きょうはこんな日でした ごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




1999.5.4(火)

 雨ですね。横浜−中日戦も雨で中止。喜寿の父親に頭を刈ってもらいに実家に行った以外は、終日家にこもって読書。おっと、焼酎呑んで昼寝もしたっけ、、、嘘を言ってはいけませんな。


沼津の文化を語る会会報『沼声』227号
    syosei 227
  静岡県沼津市 望月良夫氏 発行


 沼津の開業医、望月良夫さんがお出しになっている個人のタウン誌のような会報です。「随筆春秋」というコーナーでいろいろな方が招待されて書いています。その中で今号は田島光三氏の「コーミッツ」が考えさせられました。

 全国にチェーン店を持つような本屋に、本を取り寄せてもらったときのこと。本が入荷したようで、その本屋の若い女から電話が入った。

 「モシモシ、コーミッツさんいますか」
 と語尾上がりのかったるそうな口調。
 「コーミッツ・・・・・・そんな者いません」
  相手は本屋の名前を名乗り、そちらさん
 の名前が書いてあるとムッとした声で言うで
 はないか。そこでわたしはハッと気がついた。

 そうです、田島さんのお名前の「光三」を「コーミッツ」と読んだんですね。救いようのないおバカさんですね。呆れました。田島さんの兄上は「光一」さんとおっしゃるようで、それなら「コーヒトツ」と読むのかと怒っていますが、お気持ちがよーく判ります。
 ここまでなら、まあ、あまりないけど、あり得る話かな、で終るんですが、私が感激したのは田島さんの締め括りの文章です。

 それにしても親の顔とか、学校教育を云々す
 る前に、非凡なる読み方に敬意を払わざるを
 得ない。

 こういう大きな心をオトナと言うんでしょうね。まだまだ自分の小ささを感じます。


隔月刊詩誌『東国』107号
   togoku 107
  群馬県伊勢崎市 小山和郎氏 発行

 
1/19にも書いたんですが、北川有理氏に注目しています。前号の作品はきちんと読まなかったんで、今号はまじめに読んでみました。

 △管系題名詩
   これがリルケのものした詩……
 ▼管刑掲揚死
   これがリルケのものした詩のモチーフになった神話……
 ▲管軽福祉
   これがリルケのものした詩のモチーフになった神話のものがた
  られた次第……
 ▽管然似同士
   これがリルケのものした詩のモチーフになった神話のものがた
  られた次第のもろ刃の剣なす修辞……
        (「ベンゼン管の壊九竅(エクリプス)」部分)

 解説するまでもありませんが「管系題名詩」は関係代名詞、「管刑掲揚死」は関係形容詞と読んでいけば判ります。8頁に渡る作品を同様にして当て字を元に戻して読めば、作者の意図はある程度理解できます。リズムもあって語彙も豊富で、理系と文系の頭を適当に切り換えながら読み進むのは、ある意味では脳が活性化されて楽しくなってきます。
 作者の意図がそこにあるのだとしたら、もうこれ以上言うことはないでしょう。私もそういう作品は好きなので、自分でも作ってきましした。書いた本人にとっては今だに愛着のある作品です。自分もやってきたことですし、頭から否定する気はまったくありません。

 ただ、なんと言うか、もったいない気がして仕方ありません。これだけのリズム、語彙、詩心を持っているんだから、もっと別の表現でやってくれれば、日本の詩史に残る作品を書ける人ではないかと思います。この書き方では駄目だと思います。関係代名詞を「管系題名詩」と書いてなんになるのか。「管」は「ベンゼン管」の「管」だから認めるとしても「系」や「題名」はなんと説明できるんだろう。
 もちろん詩は、すべてが説明できなければならないというものではありません。しかし私は、他人に説明する必要はないけど、作者の中ではすべて説明可能なことが当然だと思っています。それが詩に対する詩人の態度だと信じています。北川さんと直接お話ししたことがないので、そこはどんな風にお考えになっているか判りませんが、この作品を拝見する限りでは、ご自身でも説明つかないのではないかと思います。
 なんか珍しく苦言を呈する書き方になってしまいましたが、作者の才能を高く買った結果だととらえてくれれば幸いです。

 という訳で、そんな頭で「あとがき」を拝見すると、「この死語とに関わる」というフレーズを発見。仕事≠フ誤植だと思うけど、違ったりして(^^; 死語と≠ェ正解だとすると、私のこの前の文章は前提条件がすべて崩れるなあ。



 
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