きょうはこんな日でした【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「モンガラカワハギ」 |
1999.12.27(月) その1 その2へ
今日で仕事もオシマイ、と思ったら、増産対応で29日も出勤になってしまいました。不況の中での増産ですから文句も言えないのですが、なかなか年末がやってこない感じです。サービス業などで年末も年始もないという方のお気持ちが、ちょっぴり判った気がします。少しは大人になったかな(^^;;
○月刊詩誌『柵』157号
大阪府能勢町 志賀英夫氏 発行
風のパラドックス/山崎 森
まともな人間が眠るように
風も海や山や雲を枕にして眠りにつく
公園の立木は手を握り腕を組んで
ラ・クンパルシータを踊る
町ぞいに立つ電柱や鉄塔も
あたまにウエーブをかけ
臨界事故の起きた工場のまわりを
ノンデンジャーと囃し詐る
風が吹かない日は
教会の鐘も遠くまで響かない
囚人たちは濡れた洗濯物を
両手でぶら下げ塀の上に立っている
いつになったら乾くやら
台風 ハリケーン サイクロン
トルネード ブリザード
気をつけろ 足元のキクロスに
大昔のギリシャ人や印度人は
地水火風を生命の根源と考えた
中国人は木火土金水で
風が入っていない
どこ吹く風と気にしていないのだ
元寇のときも台風を無視して
二度も大敗したがおらの国じゃ
神風が吹いたという阿呆がいまもいる
*
Kyklos(G) 蛇のとぐろ
最後の二行に惹きつけられました。最近は見かけない痛快なモノ言いで、胸がスーッとした感じです。阿呆がだんだん多くなっている気がしませんか? 阿呆には何を言っても無駄なので言いませんが、どこかでウサ晴らしをしたいものです。それを山崎さんがパッとやってくれて、すっきりしました。
風というのは考えてみると不思議なもので、空気の疎と密の組み合わせにすぎないんですが、本当にそれだけだろうかと思います。なにか意志を感じるときがありますね。風の温度との関係があるのかしれません。昔、パラグライダーで遊んでいた頃、アーヴェントという現象に出会ったことがあります。夕方になると昼間暖められた南の斜面から、気温差によって発生する上昇気流のことです。穏やかな安定した風で、機体を制御しなくても漂うほどで、この時ばかりは母なる地球を感じたものです。そんなことをこの作品を通して考えました。
それはそれとして、中村不二夫さんが「詩人の原郷と評伝」というエッセイの中で私のことを取り上げてくれていました。5月に出した拙詩集『特別な朝』に関連しての話です。ここで彼は自分の生い立ちについて述べています。12/26にお会いした時も聞いたのですが、初めてそのようなことを書いたそうです。「村山にハメられた、書かなければ良かった」などとおっしゃっていましたが、なんのなんの、評判はいいですよ。仲間内では中村不二夫を見直したという声がしきりでした。そういう評判のきっかけを私が作ったのだとすれば、友人としてこんなうれしいことはありませんね。
○馬淵庚介氏詩集『落日考』
1999.12.2 追補再版 白地社刊 500円+税
C瀧雨水
みの
假る小蓑の
雨水拂らふも
庇漏る
澗の飛雨こそ
湛へけれ
よ
指の昏せゆく
いし
棊局のつら
半眼に惑へば
お
春峯沁む雨は瀧よりはやくして
どうにも意味が掴みかねて困ってしまいました。「棊局」がまったく判りません。国語辞典、漢和辞典、広辞苑、果ては古語辞典まで引っ張り出して調べてみましたが、駄目でした。同じ日本語を扱っている者同士なのに、意味の疎通ができないという現状に愕然とする思いです。著者略歴によると馬淵さんと私は、わずかに20年しか違わないというのに…。
漢字の表記も心配しましたが、まあまあでした。「半」だけは旧字が無くて、これで勘弁してもらいました。最近のパソコンもそこそこ表記できるようにはなりましたが、このように所々が抜けますね。
作品に戻りますと、句に惹かれました。「峯沁む」は「惜しむ」と受けとっていいだろうと思います。驟雨は夏の季語ですから、ちょっと違うかもしれませんが、近いイメージで受けとりました。瀧より早い雨、というのは言い得て妙だと思います。
○詩誌『回転木馬』107号
千葉市花見川区 鈴木俊氏 発行
少し/村上久江
少しと言う
肉も魚も野菜も少しでいいと言う
口癖のように男の少し
踵に重心を置くような
女のような内股を
いつか笑った
笑っても怒らない七つ年上と暮らしてきた
「ではこの位」
男の少しをわたしは
眼で心で甘さで辛さで表情で計ってきた
溢れる想いはなくても
溢れてしまう
二人の器
男は
ああと頷いて
今日の徒然に押し流す
テレビを見
テレビと笑い
新聞を読み
男の少しの向こうには何がある
から
男は今日の少しを空にする
男は明日の少しも頑張るだろう
この「少し」というのは私もよくやるので、判る気がしますね。食べることに興味がなくて、栄養さえ摂れればいいと思っていますから面倒くさいとついつい「少し」と言ってしまいます。それにしても女性の眼は怖いですね。「少しの向こうには何がある」と言われてしまうと、小さくなるばかりです。
大きな仕事を成し遂げて、野心を持って、と私たちの世代は育てられてきました。頭のいいヤツ、大胆なヤツ、行動力のあるヤツ、そして声の大きなヤツが高度成長時代には必要だったんです。「少し」なんて遠慮してたり、実際に「少し」しか食べられないようなヤツは、置いてけぼりでした。
その結果が今の日本になって、私もようやく「少し」としか言わない男も気持ちも判るようになったつもりです。
ちょっと視点がズレちゃいましたが、そんなことを考えさせられました。
その1 その2へ [ トップページ ] [ 12月の部屋へ戻る ]