きょうはこんな日でした 【 ごまめのはぎしり 】 |
新井克彦画「ムラサメモンガラ」 |
2000.11.17(金)
術後2日目、うちでおとなしくしています(^^;; 我ながら驚いたのは昨日ですね。予定では、昼寝はしてもあとの時間は本を読んでHPにアップするつもりでした。結果は、、、まる一日寝てました。自分でもよく眠れるなと思うくらい寝ていましたよ。それも酒も呑まずに…。術後1周間は禁酒を申し渡されていまして、眠れなくなる心配があったんで睡眠薬をもらっていましけど、それも使わずに眠り続けました。嫁さんに言わせると「やればできるじゃん」ということですが、身体が心配だなあ(^^;;
ほんとうに1周間も禁酒なんて、この30年間ありませんでしたから、まだ自信がありません。20年くらい前に胃潰瘍で2週間入院しましたけど、そのときも差し入れのウイスキーをこっそり呑んでいたからなあ。まあ、一生のうち一度くらいは経験するのもいいでしょう。今夜は睡眠薬のお世話になるくらい体力が快復しているといいんですが…。
○木全功子氏詩集『耳の感触』 日本現代対訳(英・韓)詩人叢書2 英訳(宮澤肇) |
1996.8.20 東京都東村山市 書肆青樹社刊 1600円 |
公園で
五月の公園をゆっくり
老夫婦が散歩している
ほとんど視力をなくした人と
杖をつき補聴器をつけた夫人
白い芍薬が咲いていますよ!
かすかに香りがする
老人が静かに答える
なんてきれいなんでしょう!
花は一重かい,八重かね
形の良い一重咲きですよ
歩みを止めた老人は
何か考えているようすで
白い芍薬をながめている
かたわらで夫人が言葉を待っている
なにかほんわかとする光景ですね。老いて、いろいろな障害を抱えながらも、それをお互いに補いながら散歩する老夫婦に、人生の何たるかを教えられる気分です。それをやさしく見ている作者の眼にも感動を覚えます。「ほとんど視力をなくした」目で「白い芍薬をながめている」老人、その「かたわらで夫人が言葉を待っている」様子は、ある面では寂しさもあるのでしょうが、きれいに老いていくひとつの形でもあるように思います。
○詩誌『燦α』6号 |
2000.12.16
埼玉県大宮市 大宮詩仙堂・二瓶徹氏発行 非売品 |
沈黙の受話器/ささき ひろし
「いつまでも生きていても しょうがない」
受話器越しの母の声に張りがなかった
淡々とした口調は変わらないが
他人と話しているよう・・・
沈黙が続く
数ヶ月後 カラス鳴きのする早朝
母の死を知らせる電話が鳴った
浴槽で冷たく眠っていたという
寿命なのか 事故なのか
幕切れだけは 自分の意志で選択したのか
持病の心臓病に
アルツハイマー症状が重なり
生きる気力を失っていたのだろうか
「いつまで生きていても しょうがない」
母の最後の言葉が 耳について離れない
十数年前 長期入院していた祖母も
同じ言葉を呟いていた
祖母から母へ 母から私へ
そして私から子供たちへ
同じ言葉を呟く日が いつかくるのだろうか
母のように
淡々と未練なく
考えさせられる作品です。「いつまで生きていても しょうがない」と言わなければならない「母」は、あるいは私たちが作り出したものかもしれません。生物である以上、何の病気にも侵されず天寿を全うするということはほとんど無理です。医学の進歩で30年の寿命が80年まで延びてきましたけど、人間の設計寿命と言われる125年まではほど遠い話です。少なくとも私たちや私たちの子の時代では無理でしょう。いずれ何らかの病気で死んでしまうのが私たちの運命と言えます。
それを前提にして生きていくしかないのですから、病に罹ることは当然と考えなければなりません。その上でいかに生きるかを模索するのが、現代人に与えられた課題のはずです。ところが世の中は、それを隠蔽し、いかに表面的に楽しく過ごすか、いかに富を得るか、そんなことばかりに焦点を当てすぎています。詩人はその本質的な生き方を提示できる人種のはずです。それが「いつまで生きていても しょうがない」と言わせてしまうことは、詩人の仕事をやっていないことになります。いかに自分が力を出していないか、考えさせらてしまいました。
○個人詩誌『犯』21号 |
2000.11
埼玉県浦和市 山岡遊氏発行 300円 |
つれづれに
《俗性・悪意の辞典》
A・ビアスの『悪魔の辞典』を真似て作る辞典。た〜ほ
〔多重人格〕詩人が持つべき主体。
〔天国〕どこにあるのかは不明のまま、この世の人々の様々な行為に「来れなくなるぞ!」と脅しをかけてくる至上の亡命国。
〔日本〕国債を踏み倒すしか、生きる道のなくなった演歌歌手。
〔盗人〕考えるが悩まぬ人。
〔眠れ良い子よ〕引き籠もり症のわが子の狂気に気付かない親が唱える呪文。
〔猫 〕鳴けば餌を貰える術を心得ている。爪、肌、髪の毛を染める。
〔農業協同組合〕詐取機構
〔不平等〕スタートラインであり、ゴール。
まだまだありますが、このくらいにしておきましょう。おもしろいですね。おもしろいと同時に、それぞれが『悪魔の辞典』を作る必要性も感じます。自分が言葉や現象をいかにとらえているか、の検証になりますから。しかも、いかに個性的にとらえているかの実証になります。芸術として言葉を扱う者ならば一度はやっておかなければならないことかもしれません。
山岡流『悪意の辞典』で私が一番気に入っているのは〔天国〕です。「「来れなくなるぞ!」と脅しをかけてくる」という見方には喝采。宗教の本質を突いていると思います。その脅しに逆らうのが詩人の仕事なのかな、と思いますね。
○季刊詩誌『詩と創造』34号 |
2000.11.1
東京都東村山市 書肆青樹社発行 非売品 |
土の器/古田豊治
もとは砂、
形なき水のやわらかな絹、
手の炎、炎の叫びで
こるあげられ、封印された混沌。
そのいびつな凹みに
形あるもののうつろさをもり、
時のゆらぎ、命のゆらぎに
しずもりかえる土の器。
もともと 我らが心も土の器。
一編の詩とその毒をもり
悲嘆にひび割れ、
激しく打てば砕けもする土の----。
だがもることができる。
潮を吹く一匹の青い魚と 夏の光を。
赤い実をついばんだ一羽の小鳥と その秋を。
もることができる。
一千本の赤い薔薇と
一千日の思索と夢を。
「一編の詩とその毒をもり」というフレーズがまずズシリと胸にこたえました。詩の持つ毒、ということはあまり考えたこともありませんでしたが、指摘されればその通りだと思います。意識して毒を発するのは別にしても、無意識で毒を投げつけていないかと問われれば、否定することはできません。鋭い指摘だと思います。
それにも関わらず「土の器」は「もることができる」。毒も「一千本の赤い薔薇」も「一千日の思索と夢」も盛ることができるという寛容さ。なんでもない「土の器」をそこまで見つめる作者の眼に脱帽しています。
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