きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり
murasame mongara
新井克彦画「ムラサメモンガラ」




2000.11.4(土)

 11/4の日記を11/8に書いています。HPを更新するより同人宛の月報を優先しました。ですから、この間にいただいた本はまだ読んでおりません。お礼が少し遅くなりますけど、ご勘弁ください。
 で、11/4の話。ちょっと記憶もあいまいになっているところがあります。でも、きちんと記録しておかなければならないこともあるので、書いておきます。
 当初の予定を変えて『地球』の「世界詩人祭2000東京」に出席したのは、11/3に予告した通りです。その前に中学校PTA主催の校内美化作業に午前中行ってきましたけど…。これはこれで枯れた松を伐採したりして、おもしろい経験をしました。
 「世界詩人祭2000東京」に行った理由は、午後の分科会で「情報化時代と詩」があったからです。コーディネーターの一色真理さんやパネラーの中村不二夫さんから「出てこいよ」という誘いがありまして、私も興味のある分野でしたから、夕方に予定されていた自治会役員会をキャンセルして参加しました。

001104-1
パネラーの皆さん

 まあ、こんな感じでした。話の内容は一色さんの最初に提案によって、
1.マスコミによる大量の情報に対して、詩人はどういうスタンスをとるべきか。
2.インターネットは詩をどう変えていくか。
 を中心に話し合われました。しかし、どうしてもインターネットの功罪にようなところに話は行ってしまいましたね。日本ペンクラブの電メ研でも中心になる話ですから、これはし方のないことだと思います。
 一色さんから事前に「パネラーが一通り話し終わったらフロアーのお前を指名するから、理系の立場で感想を述べよ」と言われていまして、その通りになりました。で、私は日本ペンクラブで同じような話し合いをやっていて、副座長という立場で発言すると断わって発言しました。趣旨は、
1.パソコンは道具なんだから、使いたい人が使えばよい。使いたくない人は使わなくてもいいんだよ。
2.文系と理系ではパソコンやインターネットに対する感覚に大きな温度差がある。文系で問題になっている使えない漢字があることや、検索が貧弱なことは理系ではほとんど問題にならない。文字は当用漢字程度ですむし、理系の検索は非常に有効。例えば私の場合、1年かかってやるような問題を通産省のHPを検索した結果、たった10分で解決してしまったこともある。近い将来は文系も同様のメリットが出てくるはず。
3.インターネットは詩をどう変えていくかということに対しては、Eメールの1行ごとの改行が詩のようで、詩として読んでいる人もあり、新しい形が出てくるのかもしれない。
 というような発言をしました。まあ、いつも言っていることですし、ここでも何度も書いていることです。
 しかし、驚いたのはあるパネラーの発言。私を名指ししたわけではありませんが、発言の内容はまさに私に対してと思っていいでしょう。主に次の2点です。
1.非常に権威主義的な発言があった。
2.パソコンは道具と言うが、道具の持っている時代の感性を忘れずにしてほしい。バーチャルリアリティから来る表現もあるはず。詩人はもっと悩むべき。
 この「権威主義」というのは、私が日本ペンクラブ電メ研の副座長という立場で、と言ったことかなあ? あの場ではそれ以外考えられません。2.も「道具」という言葉で発言していましたから、これも私に対してでしょう。あの場では反論する時間もなかったし、ご本人も分科会が終ったらすぐにお帰りになったようで反論できなかったので、ここに記録しておきます。
1.権威主義について。ペンの電メ研副座長としては、権威を持とうと思っています。日本ペンクラブがもっと権威ある組織になってもらいたいと思っています。問題は、誰に対しての権威か、です。私は国民に対して権威あるものに、なんて思ってもいません。国家や官僚に対して権威ある組織になりたいと思っているのです。国家や官僚に対しては、権威ある組織でないと対抗できません。共産党以外は野党がいなくなってしまった今、ペンや文藝家協会が対抗しなくて誰がやるというのでしょう。そう受け取ってもらえなかったのは、私がそう言わなかったからですけど、私の発言態度・内容が権威主義と受け取られたなら、それは私の未熟さの所以です。
2.道具の持っている時代の感性について。マイカー時代の幕開けに、マイカーという道具を持って思ったことは、そこからは詩も文学も生まれなかったということです。表面的なチャラチャラとした表現は出てきたかもしれないけど、本質的な文学には何も関係がなかった。文学は自分の内面を探る作業、人間とはなにかを考える学問だと思います。風景として車が出てきたりインターネットが出てくることは当然あるけど、それが目的ではない。「バーチャルリアリティから来る表現」も当然あるでしょう。しかし、それはあくまでも「表現」の一手法であって、書くべき中身とは関係がない。
 うーん、こうやって4日も経ってしまうと、あの時の憤りは薄まってしまって、だいぶ冷静すぎるようです。まあ、今にして思うとそんな程度のことだったのかな。

001104-2
懇親会会場にて 右が私

 そんなことがあったせいか、この夜はだいぶ酔いました。ツブれそうになって、結局、会場のダイヤモンドホテルに泊まってしまいました。5日は早めに家に帰ったんですが、何もやる気がおきず、一日中ボーっとしていましたよ。まあ、たまには骨休めということにしました。


『麦城詩集』
baku jyo shisyu
2000.9 中華人民共和国北京市
作家出版社刊 22.00元

 会場でもらった詩集ですが、実は全部中国語。漢字を追えば多少は意味がつかめそうですけど、まったく判りませんと言うのが正確なところです。しかし、中に現代中国の絵画が挿絵として16枚入っていて、これは楽しめます。それだけでも価値のある詩集と言えるでしょうね。それにしても言葉を越えて、絵画というものはすごいものです。


韓國詩人詞華集『凧と案山子』
tako to kakashi
2000.11.3 地球詩祭 世界詩人祭2000東京 非売品

 世界詩人祭を記念して発刊されたようです。韓国の詩人25名の作品が、韓国語と日本語の対訳で載っています。

 詩の危機/尹徳淑

緊張は屋根の下にもある
ゆるみの無い不安を醸し出す
詩こそ
時代の危機だ
冬を抱えている風は
風であるだけで
い空は
空であるだけなのに
愛することを知らないばかりに
互いに慰められない
人間は
光が降り注ぐ窓邊に座っていても
二つの手を 合わせることを知らない
あ、秋の山のすそに 山ばと一匹
草むらに くちばしを埋め鳴いている (高貞愛 譯)

 「ゆるみの無い不安を醸し出す/詩こそ/時代の危機だ」というフレーズに惹かれました。正確な意味をとらえるのは難しいのですが、私は時代への危機∞時代に対する危機≠ニして「ゆるみの無い不安を醸し出す/詩」を考えてみました。意味が深くなるように思います。


文学アカデミ詞華集『韓国詩 35人選』
anthology of 35 comtemporary korean poet
2000.11.1 韓国ソウル特別市 文学アカデミ 発行 7000ウォン

 こちらも世界詩人祭を記念しての発行のようです。こちらも日韓の対訳になっていて、韓国の人たちの、この大会に寄せる思いに敬服しています。

 我我は囚われているから/文京
(ムン キィョン)

地球が転ぶ音を聞いた人はない
人が逆さに歩いていると信じる人もない
虚空には取っ手がないから
誰が地球を回転させるのか説明する人もない
我我は囚われているから.

 小品ながらおもしろい作品ですね。「虚空には取っ手がないから/誰が地球を回転させるのか説明する人もない」という発想は斬新です。なぜ地球は回転しているのか、私も説明できません。「我我は囚われているから」という視点も重要です。この詩人のスケールの大きさに脱帽です。



 
   [ トップページ ]  [ 11月の部屋へ戻る ]