持ちあげ、浮かせて、少し開いた。
 局員は黙って紙を一枚渡した。自転車のペダルを漕いで去った。何だろう、と紙を拡げる。
『ショウセツシンチョウショウ」トウセンシタ・ニワ』
 何だ、これは、と眉を寄せ、首をひねる。片仮名ばかりの文面では、すぐには頭にはいってこない。読みなおしてから、ええっ、と思わず口に出した。青天の霹靂とは、このことか。信じ難い。三度四度と読みなおす。完璧な忘却のはてから、戻ってきた。
 発表がいつあり、賞金はいくらなのか、いっさい知らない。中間発表があったのかどうかも知らない。あの「新潮」における小さな募集広告の項目で、五十枚という枚数と締切り日以外は、何も見てはいなかった。
 私は座机のはじに、腰を下ろし、身動きもしないで、長い時間、電報を手にしていた。頭の中が固まったままでいる。
 あくる朝、職員室に入り、出入口際の一年担任の席の傍を通る時、かの女の机の上に、電報を裏返して置いた。職員室は打ち合わせ前で、ごたごたしていた。私は四年生担任の運動場側の席についた。かの女は紙片を見ていたが、やがて鞄の中にしまい込んだ。帰りに寄った。
「おめでとう、良かったわね」
「君のおかげだ」
 細いかの女の胴に両手を回し、三回四回と回った。スカートの裾が拡がって輪を描く。そのうち目眩がして、重なって倒れこんだ。
 新潮社から至急電報が届いてきたのは、十一月二十五日の夕方のこと、郵便局員は二回届けにきた、といささか膨れっ面になっていた。
『(ミチシオ)ショウセツシンチョウショウニトウセンケツテイ」シキュウレンラクコウシンテウシヤ』
 あくる十一月二十六日、各新聞の朝刊にいっせいに載った。社会面の片隅の小さなもので、簡単な文面である。新聞記事により、「記念品と賞金十万円」と知るありさまだ。表彰日を書いたものはない。
 学校に出たものの、素知らぬ顔をしていた。学校の勤務とは全く関係のない事柄である。学期末が迫っての多忙さと、小さな記事は見落としてくれたか、騒がれることはなかった。記事を目にした者がいても、口をつぐんでいた、とも考えられる。
 追いかけて、新潮社から書類が届いた。表彰式、と指定された当日、午後、年休をとった。出世欲旺盛な校長は、あちこちに顔を出しに行き、学校は留守がちである。その分副校長は多忙だが、どうぞ、と書類をめくりながら、気安く許可した。午後の授業はなかった。

 二時前に、新宿区矢来町にある新潮社に着いた。出入口は、扉一枚の、いたって質素なもの、といえた。扉を開けて入ると、すぐ右側に受付があり、女の人がひとり坐っていた。私が名前を告げると、電話をかけた。さほど待つ間もなく、背が高く、眼光の鋭い男がやってきた。どうぞこちらへ、と三十代と思える男は、小さな部屋に入れた。机が一つあり、椅子が二つ並んでいる。
「名前は何とおっしゃいますか」
 これは人物の確認なのだな、と思った。住所も聞いたし、勤め先も聞いた。にこりともしない。大出版社の編集部の人となると、こういう恐い感じなのかな、と思う。先導されて廊下を歩いても、二階への階段を歩いても、誰ひとりとして会わない。やがて、広い部屋に通された。まん中の椅子に私を坐らせ、その男は、私の視野から消えた。部屋から出ていったものか、後ろに坐っているものか、首を稔って、彼の位置を捜すことはしない。やがて、前方の左側の扉が開き、男が五人、姿を見せた。壁ぎわの長い卓の椅子に、次つぎに坐る。私はその人たちを見て、思わず吹き出しそうになった。それを抑えるには努力がいった。まるっきり印で捺したような、長い顔の人ばかりである。新潮社をおこした佐藤義亮という人は、こういう顔だったのか、と想像した。義亮氏はとっくに亡くなっている。その子たちである。私は唾を呑みこんで、背すじを立てた。
「作品の舞台は江東区あたりですか」
 まん中の人が聞いた。関西弁で書いてあるのに、東京の地名を出すので、意外な気がした。どの人も作品を読んでいるのだ。初めは選考委員たちが候補作の生原稿を回し読みしているもの、と思ったけれど、新田次郎さんが、これが今回、サンデー毎日で落とされたものです、と活字に組んだものをあるじに渡した。あるじは、それをめくって見ていたが、傍に坐っている人に、何とかしてやってくれ、と言って渡した。この作品が「文学者」に載った唯一の新田さんの作品となったが、候補作品はすべて活字になって選者に示されている、と判った。――
「鶴見川の下流の低湿地帯です。河口附近は埋め立てによって京浜工業地帯になっていますが、その内側には、沼地が拡がっているのです」
 私は答えたが、室内は静まり返っている。
「第一回の小説新潮賞となりました」と少し間をおいてから別の人が口を開いた。「今後の希望について、お尋ねします」
「たいした期待は持っていません」
 私は小さな声で言い、言い終わったとたん、しまった、と思った。大いに頑張ります、とでも言うべきだったか。しかし、言葉をつけ加えることはしない。またしても沈黙の時間が流れる。
「一月二十日までに、五十枚の作品を書いてください」
 はじの人が言った。はい、と私は答えた。しかし、こんなに素速く次作の注文を受けるとは予想していなかったので、少し戸惑った。
「では、これで」
 社長以下重役の人たちは立ちあがり、部屋から消えた。賞状でも、渡されるかと思ったが、その気配はなかった。何とも素気ないものだったが、たくさんの人を集めて仰ぎょうしくやられるよりは、ありがたい。両肩を落として、ひと息ついた。平然としていたつもりでも、やはり緊張していた。
「どうぞ、こちらへ」
 最初の人が寄ってきた。広い部屋から、階段を降り、小さな部屋に案内した。はじめ来たときの部屋だ。別の年輩の人が箱を抱えてきた。名刺を出すので、見ると、丸山泰司とある。新潮社の名編集者として、あるじから名まえを聞いたことがある。私は名刺を出すことができない。持っていないのだ。
「これが記念品と賞金です」
 箱と大きめの封筒を机上に乗せた。写真を写す人が来て、何枚も写真をとった。
「どうぞ」
 封筒を手渡され、肩掛鞄に入れた。
「送って行きます」
 丸山さんは箱に紐を掛け、提げられるようにした。箱は丸山さんの手にある。
 受付わきを過ぎ、扉の外に出ると、写真の人が待ち構えていた。鞄をわきに下ろさせられ、また何枚も写真をとる。一枚か二枚だけでいいではないか、と言いたくなる。
「緊張しないでくださいよ」
 横から丸山さんが言う。緊張しているのかな、と思う。タクシーが来て、ようやく撮影は終わった。
 丸山さんは、私を先にタクシーに乗せる。荷物はやはり丸山さんが持って、いっしょに乗った。
「新聞発表したその日のうちに、日活・松竹なんか、映画会社すべてから、映画化の申し込みがありましたよ」
 へえ、と私は声をあげる。思ってもみなかったことだが、映画全盛の時代、あり得ることだ。それだけの期待があったのだろう。純文学雑誌なら、あり得ないことではないか。私の今までの作品すべて、映画化なんか、出来るものではない。今回の作品でも同じだ。
「映画向きではない、と言っておきましたよ」
 丸山さんは、笑いを浮かべて言う。
「挿絵を朝倉攝さんに依頼したら、朝倉さんは、こんな作品初めて読んで感動した、と言っていましたよ」
 高名な画家の朝倉さんが、評価してくれたのか、と嬉しくなる反面、ひどく恐縮してしまう。
 タクシーを停めた先を見ると、新橋駅となっていた。こんな所まで送ってくれたのか。せいぜい四谷かお茶の水くらいと思っていた。タクシーは去った。
「記念品は、外国製のラジオです」
 丸山さんはそう言って、荷物を私に渡した。重いものではない。新橋駅の構内に入って振り返ると、丸山さんの姿はなかった。一年のうちでいちばん昼の短い季節、すでにあたりは暗くなり、街の灯が輝きを増していた。

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 本著の「三朝温泉」は紀行文ですが、他の4編のエッセイは文学賞受賞に関するものです。「清書」は作品『みち潮』により第1回小説新潮賞、「選評」は『少女暴行』により第15回作家賞優秀候補になったもの、「夏の取材」は『信彦と新しい仲間たち』で日本児童文芸家協会新人賞候補に、『あかりのない夜』で第4回ジュニア・ノンフィクション文学賞を受けたこと、そして「発掘」は第7回横浜文学賞を受賞したときのことを書いたものです。
 特に「選評」は選考委員の選評のいい加減さが面白く、何度か詩の新人賞選考委員をやってきた私には耳が痛いところもありましたが、ここでは更に面白いと感じた「清書」の受賞の知らせから授賞式までの部分を紹介してみました。文中の「あるじ」は私淑していた丹羽文雄氏のことです。時代は1955年、当時の「賞の通知」の仕方が判って興味深く拝読しました。今は携帯電話に連絡が来ますからね。賞金の10万円は、今の金額に換算すると100万円ぐらいでしょうか、記念品の「外国製のラジオ」にも時代を感じさせます。それぞれの小説は残念ながら未読ですが、賞に関心のある方には本著がお薦めです。



小川和彦氏著『テムズ川橋ものがたり』
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2006.5.27 東京都国分寺市 武蔵野書房刊 1800円+税

<目次>
はしがき …5
ウエストミンスター橋 ――ビッグ・ベンと大観覧車
(ロンドン・アイ)―― …9
ランベス橋 ――悲劇重なるランベス地区―― …54
ウォータールー橋 ――「哀愁」の橋霧の街―― …85
ロンドン橋から塔橋
(タワー・ブリッジ)へ ――夏目漱石の歩いた道―― …119
ミレニアム橋
 ――あとがきにかえて―― …157



 ロンドン橋の中ほどから下流に目をやると、真っ正面にタワー・ブリッジが見えて、まさに絶好のシャッター・ポイントとなっている。タワー・ブリッジはロンドン観光の目玉のひとつなので、ロンドン塔にそったその橋の近くでは、多くの人々が盛んにシャッターをきっているが、タワー・ブリッジの全景を正面から撮りたいのなら、ロンドン橋の上がおすすめの場所である。そしてまたこの橋の上に立つと、思わず「ロンドン橋落ちた」という唄が、口をついて出てくるのでもある。ぼくはこの唄を、

 ロンドン橋 落ちた
 落ちた 落ちた
 ロンドン橋 落ちた
 ロンドン橋

と記憶していた。しかもこの部分だけしか、知らなかったのである。この項を書くにあたって調べてみたら、かなり長い唄であり、また四行目が「マイ フェアー レディ」という呼びかけになっていることを初めて知り、自分の不明を恥じているところだ。そこで最も標準的な歌詞として知られている『オックスフォード童謡辞典(
The Oxford Dictionary of Nursery Rhymes; edited Iona & Peter Opie, Oxford Clarendon Press, 1973)』に採録されているものを、次に紹介しておこう(訳詩は筆者、なお意味を優先したので、歌うには適していないことをお断りしておく)。

 ロンドン橋が落ちる
 落ちる 落ちる
 ロンドン橋が落ちる
 わたしのきれいなお嬢さん

 木と粘土でお造りよ
 木と粘土で 木と粘土で
 木と粘土でお造りよ
 わたしのきれいなお嬢さん

 木と粘土はさらわれる
 さらわれる さらわれる
 木と粘土はさらわれる
 わたしのきれいなお嬢さん

 煉瓦とモルタルでお造りよ
 煉瓦とモルタル 煉瓦とモルタル
 煉瓦とモルタルでお造りよ
 わたしのきれいなお嬢さん

 煉瓦とモルタルは崩れちゃう
 崩れちゃう 崩れちゃう
 煉瓦とモルタルは崩れちゃう
 わたしのきれいなお嬢さん

 鉄とはがねでお造りよ
 鉄とはがねで 鉄とはがねで
 鉄とはがねでお造りよ
 わたしのきれいなお嬢さん

 鉄とはがねは曲がっちゃう
 曲がっちゃう 曲がっちゃう
 鉄とはがねは曲がっちゃう
 わたしのきれいなお嬢さん

 銀と金とでお造りよ
 銀と金とで 銀と金とで
 銀と金とでお造りよ
 わたしのきれいなお嬢さん

 銀と金とは盗られちゃう
 盗られちゃう 盗られちゃう
 銀と金とは盗られちゃう
 わたしのきれいなお嬢さん

 寝ずの見張りをさせようよ
 寝ずの見張りを 寝ずの見張りを
 寝ずの見張りをさせようよ
 わたしのきれいなお嬢さん

 見張りが眠ってしまったら
 眠ってしまったら 眠ってしまったら
 見張りが眠ってしまったら
 わたしのきれいなお嬢さん

 夜じゅうふかすパイプをあげな
 夜じゅうふかせ 夜じゅうふかせ
 夜じゅうふかすパイプをあげな
 わたしのきれいなお嬢さん

というものである。
 この唄は子供の「あそび唄」で、「マザーグースと絵本の世界」(夏目康子・岩崎美術社・一九九九)に、かなり詳しくこの唄について書かれているので、興味ある方はそれを参照してほしいと思う。
 この唄に歌われているように、ロンドン橋は歴史的に何度も「落ちて」いるのだ。まず最初に「落ちた」のは、一〇一四年にエセルレッド王とノルウェー王のオーラフが、デーン人の侵入を防ぐために橋を焼いたと、「ロンドン百科事典」に記されている。しかしこの記述は「アングロ・サクソン年代記」の記述とは、少々矛盾する点があるのだ。「年代記」の一〇一三年条には、デンマーク王のスウェインが大軍を率いてウインチェスターからロンドンに至り、「多くの部下たちがテムズで溺死をした。というのは川に橋を見出せなかったからである」と記されている。すなわち一〇一三年には当時テムズに架けられていたはずの唯一の橋が、「見出せなかった」のである。川に橋はなかったのだ。この唯一の橋は当然「ロンドン橋」であったはずだし、その橋は「百科事典」にある「一〇一四年」以前に「落ちていた」ということになろう。

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 170頁ほどの比較的薄い本ですから、正直なところすぐに読み終わってしまうだろうと思っていましたが、そうはいきませんでした。題名通り、ロンドンのテムズ川に架かる橋のエッセイで、それが面白いのです。歴史的な背景から現在の状況までが興味をそそられる名文で書かれていて、ついついロンドンの市街地図を引っ張り出して、それと見比べながら拝読してしまいました。行ったこともないロンドンですが、地図の地名と文章とが見事にマッチして、まるで私がその場にいるような錯覚に囚われてしまいました。そんなわけで2日に渡って楽しませていただいた次第です。

 紹介したのは「ロンドン橋から塔橋へ」の一部で、有名なロンドン橋落ちた≠フ考察です。私も最初の3行ぐらいしか知らなかったのですが、こんなに長い唄とは思いもしませんでした。ただの紀行文ではなく、訳詩までして、歴史的な背景も論じている好エッセイだということがお判りいただけると思います。ロンドンに興味もがある人もない人も、お薦めの1冊です。



太田眞紗子氏著『耳で書いたエッセー』
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2007.5.30 東京都国分寺市 武蔵野書房刊 1800円+税

<目次>
T「音楽をする」というドイツ語
うたびとK様への手紙 8          音楽に思う 11
ムズィツィーレン 15            音楽の音づくり 20
目と耳 22                 心の耳 24
動物の言葉 26               音の記憶 29
耳の環境 32
U 言葉の音について
耳からの日本語 38             最初の音 45
短詩形文学への想い−場の中の個− 48    或る日本語 55
共鳴 58                  マザータン
mother tangue)61
アウフ・タクト(
Auf−takt 弱起)64     弾み 66
多声音楽
(ポリフォニー) 70            和音(ハーモニー) 73
合奏
(ひびきあい) 78              流行歌 81
ひびき 84                 朗読の詩 86
声で読む 88                物語の朗読 92
日本歌曲 97                リズム 100
言葉以前 103
V 太田水穂、太田青丘と有縁の人びと
遠くを見る人 108
.             日本語の詩人 114
現代をうたう 126
.             三十一音の象徴詩 131
太田水穂歌曲とその背景−信時潔
(のぶとききよし)・時代を超えて− 142
水穂歌曲の演奏とその後−潮音創刊九十周年祝賀会で− 148
言葉を聴く 153
W 天体の中に棲む
山びこ達の集まり 160
.           余韻 164
楓 170
.                  満月 176
言葉の空気 182
.              ベルリン紀行−モスクワの雀− 188
ブランデンブルク門の風 193
.        旅の軌跡−ベルリンへの旅− 199
アポリジニとモーツァルト 205
V 出逢い
ヴァイオリン 214
.             ジャンヌ・イスナール夫人  218
野口晴哉
(はるちか) 225            四賀(しが)光子 237
加藤楸邨
(しゅうそん) 241            峯村英薫(ひでしげ) 243
小倉朗
(ろう) 251               芥川也寸志 256
兎束
(うづか)龍夫 260             青木十良(じゅうろう) 265
あとがき 272



 耳からの日本語

 (一)

 二年ばかり前に、私は珍しいパーティーに招かれたことがあった。国際結婚をした人達が集まって、子供達のためにクリスマスを祝った時のことである。
 夫は皆日本人で、アメリカ、フランス、ブラジル、エクアドルから来た妻達は、必ずしも日本語が上手いとはいえない。日本語以外殆ど話さない私がそこへ招かれたのは、子供達に音楽を聞かせてほしいと頼まれてのことであった。
 混血の子供達は、勿論、二ケ国語を話すことが出来る。母親と話す時は母の国の言葉。父親と話す時と、子供同志は日本語である。この日の集まりの中で、たった一人の日本人の大人の女性である私は、しばらくこの様々な顔色の人達の動作や言葉に圧倒されていた。
 そのうち、父親の一人が、十人ばかりの子供を集めて、〈いろはガルタ〉を始めた。子供の頃以来、すっかり縁遠くなっていた〈いろはガルタ〉との出逢いに、私は驚いた。自分の子供達にさえ、いろはガルタをさせた覚えがなかったからである。
 混血の子供達は面白そうに遊び出した。

  るりもはりもみがけばひかる
  くさいものにはふた

 忘れていた言葉の記憶が私に蘇った。
 子供達の目は活き活きとして、未だ学枚へ行かない小さな男の子さえ、自分が覚えた僅かのひらがなを探すのに夢中になっている。
 いろはガルタの限られた枚数のカードに十本もの腕が延びて、得意のカードを取ることは仲々難しい。中には、あきらめたり半べそをかいて母親の膝にしがみつく子供もいる。母親は子供の目を見つめ乍ら、やさしく話しかけている。何か、慰めの言葉をいっているらしい。
 外国語を使って駄々をこねる子供の可愛らしさと珍しさに惹かれて、私はしばらく子供達の口元を眺めていた。日本語でわいわい言っていた時の表情と違う顔付になるのが面白い。この子供達の頭の中で、言葉のスイッチが突然切り変って、何も混乱が起きないらしいことは、先ず羨しいが不思議でもある。しかし、じっと注意していると、子供達の日本語は、父親の話す日本語とも少し違っているようであった。
 何故だろうと私は耳を澄ました。唇をぶつけて音を出すマ行、バ行、パ行や、舌を上顎に付けなければ音の出ないタ行、ナ行、ラ行の音に特徴があるようである。多分、母親の話す外国語には子音が多いせいで、それらの音を出す時、外国語の子音に近い発音をするのであろう。母親とだけ話す機会の多い小さい子供ほど、その影響があるように思われた。この子供達の声は、舌で鳴らす音を、普通の日本人より幾分奥から発して出しているのである。又これらと組み合わされた他の音にも少し違ったひびきがあって、そんなせいか、言葉がいくらかなめらかに、リズミカルに聞こえるのであった。
 一方、日本語の父親達は、交代で熱心にカルタを読みあげ、時々子供達に言葉の説明をしてやったりもした。父親達の職業はさまざまで、学者、牧師、商社マン等、留学や仕事先の国で知り合った女性を伴っての帰国者達である。子供達に何度もせがまれての繰り返しで、少々うんざりした顔を見せ乍ら尚カルタをつき合っている。私はそのただならぬ熱意と努力に打たれる思いがした。

 ここで私は二つのことについて考えた。その一つ。そこに集まっていた子供達と同じ年頃の今の日本の子供の殆んどは「いろは」を知らない。公立の小・中学校では国語でいろは四十八文字を教えないので、正確に最後まで「いろは」を知っている若い人は稀である。書道の稽古などを除けば、学校の音楽の授業の中で音階として使われるイロハニホヘトまでを知っているだけであろう。
 公立の学校の音楽で使われる音名は、本来、英語、又はドイツ語のABCDEFGの音の名を、日本語の教育の中で古くから使われて来たイロハニホヘトに当てはめられたものである。しかし、「いろは」を習わない今の子供達には、音の名前とイロハの文字との結びつきはとても困難なのである。まして一般に使われるドレミファソラシ(ド)というイタリア又はフランス系の長音階の呼び方がハニホヘトイロ(ハ)と言い換えられるに至った、その出発点が「イ」であると気づくのは難しい。
 「いろは」を国語教育から外してしまった時点に、この音楽教育での困難は考えられていただろうか。
 歴史的な言葉であった「いろは」をカルタ取りで教えている様子を見て驚いたのは、このような現実をふり返ってのことであった。
 もう一つは、この両親達が、子供に夫々の国語を熱心に伝えようとしていることである。語りかけ、耳で聞かせ、口で言われる基本に文字を結びつける方法の確かさを、言葉を覚える方法として今さら深く感じ止める思いであった。
 これから、日本語は一体どのような人達が正しく受け継いで行くのだろうか。私は音楽の出番を待つ間、しきりにそんなことを考えていた。

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 芸大(ヴァイオリン専攻)卒で歌人でもあるという著者の、様々な活動を通して発表されたセッセイ集です。西洋と日本の音楽の違いについて論じたエッセイが多いのですが、ここでは「U 言葉の音について」から「耳からの日本語」のうち(一)を紹介してみました。
耳で書いたエッセー≠ニ銘打つだけあって「混血の子供達」の母国語と日本語の違いから来る発音への視線が秀逸です。音楽家ならではのものと云えましょう。後半の「イロハニホヘト」は、戦後生まれであっても、さすがに私たちの団塊年代では判る人が多いと思います。しかし「ドレミファソラシ(ド)」が「イタリア又はフランス系」であるということは知りませんでした。音楽家なら常識なのでしょうが、ちょっと分野が違ってしまうと、そんなことも知らないのかと我ながら恥じ入る次第です。そんな面でも勉強になりました。音楽好きにはお薦めです。



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