きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
2007.10.15 箱根・湿生花園のコウホネ |
2007.11.10(土)
日本詩人クラブの11月理事会と例会が東大駒場で開かれました。理事会では、第1回の「詩の学校」が10月18日に開かれたこと、3賞の選考日程が決まったことなどが報告されました。内容の一部は日本詩人クラブHPに載せましたし、会員・会友の皆さまには会報『詩会通信』で報告されますからご参照ください。
例会の講演は、詩人であり駐日クロアチア共和国大使のドラゴ・シュタンブク閣下。講演の前には、クロアチアを研究している東大教授の「クロアチアの歩み」という紹介もあって、日本人には馴染みの薄い国を理解するのに大変役立ちました。講演は大使らしく、DVDを使ってクロアチア共和国の紹介、日本との関係から始まり、クロアチア語での閣下ご自身の詩の朗読もあって、今までになく異色なものとなりました。クロアチア語はやわらかく、抒情詩向きだなと思いました。アメリカの作家、レイモンド・カーヴァーとの交遊を詠った詩もあって、さすがは国際的な詩人と敬服しました。また、希望者全員にクロアチア政府観光局の日本語のパンフレットも配布され、多くの人が地中海の美しい風景に魅了されていたようです。
雰囲気は写真のような感じです。講演は英語でしたから、翻訳を同時通訳の専門家にお願いしました。閣下ははっきりした英語で、聞き取りやすかったとは仲間内の評です。来場者は70名近く。私はDVD操作を担当しましたが、パソコンが使い慣れていないVISTAでしたから、ちょっとマゴマゴしてしまいました。ご来場の皆さまにはお見苦しいところがあったかと思います。改めてお詫びいたします。
講演のあとは会場を移して懇親会。閣下がクロアチアのワインを持参してくれて、堪能しました。会の終わり頃に先に退席なさいましたが、その際は全員と握手してお帰りになりました。ちょっと感動ものでしたね。9月の日本ペンクラブの講演に引き続いて、日本詩人クラブでもご講演くださったこと、おいで下さった皆さまに感謝いたします。ありがとうございました。
○文芸雑誌『新松柏』17号 |
2006.2.20 千葉県柏市 堀勇蔵氏方・新松柏会発行 800円 |
<目次>
表紙題字/小野寺千草(書家) 表紙イラスト・文中イラスト/朝川 彪
評論
田園小詩とその周辺 高村光太郎作品から…高原村夫 1
俳句
松籟抄(8)…大山蒼明 4. 春の野は…浅河守二 6
エッセイ
子育ての背景とモラル…山田あつし 9 年末−、河豚に思う…後藤雄克 11
同級生同志の結婚…瀬木志津夫 13 東庄、夏目の郷…市田祥子 16
カーネーションは白…伊藤嘉昭 18 明るい家庭内離婚…森長玉子 21
蜂…福田雄幸 24
紀行
銀の鐘…吉田かつよ 27 旅の発見(2)竜飛崎――、風の岬を訪ねて…幸治典子 32
小説
追憶…山内次郎 38 羽田発、最終便…くりたあけみ 55
幾山河(二)…小林彦四郎 62 あした会おうね…ちくまゆき 81
ウィーンの春…田部浩二 96 遠き楽園…堀 勇蔵 108
会員の便り…13・31・144. 心に残った言葉…144
執筆者住所…145. 編集後記…146
風は地球の息吹である。地球誕生の三五億年前からあったであろうし、地球の過去、未来を繋いでいる。太古の昔より地球のすみずみに風を送り、激変する環境を整え、植物にとっては種を運び繁栄をもたらし、動物にとってはあるものは風を利用し獲物を捕獲し、あるものは風によって移動し、人も風に乗って航海した。風は勿論災いをももたらしてはいるが、風のおかげで環境が保たれ、生物は生き
られる。
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紹介したのは幸治典子氏の紀行文「旅の発見(2)竜飛崎――、風の岬を訪ねて」の後半部分で書かれている文章です。竜飛岬を訪ねて、風車による発電を見学したときのものですが、風は「地球の過去、未来を繋いでいる」という認識は新しいと思います。風は大気の粗密によって起こりますが、この現象は過去も未来も変わらないでしょうね。同じ新しさという面では「激変する環境を整え」ているというところも挙げられます。風化を考えると、確かに環境を均(なら)したという側面があると云えましょう。身辺雑記の範疇から出ない紀行文が多いなか、特筆すべき文章だと思いました。
○文芸雑誌『新松柏』20号 |
2007.10.15 千葉県柏市 堀勇蔵氏方・新松柏会発行 800円 |
<目次>
表紙題字/小野寺千草(書家) 表紙イラスト・文中イラスト/浅河守二
評論
心に残る一首…高原村夫 1
エッセイ
モラル雑考…山田あつし 3 老いと向き合う…吉田かつよ 5
配所の月…新谷蜂朗 9 とおい記憶…ちくまゆき 11
額に記された運命…ななせまま 14 俳画と人生…福田雄幸 17
俳句
抄籟抄(11)…大山蒼明 20 抒情画 平成十八年…浅河守二 22
詩
物語・女子学生…高原村夫 24
小説
義弟…有間やす子 26 祭りの日…市田祥子 40
いじめ…山内次郎 43 僕の名はグレゴリオ…くりたあけみ 56
はぐれ小鳩…幸治典子 63 用水路にて…田部浩二 72
南十字星…川口寿子 82 不安…白井敦子 89
空港ホテルにて…堀 勇蔵 93
会員の本…2 会員の便り…92
心に残った言葉…39・42・62・126. 執筆者住所…127
編集後記…128
一人ぽつねんと部屋で過ごすのにも耐えられなくなり、天気の良い日を見計らってスケッチブック片手に戸外へでた。『ああ、いつの間にか木々の梢が色づき始める季節になっている』と思いながらも、前のように晴れやかな気持ちで見上げることができない。かつての恋人は、今、忙しく立ち働いているのだろうか。
ふと、以前つき合っていた彼に会いたくなった。学生時代の友人で美大のデザイン科を卒業し、工業製品のデザイナーとして一線で働いている。彼にこの心情をうち明けて、慰さめられたいと密かに思った。しかし、『どうせ端から相手にされないだろうな』と思い直した。やっぱり一人で生きなくっちゃ。私の人生。私の時間。どう切り開いていくべきか。生活設計もなく、寄る辺とする家庭もなく、中年世代へと突入の独身の女が仕事を干されて、いく当てもない。公園のベンチに座ってスケッチブックを広げ、ともかく、絵を描こう。学生の頃のさざめき立つような青春の日々に帰ったつもりで、木々の木漏れ日を心に宿る原風景で描こう。そのうちきっと何かが見えて来るだろう。時間はある。焦ることはない。私の時間を愉しめばいい。そう思い直して鉛筆を走らせた。
目線の横から一羽の鳩が飛んで来て視野の中央に入ってきた。鳩は地面に降りぴょこぴょこと首を振りながら歩いていて、やがて私に近づいてきた。見ると片足の指がないのだ。群からはぐれたその一羽はぽつねんと私の足下近くに寄ってきた。
「私と同じね。はぐれ小鳩さん」と言うと鳩は私の足下にうずくまった。私の手元には与えられるエサらしき物は何もない。ベンチに腰掛ける私と、うずくまる鳩は、しばらくそのままの姿勢でお互いの寂しさをなぐさめあっていた。
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幸治典子さんの小説「はぐれ小鳩」の前半部分を紹介してみました。そろそろ「中年世代へと突入の独身の女」の一日の場面です。会社の冷たい待遇に耐えられなくなって辞めた「私」が、公園でスケッチをしていて「一羽の鳩」に出会うのですが、「お互いの寂しさをなぐさめあってい」る様がよく出ていると思います。このあと「私」は同じマンションに住む未亡人と親しくなり、やがて自分の道を歩もうと決意します。一人の女性が生きる姿を鳩に照射した佳品だと思いました。
○加藤曙見氏書作集『歌 −中野重治を書く』 |
2007.11.9 東京都品川区 ジャパンビルド刊 500円 |
<目次>
中野重治という人の詩について 増田龍二 4
作品@ 8 作品A 9 作品B 10
作品C 11 作品D 12 作品E 13
作品F 14 作品G 15 作品H 16
作品I 17
詩(「歌」) 18
作品J 22 作品K 23 作品L 24
詩(「雨の降る品川駅」) 25
中野重治を朗読する 加藤曙見 28
加藤曙見略歴 30
中野重治を朗読する 加藤曙見
昨年の作品展『「ランボー」を書く』を、今年9月に、伊豆高原池田20世紀美術館画廊レジエで展示させてもらった。そのオープニングイベントとして、「ランボーを語るお茶の会」を、伊豆高原文庫 水橋斉氏の協力で開催した。ランボーを語るってどうしたらいいの?と私は心配だったが、水橋氏は「ぶっつけ本番です。ライブの面白さです。」その通りだった。集まってくれたのは伊豆高原と下田の作家たち。
私がもたもたしているうちに、ランボー詩の朗読になった。水橋氏の日本語での朗読。Philippe Bergonzo氏のフランス語での朗読。私はフランス語は全くわからない。耳のそばを小川が流れていくようだ。
日本語なら、聞けば意味はわかる。しかし、耳から入ってくる言葉と目から入ってくる言葉は違う。脳科学者は、脳の違う部分が働いていると言うだろう。ただ、日本語ならわかる、と言っても、複雑な文章や聞き取りにくい場合は、単語しか聞き取れない。読み聞かせのために、単純な文章をゆっくり読んでくれるのでなければ、目で読むように理解するのは難しい。朗読は、わかるように読むわけではないだろう。朗読それ自体に意味があるのだろう。
詩を音として聞くことなのだろうか。
それなら、何語というより、音の響きや読み方の効果の方が大きい。
その後、東京から来てくれたランボーのごとき若き詩人前川仁之氏の自作の詩の朗読。言葉の洪水のようなドラマチックな朗読。
詩の音楽を聞いた時間だった。
そして、その時、朗読と書は似ているのではないかと思った。私の書は、私が紙に書いた朗読だ、と言っていいのではないか。
詩を書いた人は、朗読されたくないかもしれない。または、詩人の望むような朗読でないかもしれない。しかし、一旦発表されてしまったら読者がどのように読もうが、詩人が拒むことはできない。どのように読むか、はどのように感じるか、ということでもある。
さて、中野重治の詩はどのように朗読しようか?
中野重治は、「歌」「雨の降る品川駅」を書いた時、意図するものがあったかもしれないが、私は私が感じたように朗読したい。
「歌」を読むと、私はいつも、北陸人である中野重治を感じる。「赤まま」という言葉が出てくるからだと思う。子供の頃、どこにでもあった。赤まま、は北陸だけの言葉ではないのかもしれないが、中野重治もこの花を見ていた、と思うと彼を身近に感じる。上べだけのことは言えない、朴訥に見えて繊細な北陸人。四高生だった中野が金沢の街を歩きながら、自分自身に言い聞かせていたのではないか。
「雨の降る品川駅」は寂しい悲しい詩だ。別れだけでも悲しいのに雨が降っている。悲しい詩だから、泣きながら朗読すればいいわけではない。淡々と朗読した方がいいだろう、と考えながら書いた。
二〇〇七年一一月
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中野重治の詩「歌」を10枚に、「雨の降る品川駅」を3枚に書いた書作集です。目次の「作品@」〜「作品L」は、Macの人は文字化けして読めないかもしれませんが、1〜13の追い番です。読み替えてください。
著作権の関係で書を画像でお見せすることは避けますが、書家の「中野重治を朗読する」がとても良い文章なのでこちらを全文紹介してみました。「朗読と書は似ているのではないかと思った。私の書は、私が紙に書いた朗読だ」というところが新鮮です。これは書家でなければ書けない言葉ですね。続く「一旦発表されてしまったら読者がどのように読もうが、詩人が拒むことはできない。どのように読むか、はどのように感じるか、ということでもある」という文章にも魅了されています。書家とはどのように文を感じているのかを知らされた思いです。
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