きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.11.11(土)
会社で契約している市ヶ谷の安いビジネスホテルでぐっすりと眠って、朝は爽やかな目覚め。なにせツインベッドの部屋でバス・トイレもテレビもあって2100円、というんですから2日間都内にいるんだったら帰るよりも安い。約束された爽やかな目覚め、、、と思っていたら、朝の6時前に変な音で起されてしまいました。グツグツ、ガタガタと、どうも隣室の電気ポットでも煮立っているような音。火事でも起されたんではタマンナイから、壁を思いきり蹴飛ばしましたけど、変わらず。どこかの部屋の人も気づいたようで、その人はわざわざドアまで行って、ドンドン叩いていましたけど、変化なし。1時間ほどしたら急に音が止んで、やれやれ。しかし、30分ほどでまた復活。危険は無さそうなので今度は無視しましたけど、あれはいったい何だったんでしょうね。
知らない場所で泊まる怖さを久しぶりに体験しましたよ。最初の体験は20歳頃。貯金をはたいて買った350ccのバイクにテントを積んで、山の中に行きました。それが一人でテントに泊まる最初の経験だったかなあ。夜中にテントに何かぶつかる音がして目覚めました。恐る恐る原因を探ってみると、なんと蛙。蛙がテントに這い登ろうとしていた音だったんですね。それが判るまでは怖かったなあ。
そんな訳で、多少、寝不足の頭で日本詩人クラブの11月例会に出てきました。こちらはおもしろくて眠気なんか吹っ飛んでしまいました。目玉は、先輩詩人の語る「日本詩人クラブの今昔」。
西岡、天彦、金子、丸山の各氏 |
寝てる人はいないかあ(^^;; |
昭和30年代から50年代の詩人クラブの状況を鼎談で語ってくれましたけど、おもしろいと言うか、大変な時代だったようです。会計や人事なんかメチャクチャで、運営費は当時の理事長だった西條八十のポケットマネーから出ていたようですね。今のように役員公選、会費徴収の制度がちゃんとできたのは20年ほど前のようです。私は1989年入会ですから、もちろんその時代は知りませんが、著名人の集まっていた当時の状況からすると、十分想像できることです。
それはそれで良さもあったんでしょうが、組織の継続を考えると、2年交代の役員人事や会費滞納者の除名という制度は近代的で合理的だと思います。そしてこれからの課題は、私個人の希望ですけど、日本現代詩人会との合併です。合併して2000人なり3000人なりの組織にして、社団法人になって文部省や文化庁に圧力をかけられる詩人の団体にしたいですね。そうしなければ詩人の権益は守れません。例えば教科書に載せられる詩。きちんと著作権料をもらっている人が何人いることか。教科書に取り上げられたからうれしい、と言うのとは次元の違う問題があると思っています。ちゃんとした対価を払わないということは、それでメシを食っているプロの文学者に対しての圧迫になると思いますからね。
○詩誌『掌』121号 |
2000.11.1
横浜市青葉区 志崎純氏発行 非売品 |
少年法/石川 敦
ある国ではなあ
赤ん坊がいつのまにか
妖怪になってしまうそうな
何でもなあ
お父つぁんも お母つぁんも
仕事だ 忙しいだと口実作って
家を留守にしてな
そこへ魔物が忍び込むんじゃ
そいつがな
世の中は思い通りになって
何をしてもいいなどと
あれこれ悪いこと教えてなあ
十五年ぐらい経つと
見た目は人間だけど
中身は妖怪になっとるんだと
妖怪になると
身体障害者に暴力は振るうわ
妊婦の腹部を殴っては金を奪うわ
面白半分でバスを乗っ取るわ
挙げ句に
快楽や妄想や本能しかないから
乳飲み子だろうが
老人だろうが
誰彼構わず殺すんじゃ
そこでなあ
妖怪になっちまったら
人には戻せないし
そいつを退治する法も
まだないんじゃと
辛い作品です。「魔物」とは誰なのか。あるいは自分自身ではないのか、という気がいつもしていて、ついつい眼を背けたくなります。しかし現実に少年犯罪が多発していくと、眼を背けたいとばかり言ってはいられません。自分の子も、PTAとして関与している中学校の子たちもしっかりと見なければいけない年齢に、私も差しかかっています。
やはり「魔物」とは私たち自身であるように思えてなりません。私たち自身が強い者に巻かれて、ご都合主義で、正義をまっとうに見ていないことが「魔物」である証拠にように思います。他人より高い教育を得て、他人よりいい職業に就いて高い給料を取り、他人より1坪でも大きな家に住むことを人生の目標にしてきたわけですから、十五の少年にとっては「魔物」でしょうね。
辛いのは「妖怪になっちまったら/人には戻せない」というフレーズです。現実はそうかもしれません。しかし自分たちが作った「妖怪」を、自分たちが「人には戻せない」としたら、「妖怪」は成す術もありません。それが現実の姿だから、ほんとうに辛い。考えさせられました。
○個人詩誌『TATAAR』9号 |
2000.10.28
鳥取県米子市 牛童舎・小林尹夫氏発行 非売品 |
いつも渡る橋のたもとにも裂け目と隆起・陥没が現われていた。
そうだ。此岸と彼岸は橋で結ばれていたのだ。男と女も、親と子も。
つくろうても、つくろうても、亀裂は亀裂のままで残り、橋の場
所を移したとしても、川には杭が哀しい傷として、残る。
そして、十六日の月が、初めて生まれるように昇る頃、やさしい
犬は眼を一層深くして、沈んで行った。 「亀裂」部分
鳥取県西部地震を体験しての作品のようです。小林さんも被害に遭ったのでしょうか。被災した皆さまにお見舞いを申し上げます。
詩人や作家というのは嫌な人種で、こういう被害に遭ってもそれを作品にしてしまいます。絶好の機会とばかりに作品化するんですから、普通の神経ではありませんね。それだけ本質的には逞しいのだと思いますけど…。小林さんも例外ではなく「いつも渡る橋のたもとにも裂け目と隆起・陥没が現われてい」るのを見て「此岸と彼岸は橋で結ばれていたのだ。」と発想していきます。これが詩人の目です。そして書くことが詩人に与えられた仕事で、小林さんはそれをきちんとやりました。そうやって被害を乗り越えて行く力が、鳥取の人たちに伝わっていけばいいなと思いました。
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